やさしみ
最寄りのスーパーマーケットが今日から2週間改装すると、親切心の無い小さな文字の貼り紙で先程知った。
何故前以て知らせぬのかと若干苛立ちながら、駅から少し離れた場所にある別のスーパーマーケットへと向かう事にした。
1ヶ月前に転勤してきたこの場所に全く馴染みの無い俺は、初めて通るその道を覚えようと辺りを見回しながら歩く。
大通りから少し外れたこの場所に、大きな病院が建っていた。
―――あれは?
病院の前に大きな塊が落ちている。
一体何なのだろうかとよく見れば―――人が倒れていたのだ。
人通りが少ないとは言え、その「人」に気付かぬフリをして過ぎゆく奴等にため息を吐く外無かった。
「あんた、大丈夫か・・・?」
近づいて声を掛けてみると、ピクリとも動かないその「人」は、女性だった。
おそらく俺と同い年くらいだろう。華奢な細い腕と足がワンピースから覗いている。
不用心に投げ出された鞄は、何処かで見たブランドのロゴが入っていた。
「聞こえるか?」
「・・・・・・・・・」
眉間に皺をよせ、のそりと動いた彼女が生きていると知って安堵した。
「あんた、この様なところで寝ていては危険だろう」
「・・・・・・んん・・・」
「起きられるか?」
ゆっくりと、顰めた顔を横に振った彼女。
「具合が悪いのか?」
聞けば、コクンと一つ頷いた。
そういえばと病院を見上げるが、夜間の診察口等見当たらない。
「家は近いのか?」
「・・・ほっといて」
初めて聞こえた彼女の声はか細く、すぐに消えてしまった。
「そうは言うが・・・・・・」
どうしたものかと辺りを見回すが、俺達を好奇の目で見て通り過ぎて行く奴らばかり。
「ただの、よっぱらい・・・れす」
晒されている肌に夜風が冷たいのか、身体を縮込ませて寒そうに身体を震わせている。
酔っ払いではさすがに救急車を呼ぶわけにもいかぬか、と2度目のため息を落とした。
「・・・俺が、あんたを保護する。文句など聞かん」
放られている鞄を持ち、彼女を背中に背負うと、うめく声が耳元で聞こえた。
「・・・吐くのか?」
「うっ・・・」
「すまない、しばし我慢してくれ。家はすぐだ」
「む・・・」
「無理ではない。待て」
走ろうと思えば、この軽い彼女を背負って走る事も出来た。
しかし、あまり刺激を与えてはなるまい。
背中に触れている彼女の柔らかい胸に意識を奪われながら、俺はなるべく彼女を揺らさずに早足で歩いた。
家に着くと彼女は背中で既に寝息を立てている。
「あんたは・・・・・・大物だな」
ゆっくりと自身のベッドに彼女を寝かせた。
顔色は先程よりは良くはなっているものの、まだ気分は優れないのだろう、眉間の皺はそのままだった。
明日が休日で良かったと、3度目に吐いたため息を部屋に残し、浴室へと向かった。
だが、もしかしたらもう彼女はそこに居ないのではないかと妙な焦燥感の所為で、いつもより早くに部屋へ戻る。
相変わらず彼女は俺のベッドですやすやと寝息を立てていた。
どうしたものかと思いながら濡れた髪を放ったまま、寝ている彼女に近づいてみる。
眉間の皺を人差し指で隠してやれば、綺麗な顔立ちがこちらに向いていた。
瞬間、跳ねた鼓動に驚いて彼女から距離を取らねばと、リビングのソファに腰かけた。
目が覚め、ぼんやりとした頭で何故自分がここで眠っていたのかを考え、昨日の彼女の事を思い出した。
寝室の扉を開けてみるが、彼女はそこには居ない。
どこへ行ったのかと家中探しまわってみたが、やはりどこにも居なかった。
玄関で曲がっていた自分の靴を見て、おそらく彼女が出ていくときにぶつかったのだろうと、いつも通りに揃え、リビングへと戻った。
自分の足で歩けるくらい回復してくれたのなら、それで良いだろうと思うも、礼の一つもないのかとまたため息がついて出た。
―――助けてくれと頼まれてはいないのだから、当然か。
翌日も翌日も、スーパーマーケットが改装しているから仕方がないのだ、と自分に言い訳をしながら彼女と出会った病院の前を通ってみたが、やはりそこには居なかった。
自分でも何故彼女に執着しているのかは分からなかったが、もう一度会いたいと思っている事は確かで。
出来れば、素面で元気な彼女に会いたいと、笑顔を想像してみる。
電車の窓に映った自分の顔が緩んだ事に驚いて、取り消すように頭を振った。
そう言えば、出会ったあの日から1週間。
もしかしたらと、また改装工事を言い訳にしてあの病院の前を通ってみる。
―――居た。
「あんた、大丈夫か?」
同じ声の掛け方しか出来ぬ自分に少し呆れながらも、またそこで同じように倒れている彼女に言った。
「ん・・・だいじょう、ぶ」
「また酔っているのか・・・」
「・・・このまえの、ひと?」
覚えて、いるのか。
「あ、ああ。そうだ、斎藤と言う。その、あんたの名は・・・」
「え?・・・ふふ。ひみつー・・・」
先週よりも具合は悪くない様で、想像していた通りの笑い方をして見せた彼女。
「家は近いのか?」
「・・・すぐそこ・・・だから、きにしないで」
「気にするなと?聞けぬ願いだ」
「よっぱらい、なだけですから」
「・・・・・・すまん、あんたを保護させてもらう」
「う、え・・・?」
同じように放られた鞄を持ち、彼女を背中に背負う。
感じる胸の柔らかさと、酒臭さ。
ほんのりと香る彼女の香りは、甘い。
「せなか、あったかいですね、へへ」
そう言って、ギュッと絡みついてくる腕と、背中に感じる温もりに、一層鼓動が早まる。
酔っ払っているが故の無意識の行動なのか、それとも―――否、調子が良すぎるな。
家に着いて、彼女をベッドに寝かせてやれば「ありがとう」と微笑んだ。
ミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し、寝室に戻ってみれば既に気持ち良さそうに寝息を立てていた。
投げ出された両腕を布団の中へ仕舞ってやろうとしただけだった。
それを、しなければよかった。そのまま、何も気付かなければ―――
左手の薬指に光る彼女の指輪が、ただのアクセサリーでは無いことくらい、分かる。
名前も知らない彼女をどうにかしてしまおう等と考えていた自分を馬鹿だと、頭を抱える事しかできなかった。
結局またリビングのソファで一人眠る。
明け方、温かい何かが頬に触れた気がしたが、それを確かめたいと思う事より眠気が勝り、目を開ける事はしなかった。
切り忘れていた目覚ましの音で飛び起きた。
ああ、そう言えば彼女はどうしただろうかと先週と同じように家中を探しまわるが、どこにも居なかった。
玄関の靴はきちんと揃えられている。
まさか本当に夢だったのでは―――
最寄りのスーパーマーケットの改装工事が終わったらしい。
しかし彼女の事がどうしても忘れられず、またあの道を歩いてわざわざ遠くのスーパーマーケットへと足を運んでいる。
それからどれくらい経っただろう。
出会った時と同じワンピースを着て買い物をしている彼女とすれ違ったのは。
幸せそうに腕を組んでいる相手が俺ではない事の現実を突き付けられ、もうその道を通るのも止めた。
何故幸せそうに笑った彼女が、夜遅くにあの様な場所で倒れていたのか不思議でならない。
それを考えて答えを出したとしても、俺にはもう何の関係もないのだ。
だがあの時、頬に何が触れたのか、確かめなかった事を未だに後悔している。
終
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