握ったドアノブに言いようのない違和感を覚えた。くすんだ金色のノブを確かに手の中に収めているはずなのに、手応えがまるでない。試しにドアを開けてみるも、向こう側に見えた景色はホテルの廊下だった。

「おい、早くしろよ」

 急かすなよ、とアナスイを宥める。一旦人型に戻したアシッドマンを改めてドアに溶かして、もう一度開ける。見えた景色は同じだった。ホテルのドアを開けた先が、ホテルの廊下だった。当たり前だ。何もおかしくない。けれどクロエにとっては、異常事態だった。

「……音楽室がない」

「はあ?」

 どういうことだとアナスイが詰め寄る。三度目の正直だと思ってもう一度だけやりなおしてみたが、それでも違和感は拭い去れなかった。ドアを繋げたときに感じるはずの重みが全くないのだ。目の前にあるのは、普通の、何の変哲もないドアでしかない。

「知らないよ。とにかく、音楽室が見つからないんだ。ドアが繋がらない」

「……もしかして、エンポリオに何かあったのか?」

「……さあ。音楽室の近くの廊下に繋げるよ」

 そうして部屋の入り口である階段近くのドアを意識すると、今度は拍子抜けるほどあっさり繋がった。いつもの重さと感覚に安堵する。

「分かってると思うけど、オレ、戦うとか無理だから。看守はお前に任せるから、見つかったらなんとかしてよ」

 了承の意を聞いてから、静かにドアノブを回して少しだけドアを開ける。人影がないのを確認すると、極力物音を立てないように外へ出た。刑務所の廊下は相変わらず風通しが悪く、潮と鉄が腐ったような匂いがする。
 物陰の間を縫うようにして行き着いた階段の踊り場で、アナスイが壁にぺたりと手をついた。

「……入り口が、消えてる」

「ほら、やっぱりないんだ。音楽室がなくなってる……スタンドを保てなくなってるか、遠すぎる場所に行ったか、どっちかだね」

 エンポリオのスタンドは特殊だ。物の幽霊を扱うことができるというだけで、その幽霊自体は彼のものではない。実際にはスタンドの姿形が無いも同然だった。恐らくエンポリオに、オンとオフのスイッチはないのだろう。スタンドを出すとか、戻すとかいった概念がない。だから二十四時間、たとえ本人が部屋の外に出ていても音楽室は存在し続けられた。
 けれどそれが今、なにもなくなっている。入り口もなければドアもないのだ。出入りができなくなったわけじゃあないだろう。音楽室そのものが、消えてしまった。
 そうなればエンポリオはもちろん、ウェザーや徐倫だって音楽室にいるはずがない。これ以上、ただの階段の踊り場と化した場所に居続ける理由はなかった。

「ウェザーと徐倫、どっちを探したい?」

「変な聞き方すんな」

「……じゃあ、二手に分かれる?お前、女装できるだろ。それで女子監に潜入して……」

 これ以上ないくらい嫌そうな表情になったアナスイに「冗談だよ」と肩をすくめてみせた。







 ダイバー・ダウンに頭を殴られた看守は、どさりと大きな音を立てて床に崩れ落ちた。気を失って重くなった体を引き摺って物陰に移動する。身包み剥がして制服を頂戴したあとは、腰にあった手錠をかけてもう一人の看守と一緒に用務室に放置した。二人なら寂しくないだろうし、最悪餓死する前には誰かが気づいてくれるだろう。
 看守の制服を纏ったクロエとアナスイは、それから男子監のいたるところを虱潰しに探し回った。運動場から図書館、談話室、面会室、それに男子トイレもだ。一番可能性が高いと思った雑居房にも行ったが、ウェザーはどこにもいなかった。

「……ウェザーがいそうな場所って、あとどこかある?」

 アナスイは無言で首を振る。特に期待していなかったから、気落ちすることはなかった。アナスイとウェザーは、傍目から見てもそこまで友情を深めていたわけではない。良くも悪くも音楽室の中で完結した人間関係だった。
 自分だってそうだ。音楽室の外で彼と会ったことなど数えるほどしかない。それも全て偶然の産物で、一言二言話したらそれで終わりだった。その程度だったのだ。限られた空間の中で、特定の行動をなぞっているときにだけ、ぶつ切れの会話が続いた。
 思えば、なんて粗末な寄り添いだったのだろう。狭い部屋の中、テレビ雑誌を眺めながら時々思い出したように短い言葉を交わすだけ。しかも、相手に懸想しているのは自分だけだ。視線は交わらない。広がりのない空間だった。
 けれどそれが、なによりも惜しかった。手放したくなかった。いつまでも続いてほしかった。だからどれほど会話に間が空いても待ち続けられたし、どれほど変化が訪れなくても同じ習慣を続けられた。彼の横顔を見ているだけで、よかった。
 ウェザーとの時間が終わりつつあることは薄々分かっていた。アナスイがクロエを見始めたときから、一つずつずれていった。「オレのせいなのか」とウェザーが尋ねてきて、少しずつ崩れていった。偶然か必然か、畳み掛けるように自分は懲罰房に入り、徐倫が現れた。
 分かっていたのだ。自分がウェザーの足を引っ張っていたことは。あの人は、ここに留まるべき人じゃあない。記憶がなくなる前の人生も、犯した罪の真偽も知らないが、ウェザーの心はこの冷たい石の海に相応しくなかった。あの人は、もっと明るい場所にいるべきだ。どこにでもあるくだらない日常の中で、普通に、生きるべきだ。
 ふいに窓から差し込む光が眩しくて、目を伏せる。散々歩き回って、土埃のついた靴が視界に映った。
 自分はいつも、泥を見ている。
 エンポリオを連れて行った独房の前で聞いたあの啖呵を、クロエは覚えている。一語一句、少しの迷いも見せず言い切ったあの深い瞳を、クロエは覚えている。きっと彼女なら、ウェザーを外へ連れていってくれるだろう。ぬるま湯のように暖かで、眩しいくらいに鮮やかで、つまらない日常の中へ連れていってくれるだろう。

「お前には勿体無い子だよ」

「は?」

「徐倫が」

 制服の襟と擦れた首筋のひりつくところを指でいじって、肩越しに振り返る。憤慨するか言い返すかどちらかだろうと思ったが、意外にもアナスイは冷静だった。

「そんなこと、知ってる」

「……お前、大丈夫?熱でも出た?」

「出てねーよバカ」

 思わず額に伸ばしかけた手を、アナスイが呆れながら払い落とした。

「徐倫と吊り合わないことなんて、分かってる。彼女と話せば話すほど、傍にいるほど、思い知るんだ。おれには勿体無い。よく、恋人を太陽みたいだとか星みたいだとか言うだろ。徐倫は、本当にそうだよ。太陽みたいだ。眩しい」

 言葉の節々に喜悦を滲ませながらも、アナスイの表情は少し寂しげだった。

「……そこまで打ちのめされても、追いかけるんだ」

あなた、どことなくアナスイに似てるわ―― 徐倫はそう言ったが、クロエには分からなかった。アナスイと自分は似ていない。自分と違うと分かっていてなお、相手を追いかけられるようなアナスイとは、似ても似つかない。
 自分はいつも、泥を見ている。足元の泥を見ている。クロエの足はいつも泥まみれだ。歩くたびに辺りを汚して、忌み嫌われる。足跡が残らないのは同じ泥の中だけ。はみ出し者とは、そういうものだ。
 顔を上げると、窓の向こうに淡い色の空が見える。廊下の窓の、鉄格子に切り取られた四角い空だ。無理をして、明るいところで生きようと足掻くなんて、ただ磨耗するだけだ。隣にいればいるほど思い知る。足跡が残ってしまうのは自分だけだ。

「あのな、クロエ―― ……」

 アナスイの言葉を遮って人差し指を立てた。「見つけた」そのまま窓の向こうを指す。青い空の下、向かいの建物の窓に白い帽子がちらついている。食堂の近くだ。
 アナスイはまだ何か言いたげだったが、クロエは取り合わなかった。急かすように目配せして、ドアにアシッドマンを溶かす。確か調理室のドアには鍵がかかっていないから、そこに繋げればいいだろう。開いたドアの向こうで、その人は看守の制服を来た自分たちに目を丸くした。


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