もうそろそろ、五月も終わるかというころ。
「犯罪白書が見たい」という鈴美の願いを聞き届け、千昭は町立図書館を訪れていた。
03 ヒトデ白書
杜王町に少し大きな図書館があるのは知っていたが、ここへ来るのは初めてだったりする。
夏休みの宿題に自由研究を出される時期はとっくに終わってしまったし、それほど知識欲の強い方でもない。
当然、どこにどんな蔵書があるかなんて分かるはずもなく。
手っ取り早く、職員の人に聞いてしまおう。
そう思って向かった受付の前にいた人物に、千昭は「あ、」と声を上げた。
「承太郎さん」
奇遇ですね、なんてありきたりな挨拶のあと。気づけば、千昭は承太郎と一緒に蔵書探しをしていた。
白書の置かれた棚の場所は、受付のお姉さんに教えてもらった。
けれどその棚に入った白書の数が予想以上に多かったのだ。長くて高い棚の端から端まで、同じ規格の本がみっちり。
うわあ……と言葉に出してはいないはずなのだが、表情で悟られてしまったのだろう。
「手伝うか?」と申し出た承太郎に、ついうっかり、素直に頷いてしまったのだった。
「八十三年は、これだな」
「ありがとうございます」
差し出された本を受け取って、左腕に抱えている束の上に乗せる。
「次は?」
「あ、その前年と翌年のもお願いします」
「ああ」
承太郎が隣の棚に向き直るのを横目に、千昭は手元のメモ用紙に目を落とした。
鈴美にあれこれ言われて、とりあえず書き留めたものだ。
先日、この町に殺人鬼が潜んでいる、と鈴美にひどく深刻に打ち明けられた。自分もそれなりに深刻に受け取ったつもりだったのだが、どうもご不興を被ってしまったらしい。その埋め合わせがこれだ。
そうでなくても鈴美には協力する気でいたので、嫌々というわけではないのだが。
しかしこれはちょっと大変かもしれない。だんだん下がってきた左腕をよいしょっと持ち上げて、本を抱え直す。
「この上に乗せてください」
頼んだ本を取ってきてくれた承太郎にそう頼む。
積み重ねた本が、もう胸の辺りまで来てしまって、自分で乗せるのはちょっと苦しい。
来たる本の重さを覚悟して腕に力を込めたのだが、しかし重さはいつまで待っても来なかった。
その代わり、承太郎が両手を広げて千昭を見る。
「オレが持とう」
「え、大丈夫ですよ。あとちょっとだし……っと」
言ってる途中で、束が崩れかけて慌てて手で抑える。
「……大丈夫ですよ」
へらりと笑って言ってはみるものの、なかなかに苦しい状況だ。
「……やれやれ」
あ、と言う間もなく、本の束がたくましい両腕に攫われる。
なんでもないように軽々と抱えられてしまっては、もう返してくれともいえない。
千昭は大人しく次の本を探しに行った。
勉強している大学生、育児書を読んでいる女の人、新聞を読んでいるおじさん。老若男女交じりつつも、崩れない図書館独特のしんとした空気に少し肩が凝る。
千昭は少し人気のないテーブルに腰を下ろして、目当てのページを探しては、しおりを挟む作業をしていた。
「ところで、承太郎さんはどうしてここに?」
メモを見て、それらしいところにしおりを挟んで、閉じて、次の本へ。そんなことを繰り返しつつ、向かいに座る承太郎に小声で話しかける。
「論文に使う資料を、探しにな」
承太郎もまた、少し声を落として言った。視線は手元の本に注がれている。
聞けば、千昭が来たときにはもう何冊か目当ての本を借りていたらしい。
横に積まれた本にちらりと目を向けるが、どれも難しそうだ。
「論文ですか、なんか大変そうですね」
「そうでもない」
そういえば、承太郎は学者だったんだった。仗助に話されたことを思い出して、目の前の男をちらりと見る。
がっしりした肩に長い手足、そして筋肉。インドア派には見えない。
「何の分野なんですか?」
「海洋学だ」
こんなに立派な体が作れる分野って何だろう、と思いつつ聞いてみると、返ってきたのは意外な答えだった。
「今、ヒトデに関して少し書いている」
「ヒトデ……」
頭に浮かんだのは、オレンジ色で星型のかわいいアレだ。
しかし承太郎が手元の本を見せてきて、その幻想は砕かれた。
外装が文字だけだったから分からなかったが、どうやらヒトデに関する本だったらしい。
そこに載せられた写真にいたヒトデたちは、なんというか、あんまり可愛くなかった。細くてうねうねしていたり、茶色で長い毛が生えていたり、表面にびっしりつぶつぶがついていたり。
しかも全然星型じゃない。どちらかというと、蜘蛛とかそっちの生き物のように見えた。
「なんか、思ってたのと違うなあ……」
「どういうやつだと思ったんだ?」
「オレンジ色で、丸っこい星型のやつです」
それはイトマキヒトデの裏側だな、と承太郎が言った。
イトマキヒトデ、と言われても千昭にはピンと来なかったが、専門家がそう言うのならそうなのだろう。深く考えないことにした。
「いろんなヒトデがいるんですね」
「ああ。どれもなかなかいい形だろう」
え。思わず承太郎の顔をまじまじ見る。
ふと目が合って、「何だ?」と首を傾げられた。どうやら本気らしいと知って、なんでもないです、と返す。
きっと、承太郎から見るとヒトデはかわいいのだ。
そういうことにしてまた白書にしおりを挟む作業に戻ろうとすると、今度は承太郎から視線を感じて、思わず顔を上げた。
見ると、なんだかすごく物言いたげな顔をしている。
「何ですか?」
「君のそれは……しおりなのか」
「はい、しおりです」
「……そうか」
まだ何か言いたげに、しかし何も言わずに承太郎は本に視線を戻した。
承太郎が見ていたのは、白書に挟まれていくしおりだったらしい。
しおりといっても一時的にだし、使えるものなら何でも使ってしまった方が経済的でいいと思ったのだが。
やっぱり割り箸の袋はしおりっぽくなかったか、と千昭はほのかに反省した。
「結構な量だな」
「自分でもびっくりしました」
コピー機から戻ってきた千昭を見て、承太郎が言った。表情に変化はないが、少し驚いている、のかもしれない。
千昭の手元には、白書のページのコピーの束。
白書は全て貸し出し禁止だったから、鈴美に見せるにはコピーするしかなかったのだ。
しかしそれにしても、承太郎の言うとおり、結構な量になってしまった。
メモに書き出したときには、こんなになると思わなかったのだが。
ポケットから出したクリップで留めてはいるが、紙が大きいせいであまりまとまりはない。
「宿題か、何かで使うのか?」
「そんな感じです」
「そうか。今の高校生は大変だな」
言って、承太郎がおもむろに机の上のメモ用紙を覗き込む。
しかし数秒見つめたあと、なにやら複雑そうな顔がこちらを向いた。
「……これで、読めるのか?」
「え?はい」
「……そうか」
そのメモ用紙はというと、またもや、使えるものなら使ってしまえと思ってオーソンから持ち出したコピー用紙だ。紙詰まりに巻き込まれて皺が入り、使えなくなってしまった一品である。
「今の高校生は、なんというか、すごいな」
「……もったいない精神ですよ、承太郎さん」
言うと、なぜかますます複雑そうな顔をされてしまったが。
けれど承太郎も、自分と同じく人それぞれに突っ込まない人であるらしい。
その話は忘れ去られ、いつの間にか、この後暇なら遅めの昼食でもどうか、という話へと流れていった。
『犯白、84、3、2と杜王、全国S』……こんな調子で書かれたメモを承太郎が解読できなかったのだということは、千昭のあずかり知らぬところである。