「まさか、入れ違いになったなんてね……」

「おい、信じるのか?」

 アナスイが動揺したように言った。一つ頷いてみせるが、それでも疑わしいとばかりに険しい表情を崩さない。
 ウェザーが言うことには、つい数時間前に徐倫は水族館を出たらしかった。音楽室が消えていることからして、エンポリオも一緒だろう。どこに行ったかは分からないが、力の及ばぬところまで離れたせいで部屋幽霊は実体を失ったのだ。

「オレは、信じられない」

 知るはずのないことを妙に確信を持って断言するウェザーを、アナスイは訝しんでいる。徐倫が水族館を出て北に行ったという根拠を述べろと詰め寄ったが、ウェザーは説明できないと首をふるばかりだった。

「……オレは、神父を追って脱獄する」

 お前たちはどうする、と続けられた言葉に反応したのはアナスイだった。徐倫が外に行ったなら当然後を追うと即答する。

「信じられないんじゃあなかったの?」

「……そこまで言うなら、何かあるんだろ。なかったらぶん殴る。いいよな?」

「ああ。徐倫は北にいる」

 念押しするようにそう言って、ウェザーは窓の外を見上げた。視線の先を追ってみると、さっきまで晴れていた青空に灰色の雲が流れてきていた。きっと雨雲だろう。湿った空気が鼻先を撫ぜる。

「……追いかけるなら、早い方がいいだろ。なんか雨も降りそうだしさ。ドア繋げてあげるよ。六マイルくらいなら、一度に跨げる」

「クロエ……」

「北の方に繋げればいいんでしょ?」

 どっち?聞けば、ウェザーは少し迷ったあと、一方を指差した。恐らく少し栄えた街のある方向だろう。よくここを抜け出して行った先だ。
 灰色のドアに手をかける。繋げる前に、ふと思いついたことを聞いた。

「ねえウェザー、どこに出たい?」

 質問の意図が読めなかったらしく、ウェザーは首を傾げた。

「だってほら、初めてここから出るんだ。あんたが人生で一番最初に見る外の世界だよ。どこがいいとか、あるだろ?」

 別に、ロマンチストなんかじゃあない。あんなつまらない世界、どこを最初に見たって同じだとも思っている。刑務所の中も外も変わりはしない。けれどそれは自分にとってで、ウェザーにとっては全く違うことを知っていた。彼が活字を通して思い描いた世界は、きっと単調で、美しくて、いとおしい。
 しばらく悩むように口に手をやって黙り込んでいたウェザーが、口を開いた。

「……どこでもいい」

「本当に?」

「ああ。どこでもいいんだ。クロエがいいと思う場所に、繋げてくれ」

「オレなんかに任せちゃっていいわけ」

 苦し紛れに茶化してそう言ったが、ウェザーに真摯な目で「頼む」と言われて、無性に泣きたくなった。そういえば、こういう人だった。とても大事なことを、びっくりするくらい簡単に人にあげてしまったりする。信頼されているだなんて思い上がってはいけないと、必死で自分に言い聞かせる。

「こんなときじゃあなきゃ、景色のいいとこにでも繋げたんだけどね。……その格好じゃあすぐ連れ戻されるだろうから、公衆トイレにでも繋げるよ。そこで背中の文字なんとかして、それから、徐倫を追えばいい」

 持っていたバッグをアナスイに投げて寄越す。看守の制服を着る前に着ていた服と、黒い塗装スプレーが入っている。新しい服を盗ってきてもよかったが、ウェザーの着そうな服が分からなかったから、グリーン・ドルフィン・ストリート刑務所の文字だけ潰せるように用意したのだ。片手でバッグを受け取ったアナスイが、悪いな、と一言返す。
 ビビッドピンクの自分の半身を、ウェザーが目で追っているのが分かった。灰色のドアに溶けて、同じ色に染めていく。それを見て、何を思っているかまでは分からない。本当は、あまり見て欲しくなかった。ウェザーのスタンドと違って、自己主張の強いこの色は、好きじゃあないから。クロエが好きなのは、彼の白だ。
 ドアを開けると、灰色のタイルが並んだ壁があった。今いる刑務所の廊下とさして代わり映えしない景色だ。もう少しマシなところに繋げたかったとも思うが、トイレなんて、どこも同じだろう。扉を手で押さえたまま二人に目配せする。アナスイは頷いた。ウェザーは頷かない。

「アナスイ、先に行っててくれないか。……クロエと話がしたい」

 驚いたのはアナスイだけじゃあない。クロエもだ。一刻も早く徐倫を追わなければならないのに、なぜ今なのか。

「……分かった。個室で着替えてるから、早くしろよ」

 また後で聞くよ――そう言おうと口を開けかけたが、アナスイに先を越された。すぐさま下枠を跨ぐと、人影を確認するように辺りを見回して、アナスイは個室に入った。
 バタン、と音がして、途端に音がなくなる。一人いなくなっただけなのに、痛いほどの静寂が二人を包んだ。

「……話って、なに?急がないと、徐倫が――

「君は、ここに残る気でいる。そうだろう」

 沈黙に絶えかねて口火を切ったはずなのに、ウェザーのその一言でまた沈黙が訪れた。何か言って誤魔化したいのに、何も喋れない。口を開いても、中途半端に震えた呼気が僅かな声になるだけで、言葉にならなかった。
 よくよく考えれば、限られた時間の中だけだとしても二年を共にしたのだ。見抜かれていても不思議じゃあない。動揺するようなことじゃあ、ない。

「……うん……まあ、ほら、オレは……薄情な、人間だし」

「君が薄情だなんて、言っていない。君は……やさしい」

「……やめてよ」

「本当のことだ。なあ、クロエ、一緒に――

「嫌だ!」

 一緒に来てくれないか。そう続けるのだと瞬時に分かったのは、恐れていたからかもしれないし、望んでいたからなのかもしれない。

「オレは行かない。一緒になんか、行かない。行かないよ」

 自分で言いながら、あまりの子供じみた台詞に嘲笑いたくなった。だだをこねる必要なんてない。向こうが勝手に頼んでいるだけだ。断るも受け入れるも、自分の自由。

「……そうか。お前が来てくれればと思ったんだが」

 残酷なほどあっさり引き下がったウェザーに、内心ほっと息をつく。大丈夫だ。落胆してなんかいないし、絶望も、苦しみも、胸の痛みもなにも感じない。子供のように必死になって張った予防線は、今日もクロエを守った。
 どうせ必要としているのは、頭数だ。戦力になる人間なのだ。自分自身が望まれたわけじゃあない。分かっている。期待していないから、そんな浅ましい思いを押し付けたりしていないから、大丈夫だ。

「オレがいなくても、平気だろ」

殴る蹴るは得意じゃあないんだ。そう言って薄く笑う。

「……音楽室が消えたと言っていたな。エンポリオがいつ戻ってくるか――戻ってくるかどうかすら、分からない。どうする気だ?」

「……もう、いいよ。囚人生活も飽きたしさ。あんたが通ったあと、適当に繋ぎ直して旅行にでも行くよ。その気になれば、どこにでもいけるんだし」

 そうだ、どこにでも行ける能力が自分にはあった。建物はもちろん、飛行機にも船にもドアはある。乗り物に繋げれば海を越えることだってできるのだ。この味気ない国から出て行くことだってできる。

「あのさ、オレ、あんたのこと好きだったよ。……知らなかっただろ。知らなくて、いいよ。ずっと好きだった。初めて会ったときからずっと。……これからも、多分、好きだ」

 繋げ続ければ、世界の裏側にだって行けるだろう。きっと行けるはずだった。自分だって旅行に行きたいときくらいある。違う国を訪れてみたいと思うこともある。行こうと思えばどこにでも行けた。世界で一番美しい場所にだって行けるだろう。
 けれど実際に行こうとは思わなかった。最初から分かりきっているから、きっと行くだけ無駄だ。
 だってウェザーのいる場所が、一番好きなのだから。それ以外は世界中どこだって一緒だろう。そこだけが特別で、美しくて、尊い。

「ウェザー、そのピアス、片方ちょうだい。もともとおれがあげたやつだし、いいだろ」

 また会ったときに返すからさ。そんな小さな嘘をつく。
 ウェザーは表情を変えないまま、ゆっくりと片耳に両手を持っていくと、静かにピアスを外した。
 二年前、気まぐれに宝石店を襲ったときに一対だけ売らずにおいたピアス。あのときはこんなことになるなんて思っていなかったから、何も考えずにウェザーに渡した。単純に、この深い色の石が色素の薄い肌に映えると思ったから。こんなに気に入ってずっとつけてくれるなんて、思っていなかったのだ。そうと分かっていたら、盗品なんて渡さなかった。何も渡さなかった。こんな汚いもの、彼の身につけるようなものじゃあない。
 差し出した手の平に、そっとピアスが乗せられる。取りこぼしてしまいそうな小さなそれを、落とさないように軽く包み込んだ。

「……このピアスは、気に入ってるんだ。必ず返してくれ」

「……約束は、できないよ」

「それは困るな。君に会えなくなるのは、困る」

 いつもと同じ声色だから、言われている内容を理解するのにしばらくかかった。だんだんと鼓動が大きくなる。

「オレには、恋だとか、愛だとか、そういったものがよく分からない。記憶がないからなのか、それとも元々こういう人間だったのかも分からないんだ。何も分からないまま、浅い感情だけで過ごしてきた。けれど、君は、大切だ。これを愛と呼んでいいか分からないが、それでも、君に会えないのは困る」

 やめろよ。そんなこと、今になって言うなよ。口の中が乾いて、反対に手の平は汗ばんでいく。心臓は痛いくらいに大きく早く脈打っていた。泣き出したかった。逃げ出したかった。
 自分はウェザーを幸せになんかできない。薄暗い場所に繋ぎとめておくことしかできない。日の当たる場所へ出してやることなんか、できないのだ。光に当たれず枯れていく彼を見たいわけじゃあない。そんなの見たくなんかない。それなのに、きっと、それしかできない。
 それでもこの人が、好きだった。

「バイバイ、ウェザー」

 アナスイによろしく。有無を言わさずそう言って、ウェザーをドアの向こうに突き飛ばした。名前を呼ぶ声も聞こえなかったふりをして、ドアを強く閉める。
 接続はすぐに切った。ウェザーが向こうでドアを開けても、ここにはもう繋がらない。
 扉を背にしてずるずるとくずおれる。早鐘のような鼓動がとめどなく続いて、胸が痛い。心臓が破れてしまいそうだった。その影響なのか、アシッドマンが落ち着かないようにゆらゆらと宙を舞う。
 どれくらいそうしていただろう。ほんの一瞬にも、何時間にも感じられた。誰かの足音が聞こえる。もう、ここを離れないといけない。力の入らない肢体に鞭打って立ち上がった。冷たいノブを捻って、ドアの中に消える。顔を上げれば、大通り。さっきまでの静かな刑務所の廊下とはまるで違う。自分の鼓動の音も感じなくなるくらいの喧騒だった。排気ガス交じりの空気がやけに目に沁みる。

「はあ……外、空気悪すぎ」

 これからどこへ行こう。空気のきれいなところに行こう、見渡す限りの地平線、ビルも家屋も何もないような場所に行こう。どうせあの人の隣よりいい場所なんて見つからないだろうけど、やってみるだけやってみるのもいい暇つぶしだ。
 目に付いた店に入って適当な服を見繕うと、そのまま試着室に入った。試着室のドアを開ければ、今度はどこかのモーテルのドアから足を踏み出す。
 ふと、頬に冷たいものが触れた。手で拭ってみるも、次から次から降ってくる。そういえば、さっき見た空は雨が降り出しそうだった。見上げれば案の定、暗い灰色の雲が一面を覆っている。ぽつぽつと降り出した雨が瞬く間に強さを増して、肌を刺す。傘を盗ってこなくてよかった。たまには雨に濡れるのだっていいだろう。片耳にだけつけたピアスが重い。



Take me to the
world's end

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -