千昭になんと説明したらいいだろうか。 交通事故でも、火災に巻き込まれたわけでもない。かといって、喧嘩というのも無理がある。何をどうしたって、人の力ではこんなことにはならないからだ。 本当にこうして生きているのが不思議なくらい、自分は満身創痍だった。 それに、千昭と承太郎がこれ以上接触するのも嫌だった。今まで自分が隠し通してきたことを、うっかり漏らされては目も当てられない。 どうしたら千昭に疑問を持たせず帰すことができるか。 そんなことを考えている自分が滑稽に思える。しかし頭はそこから動かず、ため息ばかりが増えていった。 千昭がこのまま面会に来なければ、何も悩むことはないのだが。 そんな考えもむなしく、承太郎の来訪から二日後、形兆の病室に来客は現れた。 コンコン、とドアをノックする音が聞こえて、形兆はパッとそちらへ顔を向けた。 しかし微動だにしないドアに、なんだ、と眉をひそめる。 医者や看護士は、ノックしてからすぐ、早いときにはノックしながら入ってくる。それに今は、食事の時間でも、検診の時間でもない。 千昭か。 ついに、来てしまった。 ドアの向こうに神経を集中させる。なにやらゴソゴソとまごついているらしい幼馴染は、意を決したのか、更にもう一度ノックして、ゆっくりとドアを開けた。 「よ、よォ……兄貴ィ……」 しかしてひょっこり顔を出したのは、自分の弟、億泰だった。 「………」 「……入るなら、早く入れ」 なんだ、お前か、という言葉は喉元に飲み込んだ。ひどく拍子抜けしながらも、いつまでもドアを開いたままの億泰にそう促すと、バタン、と慌てたようにドアが閉められた。 秒針の音すらはっきりと聞こえるこの静かな病室で、久しぶりに聞いた大きな音が頭に響く。 「もう少し静かに閉めらんねェのか」 「わ、わり……」 相変わらず図体はでかいのに、おろおろとして落ち着きがない。それに今日は、少しぼうっとしているように思えた。 ドアを閉めたきりまた動かなくなった億泰に、一つため息を零して、口火を切る。 「いつまでも立ってねェで、座ったらどうなんだ」 「え?ああ……」 「イスなら、そこにある」 まだ痛みの残る腕を持ち上げて、部屋の隅に立てかけられたパイプイスを指差す。 患者衣の下から包帯まみれの腕が覗いて、億泰がびくりとした気がした。 ガタガタとパイプイスを開く音だけ室内に響く。たかがパイプイスを開くだけなのに、片手に何か紙袋を持っているせいで、億泰はひどくまごついていた。 袋を置いてからやれ、と言ってやろうかとも思ったが、なんとなく面倒になって、やめた。今言ったら、億泰は多分袋を置くのに一度イスを閉じるだろう。二度手間だ。 「………」 耳障りな音がなくなってしばらくしても、会話は始まらなかった。 億泰の胸の内は分からないが、自分の方はというと、何を話していいのか分からなかった。 背後の敵に気づかなかったことにしても、承太郎に保護されたことにしても、承太郎から聞いてしまってもう安心してしまったというのもあるし、既に終わったことを今さら問いただしても何もならない。 かといってこれからの話というと、突然日常が変わってしまった今は何も話す気になれなかった。 しかし改めて思ってみれば、兄弟二人、学校にもろくに行かず空き家に住み着いて犯罪まがいのことを日課にするというのは、もともと日常的ではなかったかもしれない。 いつの間にかあんな生活が日常になっていたことに、今さら居たたまれなさを感じた。 今さらというか、今だからこそ、だろうか。 ときおり億泰が身じろぎしてイスが床にこすれる音と、自分の衣擦れの音だけがしていた。少しの身動きで思ったより大きな音が立ってしまい、音を立てないようにするから、ますます静寂が辺りを包んでしまう。 気まずい空気だけが、人がいるのを明らかにしていた。 「あ、のよォ〜……」 沈黙に耐えかねてか、とうとう億泰が口を開く。と同時に、誰かの足音がコツコツと近づいてきて、ドアがノックされた。 間がいいのか、悪いのか。ドアを開けたのは、今度こそ千昭だった。 「お邪魔しまーす……形兆、久しぶり」 へらりと笑った千昭に、おう、とだけ返す。 千昭の顔を見て安心したのか複雑なのか、よく分からない顔の億泰が「千昭」と情けない声色を出した。 「おっ……おせーよ!」 「ごめんごめん」 部屋を見渡した千昭が、パイプイスを見つけて手をかける。 大した音もなく開かれていくイスに、やはり億泰は雑なんだな、と改めて確信した。 「あれ、億泰、ケーキ開けてないの」 「あっ」 忘れてた、と言う億泰に千昭が少し笑う。 「形兆、腹いっぱい?」 「いや」 「じゃ、食べよっか」 駅前のおいしいケーキ屋で買ってきたんだよね、と紙袋からごそごそ白い箱を取り出し始めた千昭の横で、億泰が弾かれたように立ち上がった。 「オッ、オレ、ジュース買って来る!!」 突然大声を出した億泰に、千昭がぽかんとして手を止める。 そのまま口を出す暇も与えず、億泰はバタバタと慌しく部屋を出て行った。 乱暴に開けられたまま、自重でゆっくりと閉じていく扉を眺めながら、千昭が小首をかしげる。 「なに、どうしたのアイツ」 「……さっきまで、緊張して黙りっぱなしだったからな。喉渇いたんだろ」 自分から聞いたくせに、ふうん、と気のない返事をした千昭が、ケーキの箱を開けて、あ、と焦ったような声を上げた。 「皿とフォーク買ってくんの忘れた」 「マヌケ」 「なんか家行く感じで来ちゃったんだよ」 これちょっと持ってて、と形兆に箱を渡して、千昭はスクールバッグをごそごそと漁り始めた。 「何かあるかなあ」とか「これは……ないな」とか、ぽつぽつと呟かれる独り言を聞き流して、箱の中を覗きこむ。 先ほど言っていたように、確かにちゃんとした店で買ってきたんだろう、どことなく艶のある高そうなケーキがひしめきあっていた。 ……六つも。 「おい、いくつ食べる気なんだ」 「一人二個ー……あ、皿あった」 スクールバッグから、ごそっと出てきた紙皿の塊に、少し気が遠くなる。 包装には、紙皿五十枚五百円、の文字。次いで、「もうこれでいっか」との言葉と共に出されたのは、割り箸だった。 「学校に何持ってってんだよ、お前は…」 昔から少しズレているような気はしていたが、やはり時々どうにも理解できないところがある、と思う。 「え?学校には持ってってないよ」 「指定鞄だろ、それ」 「あ、うん。これはそうだけど」 でも学校にはさすがに持ってかないよ、こういうとき用の紙皿だし。そう言う千昭は至極真面目だ。おかしい、会話が噛み合っていない。 「だから、お前のそれは学校に持ってくもんじゃねェのか」 「うん。でも……あ、そうかそうだった」 「何が」 「形兆オレね、スタンド使い」 時間が止まったかと思った。 「……は?」 「この鞄が四次元ポケットみたいになってる、って言ったら分かる?」 だから鞄の中には入ってるけど入ってない、そう続ける千昭の声が、どこか遠くに聞こえる。 何て言った?こいつ、今何て言った? 「二月ごろからなったっぽい。スタンドって名前なのは、承太郎さんにこないだ教えてもらった。あと形兆と億泰がスタンド使いってことも。……あ、承太郎さんって、億泰の友達の仗助の親戚らしいんだけど、形兆知ってる?いい人なんだよ」 次から次へ、爆弾発言を落としていく千昭に、声を出すこともできず、形兆はそのままずるずると布団の上にうな垂れた。 「……形兆?具合悪い?ナースコールする?」 「……いや……」 そうじゃねえ、となんとか搾り出した声がさっきの億泰みたいに情けなくて、力が抜ける。ため息をつく気力も失せていた。 始めに入ってきたときと違い、一度のノックもせずドアを開けた億泰が、目の前の光景を見て「おおッ!?」とすっとんきょうな声を上げた。 「兄貴、腹いてえのか!?」 110番だ、救急車だ、と喚き散らす億泰に、千昭が淡々と「億泰、救急車は119番だよ」と訂正した。 救急車も何も、ここは病院だ。千昭にしたって、そこじゃねえよ、と思いながらも、もう何も言うまい。 馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、まさかここまでとは。 少しして形兆の具合が悪いのではないと分かった億泰が、なぜかボロボロと泣き出し、千昭がそれをあやし、もうケーキどころではなくなっていた。 千昭のスタンド能力で鞄から取り出したらしい箱のティッシュを抱えて、ぐしゃぐしゃの顔で鼻をかむ億泰を見て、ついに大きなため息が出る。 どうやら、ため息をつく気力はまだあったらしい。自分もまだまだ元気だな、と形兆は一人ごちた。 |