10 兄と水色
遠くで子供の声がした。億泰のやつだ。振り返ると、少し離れたところで億泰が座り込んでいた。億泰!、呼んでも、億泰はちらりとこちらを見上げるだけで、立ち上がろうとしない。なにやってんだ、早く来ないか。
「億泰!」もう一度声を張り上げると、億泰のぼうっとしていた顔がひしゃげて、唇がわなわなと震えだした。あ、泣く。思った途端、耳障りな喚き声が億泰の喉から漏れてきた。
「億泰」
泣くんじゃねえ、と言おうとしたら、ぎりぎりのところで堪えていた億泰の目に、とうとう涙が溢れ出した。
ぼろり、涙が一粒こぼれて、我慢のたがが外れたらしい。ほとんど母音だけの、けたたましい泣き声が辺りに響く。頭の中にまで、わんわんと、響く。
ふと足元を見ると、へたり込んだ億泰の膝が擦りむけていた。あ、と息が詰まって、思わずたじろぐ。
「立てるか」
「……たで、ないっ」
喉をえずかせて、億泰がこちらを見上げる。
いつもなら、自分で立てと、甘えるなと突き放したかもしれない。けれど今はそれが心苦しくて、そろそろと手を差し伸べた。それを頼りに、億泰が立ち上がる。
すぐにまた歩き出したかったが、足がまごついて動かなかった。
自分の後についてきた億泰が転んだのが、思った以上に後ろめたかったらしかった。
「ちょっと、休むか」
「……うん」
繋いだままだった手をやわく振りほどいて、その場に座り込んだ。
膝をついて転んだんだろう、億泰の膝はだんだんと赤みが増してきていた。痣になるかもしれないと思ったら、胸がざわついて落ち着かなかった。
一体いつまで座っているのか、何をするでもなくただ向かい合って座っていた。真正面とは少しずれて、視線の絡まない位置で、ただ黙って座っていた。
どうしたら歩みを再開するきっかけがつかめるか分からず、ただ何かが降ってくるのを呆然と待っていた。
さんざん泣いた億泰は喉にえずき癖がついてしまったらしく、ときどきひっく、ひっくとしゃっくりのように身を震わせる。それがまた、胸をざわつかせて、居心地が悪かった。
やっと億泰のえずきが収まってきたころ、形兆の後ろに視線を飛ばした億泰が、ぱっと顔を上げていそいそと立ち上がった。
なんだよ、元気じゃねえか、なじるように言おうとして、「千昭くん!」億泰の声に遮られた。さっきまでえぐえぐとえずいていた喉が、威勢のいい声で叫ぶ。
そのまま、億泰は形兆を通り越して駆けていった。振り返ると、千昭がこちらへ歩いてきている。少し茶けた猫っ毛の下の、ゆるい顔が、億泰を見てへらりと笑う。
千昭はいつもそうだ。自分と億泰がこじれているときにやってきて、全てうやむやにしてしまう。
自分も切欠が降ってくるのを待っていたのは棚に上げて、億泰が、二人きりの沈黙から逃れてほっとしているのに眉をひそめる。
「億泰が、転んだんだ」
億泰が何か言う前に、形兆は千昭に向かって言った。言い訳じみた、億泰にも言い聞かせるような声色だった。お前は、自分で、転んだんだ。
自分が、悪者になってしまうのが恐かった。
「そうなの。絆創膏いる?」
「ううん、いらない」
でも、膝赤いよ、と言う千昭に、平気だよ!と声を上げる億泰。
なんだよ、さっきまで、赤ちゃんみたいにわんわん泣き喚いていたくせに。ずっと、ぐずぐずしていたくせに。
億泰はすっかり元気になって、千昭と遊びに行きたそうにそわそわしていた。
「億泰」
じとり、と見据えると、億泰はびくりと肩を揺らして千昭の後ろに隠れた。
その様子が少し癇に障って、眉に力が入る。俯いてもじもじとしだす億泰に、ますます苛立ちが募った。
まるで、自分のせいで転んだのだと、責められているような気分になったのだ。
はっと目を覚まして、あたりを見回す。薄暗い病室は、相変わらず無機質で色がない。
少し、早く起きてしまったようだった。変な夢を見たせいだ。
今から何年前のことだろう。億泰と、自分と、千昭。三人で、よく遊んでいた。
いや、三人でいるようで、その実二人と一人だったのかもしれない。
億泰と千昭、そして自分。
億泰と千昭は、仲が良かった。自分なんかよりも、よっぽど兄弟らしかった。
眠気で重い頭を枕に戻して、また目を閉じる。
もしかしたら、さっきの夢は実際にあったことではなく、自分の脳が作り出した空想なのかもしれない。しかし、それにしては嫌に現実味があった。実際にあったことだと考えた方が、自然だった。
億泰と千昭と、自分。二人と一人が、形兆の網膜にいつまでも残っていた。