ドライバーを渡してから二分も経たないうちに、右手の手錠は机に落ちた。無言の促しに従って、もう片方の手を差し出す。
 手慰みに外された手錠の外枠を立ててみると、ほんの少しだけ机の上で揺り椅子のようにたゆたったものの、左右の釣り合いが取れずにすぐ倒れた。手にかかっていたときは確かに輪そのものだったが、ばらけてしまえば三日月とも鉤爪とも言えない不恰好な部品でしかない。傍に置いてあった螺子が、倒れた外枠の巻き添えになって机の上を転がっていく。
 そうしてぼうっとしているうちに、左の拘束もなくなった。大して重くもなかったはずなのに、まっさらになった手首が妙に軽く涼しい。

「終わったぞ」

「……今すぐ戻りたい?」

 何のことかと訝しげな顔をしたアナスイに「音楽室」と補足を送る。

「オレはもう少し―― 目に見える傷口が塞がるまでは、ここにいたらいいと思うんだけど」

 邪魔なものがなくなって清々するはずなのに、慣れきった重さがなくなるといっそ落ち着かない。違和感のある手首をさすりながらふとアナスイに目をやると、妙な顔をしていた。喜びを堪えているようにも、驚いてうろたえているようにも見える。思いもよらなかった反応に顔を顰めた。

「なに」

「いや……お前が、そんなこと言うなんて思わなかった。そんな、素直に、オレのことを気遣うような……」

 手首をさすっていた手が止まる。不機嫌にアナスイを睨みつけると、何が可笑しいのか小さく笑い出した。それが気に食わない。

「……手負いのまま行っても足手まといになるだけだって言ってんの」

「どうだか」

 きまり悪さを誤魔化すように、アナスイの足を蹴り飛ばす。途端に仕返しをされたから、今度は両足を踏みつけた。観念したとばかりに、机の上の手がひらひらと舞う。

「……なあ、お前、十回以上も脱獄重ねてきたんだろ。手錠の一つくらい、自分でどうにかできたんじゃあないのか」

「さあね」

 椅子の背にもたれて足を床に放り出す。数日前に盗ってきたばかりのボトムは、まだ新品特有の張りを保っていた。いくつもの皺が下に流れていって、足首のところに溜まっている。くるぶしの骨と、薄い肉と、そして固めの布以外、そこには何もない。
 そこに何があって、それをどう処理したかなど、教える必要のないことだ。

「外すのにお前が必要だった。……それでいいだろ」

 緩慢な動作で、机の上に散乱している部品を並べ直してみる。とりあえず、左の方から小さい順に。どれもこれも、形容しがたい形のものばかりだ。クロエに分かるのは、螺子と輪の外枠くらいしかない。他の部品がどこに収まっていたのかも、どういう働きをしていたのかも分からない。アナスイは頬杖をついて、それをただ眺めた。

「へたくそ」

 最後の部品を並べ終わったところで、アナスイが優しく笑いながら言った。大きさ順という、部品それぞれの役割を無視した並べ方が下手だと言ったのかもしれないし、クロエの言い訳に対してそう言ったのかもしれない。自分のことながら、偽りの理由にしては不出来だった。

「あー……、クロエ」

 頼みがあるんだ。そう言ったアナスイに、貸し一つね、と返した。

10 My name is over.


 二年前の春のことだった。
 白昼堂々、ジュエリーショップで金属バッドを振りぬいた。ちょうどいい位置にあったショーケースのガラスが飛び散る。展示してあったジュエリーを、ガラスの破片ともどもボストンバッグに掻き込む。突然のことに驚いたのか、目の前の店員は腰を抜かして座り込んでいる。他の従業員が駆けつける前にと、もう一つのショーケースも割った。派手な音に店員が頭を抱えてうずくまる。
 銀行強盗を生業としているのは、自他共に認めるところだ。気づいたらそうなっていたし、自分の能力を考えればまさに天職だった。
 ただ、毎回同じではつまらなかった。だから時々、無茶をやった。セキュリティの厳しい金持ちの家に侵入してみたり、軍事基地近くの銀行を襲ってみたり、ガソリンスタンドのフードマートではした金をせびってみたり。そしてその日は、目についたジュエリーショップを暇つぶしに選んだのだった。
 盗品はバッグごと売人が引き取った。宝石同士がぶつかり合って傷がついているなどと言って安値で買い叩かれかけたが、常連を失いたくはないのだろう、言い合いの末結局は売人が折れる形になった。
 そこそこの金と、一対だけ手元に残したピアスを手に、クロエは水族館へ戻る。大金なんて持っていてもいいことはない。「ねえ、妹から電話が来なかった?」息のかかった看守に言う。もちろん妹なんていない。賄賂が用意できたときの隠語だ。数時間後、受け取りの準備ができた看守がクロエを呼び出す。軽くなった懐を心地よく思いながら、房に戻って眠りに落ちる。
 賄賂と言う金の活用法を知ったのは三つ前の刑務所からだった。つまり水族館は買収を始めてから四つ目の監獄だったが、一番買収に寛容で、看守も甘かった。囚人の中のリーダーさえ、金を渡せば虐められることはなく、むしろ守ってくれさえする。ある意味外にいるより安全だった。
 けれどそんな生活も、そろそろ飽きが来ていた。あと一週間もしたら出て行ってしまおう。そう決めた矢先だった。

「……あの、ごめんなさい、わざとじゃあないんだ……だから、ええと……怒らないで」

 その日初めて、アシッドマンが繋げる場所を間違えた。
 いや、子供の言うところによれば、間違えたというよりは妨害されたらしかった。彼のスタンド、バーニング・ダウン・ザ・ハウスが無意識にクロエを引きずり込んだらしい。ドアを開けた先の見知らぬ部屋にいた少年は、恐る恐ると言った様子でそう弁解した。
 彼のスタンドが全ての原因ではないだろう。クロエにも思い当たりがあった。ドアを繋げる際、接続先のドアを決めずアシッドマンに任せてしまうときがある。このときもそうだった。“刑務所の廊下に戻る”とか“三ブロック以上離れた路地”だとか、そういう大雑把な位置だけ決めて、どのドアにするかは頓着しない。強盗帰りや警察から逃げるときによく使う手だった。
 相手のスタンドに引きずられたにしろ、出る場所に選んだのはこちらなのだろう。例えどこにも繋がっていないはずの張りぼてだとしても、枠と扉そのものがあれば、立派にドアだ。

「別に。警察が来ないならどこだっていいよ」

 クロエは肩にかけていたボストンバッグを床に置いた。子供は一定の距離を保ったままこちらに近寄ってこないが、その視線はバッグに注がれ、興味津々だとつぶさに訴えている。

「何が入ってるか見たい?」

 気まぐれに聞いてみると、少し躊躇して、子供が頷く。バッグのジッパーを開けていけば、大量の二十ドル札が現れた。一掴みして子供に渡す。

「これ、本物?」

「多分ね。銀行のじゃあないから、一枚くらいは偽札が入ってるかも」

 そう言うと、子供はしげしげとお札を眺め、ひっくり返し、蛍光灯の光に透かし始めた。

「偽札の見分けがつくの?」

「えっ、ううん……」

 言われて気づいたようで、はっとしたように子供は鑑定を止めた。手の中のドル札を素直に返してくる。一枚たりとも減っていない。生まれたときから刑務所暮らしだというのだから、一枚くらいくすねると思っていたクロエは少し虚を突かれた。

「全部お札なの?」

「あー……まあ、いつもはそうだけど。今日はドラッグストアにも寄ったから……」

 二十ドル札の海に手をつっこんでバッグの底の方を探す。目当てのものを手繰り寄せて出してやると、エンポリオがぱっと目を輝かせた。

「チョコレートだ!」

「なにお前、大金よりチョコレートがいいわけ?」

 当たり前だと言わんばかりにこくこくと頷いた子供を見て、クロエは思わず笑った。

「お前、名前は?」







「お前、名前は何だ?」

 音楽室に出入りするようになって、しばらく経った日のことだった。ピアノの椅子に腰掛けたクロエの視線の先には、部屋に入ってきたばかりの男が立っている。どこかで見たことがあるような気がしなくもない。誰かを探すように――十中八九エンポリオだろうが、きょろきょろと部屋を見回し始めたとき、ふいに背中の文字が見えてかろうじて男が囚人なのだと知れた。

「こういうときって普通、『誰だ?』とか『何者だ?』って言うんじゃあない?」

「そうか。お前は何者だ?」

 馬鹿正直にそう返してきた男に面食らう。エンポリオは子供だからまだ分かるが、相手は明らかに成人で、しかも囚人だ。何も囚人が全員極悪人だと思っているわけではないが、目の前の男にはあまりにも落伍者の臭みがなかった。かといって、罪を罪とも分からない気の狂った人間にも見えない。
 室内にエンポリオがいないと分かった男は、クロエの方に向き直った。

「オレは囚人。武装強盗とか、窃盗罪で入った。あんたがウェザー・リポート?」

「そうだが……」

 なぜ知っている、と疑るような視線を受ける。エンポリオから聞いた、と言うと、ウェザーは疑いもせず「そうか」と頷いた。

「あんた、ちょっと変だね」

「そうか?」

「うん。そういうところが、変だよ。おかしい」

「……君も、なかなかにおかしいと思うが」

 思わず笑いのこぼれたクロエを、ウェザーは気難しそうな表情で受け入れた。その顔がまたおかしくて、笑いを誘う。
 エンポリオの話では、このウェザー・リポートという男は殺人囚らしかった。いつ、どこで、誰を殺したのか全く覚えていないという奇異な男。記憶もなければ自分が罪人である自覚もないのだろう。だから囚人のような後ろ暗さがない。気を違ったわけではないから、浮いた雰囲気もない。
 ふいに、ウェザーが視線を逸らす。クロエが肘をついているピアノの、蓋の上に置かれた雑誌に気づいたようだった。

「それは?」

「暇つぶし。読みたい?」

 一番近くにある雑誌を意味もなくぱらぱらと捲ってみせる。表紙を見ると、フロリダを中心としたグルメ雑誌だった。
 本屋で手に取ったのは偶然だ。最悪英語で書いてあればいいと無作為に盗ってきたから、雑誌のラインナップに一貫性はない。ティーン向けのファッション誌から、バイク雑誌、旅行雑誌、科学誌、果てはでたらめばかりのゴシップ誌もある。
 いいのか?と確認してきたウェザーに頷くと、少し迷った後で、一番近い雑誌を手に取った。求人情報誌だった。

「……本当にそれ読むの?」

 刑期がどれほどか知らないが、まさか就職する気でいるのだろうか。前科者、それも殺人者を募集している職場があるはずがない。そんなものを読む必要はない。そう含んで言ったのだが、ウェザーはにべもなく頷いた。

「面白そうだ」

 会ったばかりの人間だった。何を考えているか全く分からない、表情の変化が希薄な男だった。けれどそのとき、クロエは目の前の男に興味を持った。きっと盗ってきたどの雑誌より面白いだろう。飽きてきたと思った塀の中に、もう少しだけ留まってみたくなったのだ。

「ねえ、これあげるよ」

 ポケットに入れたままだったピアスを片方持って、ウェザーの耳に当てる。こじんまりとした深い色の石は、透き通るように白いウェザーによく似合った。

「……ピアスか?」

「なんだ、知ってるの」

 記憶喪失で、就職したいわけでもないのに求人雑誌を読む男。この小さなものが何なのかも分からないだろうと踏んだのだが、クロエの期待は外れた。
 ウェザーが真顔で「それくらい知ってる」と言った。それがまたおかしくて、クロエは小さく笑った。


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