足取りが重い。

二人電車に乗って、私にとっては本日2度目の、彼氏の家へと向かっていた。

隣では、呼吸の荒い平助が珍しく思いつめた顔をしている。

余裕が無いんだ、絶対。

「ん・・・なまえ・・・?」

そっと、隣の平助の手を握った。

なんて声をかけていいかわからなくて。

ありがとうも違うと思うし、ごめんねなんて言ったら、平助に怒られるってわかってるから。

そしたら「大丈夫だ」って顔して、私の頭をぽんぽんと、撫でてくれた。



私が傍にいることを、忘れないでいて欲しくて、もう一度強く、握った。



episode10 "Bye Bye"




お前は外で待ってろって言われたけれど、今回のことは完全に自分が悪いわけだし、そんなに平助に甘えるわけには行かないと、私も一緒に家まで来た。

「ってえ」

「・・・っ、」

玄関の扉が開いて、彼と平助の目があったのかどうかも分からない。

アパートの廊下に倒れ込んだ平助が、彼に殴られた口元を手の甲でぐい、と拭って立ち上がった。

「何、あんたが彼氏なわけ?」

「なまえ、遅かったな、早く・・・」

「ちょ、ちょっと待て待て!はっ・・・シカト?あんた俺より年上だって聞いてたけど、子供みてえなことしてんなよ」

立ち上がった平助を無視して、私の手を取り部屋に引き入れようとした彼の腕を、平助ががっちりと掴んだ。

「あんたが呼んだんだろ、家に来いって」

「・・・・・・お前のことは呼んでない、なまえに帰ってきて欲しかっただけだ。離せって」

「なまえ、やっぱお前、外で待ってろ」

彼を見張るように睨みつけたまま、私を自分の後ろに隠すと、扉の外へと押し出した。

「鍵、ぜってー開けんなよ!開けたら絶交だかんな!!」

「へ・・・平助っ!?」



ガチャン




冷たい音が聞こえて、一瞬で私たちは離れてしまった。

「平助っ!平助!!・・・やだ、や・・・やだよっ・・・・・・」

扉を叩きながら名前を呼んだところで、顔を出してなんてくれなかった。

そのまま、ぺたりとひんやりとした廊下に座り込んで、私は自分の腫れた頬にそっと触れた。

こんな痛み、比べ物にならないんだろうな。

すこし大きい声が外にも漏れているけれど、何を話しているかまでは分からない。

「平、助・・・」

鼻の奥がツンとして、じわりと涙が溢れてきた。

「・・・絶交って、馬鹿じゃないのっ」

膝を抱えて、私は部屋が静かになるのをじっと待つしかないと、涙を流すのを堪えていた。


私が泣いていいのは、きっと今じゃない。






抱えた膝に額をつけて目を閉じる。

・・・どうしてこんなことになっちゃったのかな。

平助が私を好きだって言ったから?

私が平助を好きだって気づいたから?

私に彼氏が居たから?

いくら考えても、分かんない。

だけど、今までの全部含めて、私が作られて、平助を好きになれたんだもん。

彼と付き合わなければ、平助の優しさにだって気がつかなかったかも知れないし。

平助に出会わなければ私は一生、本当に愛されることを知らずに、ただ作り笑いをするだけだったかも知れない。


「でも、傷つけ合わなくたって・・・」

だって、平助の・・・・・・っ、どうしよう―――、手を・・・指を痛めでもしたら、キーボード、弾けなくなっちゃう―――!

「平助っ!!!あけて!!お願い!!」

近所迷惑なのは分かっていたけれど、私のせいであの素敵なバンドが、ライブができなくなってしまったらと思ったら、やっぱり平助に頼るべきではなかったんだと背筋が凍った。

彼の名前を必死で呼んでも、やっぱり返事なんて返ってこなくて。

怖い、怖い、怖い。

傷つくのは私でいい、あなたはいつも通り笑ってて。お願い。


瞬間、コートのポケットで震えた携帯。

登録されているのは、彼氏と、今日電話をくれた平助だけ。

「も、もしもし?平助っ!?」

慌てて電話に出ると、いつもの張りがない少しか弱い声が聞こえた。

『あはは・・・動けねえや。鍵、持ってんだろ?』

「う、うんっ」

『開け・・・』

「平助!!」

玄関を開けると、目の前の廊下には平助がぐったりと倒れていた。

「なまえ・・・ってぇ」

「起きちゃだめだって!」

痛そうに脇腹を抑えながらも、駆け寄った私にぎゅう、と抱きついてきた。

その仕草が、とても愛しい。

「なまえ、寒かったろ?待たせて悪かったな」

「私のことはいいから、怪我・・・ねえ、大丈夫?」

「あいつ、良い奴だな」

「なに・・・」

こんなにひどい目に合わされて、一体何を言っているのだろうか。

「俺さ、顔と手は商売道具だからっつったら、最初の一発顔面にかまされただけで、あとは見事に体狙いやがんの・・・ははは・・・っ、くぅ・・・笑うと腹痛え」

可笑しそうに声をあげて笑った瞬間、顔をしかめてまた脇腹をさすっていた。

呑気な彼の言葉に、私のしていた心配なんて意味がなかったのではないかと、溢れた涙をそのままに、口を尖らせて平助を睨んだ。

「ばかっ・・・」

頬を伝う涙を親指でそっと拭ってくれた平助が、優しい顔で笑う。

「悪いな・・・カッコつけたかったんだよ、好きな女の前では、な」

こんなにストレートに言われると、正直ものすごくドキドキしてしまうし、彼が怪我をしていなかったら、あんまり嬉しくて抱きついていたところだ。

「あー・・・あいつ、ベッドの上で伸びてっからさ、多分意識はあると思うからちゃんとけじめつけて来いよ」

そう言って、ぽりぽりと頭を掻きながら、ほんの少し居心地が悪そうに目をそらした。




私の知ってる部屋の景色と、だいぶ違った。

強盗でも入ったんじゃないかってくらい荒れている。

「大丈夫・・・?」

ゆっくりと彼に近づいて、ベッドのそばにしゃがみ込むと、小さな声が返って来た。

「カッコ悪い、な」

「なに・・・」

「あいつにさ、なまえのどこが好きなんだって言われて、なんも言えなかった」

うつ伏せのまま、私の方を見ることもなく、ぽつりと彼が言った。

「俺さ、多分、俺に恋してるお前が好きだったんだろうな」

「・・・うん・・・」

「“ふざけんな”って、顔面に一発すげーのもらったら、目、覚めた」

「・・・・・・」

「今まで、ごめんな」

「ううん・・・ありがとう」

「早く帰れよ。あんまりここにいられると、正直つらい」

「じゃあ・・・・・・バイバイ」

楽しいことがなかったわけじゃないし、最初は幸せいっぱいだった。

素敵な彼氏が出来たと、ワクワクしていたし、優しいところもちゃんとある。

それでもこうして気持ちがすれ違ってしまうと、もとに戻ることなんてできなくて。

彼に“バイバイ”と告げたら妙に、切ない気持ちがこみ上げてきた。



廊下に戻ると、壁にもたれかかってぐったりと座っている平助。

もしかして意識がないのではと心配になって駆け寄った。

「平助・・・?ちょっ・・・平助っ!!」

「あ・・・なまえ。もう良いのか?・・・なんか、久々にはしゃいだらさ、眠くなってきた」

あくびをすると、また痛いと言って脇腹を抑えた。

「はしゃいだって・・・・・・もう。ほら、帰ろう?」

彼を支えて立ち上がると、もちろん目の前にはお互いの顔があるわけで。

「・・・何処に?」

「・・・どっ・・・・・・どっちかの、家に?」



「俺ん家、来るか?」



こんな状況で、どうしようもなくドキドキしてるのは、平助の真剣な瞳と、もしかしたらと、この先を想像してしまったせい。

でも、だって。

こんな状態だもん。

・・・まさか、ねえ?



ゴクリ、と喉がなった。

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