一足先に帰った音楽室は、相変わらずだった。全てが同じではない。整然としていたはずのテレビの周辺は菓子の袋やジュースの空き缶が散乱しているし、ピアノ幽霊はそのしっとりとした光沢を薄く積もった埃の下に隠してしまっている。
 けれど、壁に埋まった張りぼてのドアも、クロエのソファも、そしてその上に無造作に置かれたテレビガイドも、そっくりそのままそこにあった。
 たった数ヶ月離れていただけなのに、ひどく懐かしい。この場所で意味もなく時間を費やしていたあのころが、遠い昔のことのように感じた。
 雑誌を手に取って、ソファに身を沈める。なんの気なしにぱらぱら捲っていると、背後の壁の隙間から誰かが入ってきた。長引く話のように見えたが、そうでもなかったらしい。どうしたって徐倫が折れるようには見えなかったから、早々に説得を諦めてすごすご帰ってきたのだろう。どうせしょぼくれているに違いない。それか、むすっとした顔で拗ねているか。
 どちらも容易く想像できたのをおかしく思いながら、少しは励ましてやろうとソファ越しに後ろを振り向く。そこにいたのは、エンポリオではなかった。

「……ウェザー……」

「クロエ……しばらくぶりだな。いつ帰ってきたんだ?」

「あー……アンタほんと、変わんないね」

 ついさっきだよ、と質問に答えると、ウェザーは「そうか」とだけ頷いた。よくよく見れば、少し目を見張っているような気もするが、その程度だ。まさかエンポリオのときのような涙の再会を期待したわけじゃあなかったが、それにしても、変わらない。

「懲罰房は、どうだった?」

「聞かないでよ」

 それもそうだな、とウェザーが苦笑した。

「そっちは……医療棟に入院中だって聞いたけど」

「ああ。ついさっき、抜け出してしまったが」

「……ふーん」

 オレのことは、無理やり入れたくせに。心の中で独りごちる。
 クロエはあのあと、医者に退院だと言われるまで医療監で治療を受けた。看守の目を盗んで逃げようとはしなかったし、医者を唆して治療期間を短くさせたりもしなかった。曲がりなりにもスタンド使いだったから、並みの人間よりは早く退院しただろうが、詐称はしなかった。
 ただ点滴に繋がれ包帯まみれになって寝ているだけの日々のなんと退屈なことだったか。それもこれも、誰かの言葉に素直に従ったからだというのに、肝心のその人は医療棟を抜け出して治療を放棄したと来た。
 自分がそうしたからと言って、相手に同じことを求めるのは、違う。そんな決まりはないし、約束もしていない。けれど少しだけ、口惜しかった。

「オレだって、アンタが死ぬよりはあそこに居てくれた方がマシって思ってるんだけどね」

「……オレは、死んでない。死ぬほどの傷じゃあなかった」

「うん、まあね」

 惚れた弱みというのを痛感する。あそこでウェザーの言葉を無視してしまえば、少しは分かってもらえたのかもしれない。そうしていたら今頃は死んでいただろうか。けれどそれで、彼の心の少しでも遺恨を残せるのなら、やってみる価値はあった。どうせウェザーには毎回負けているのだ。狡いやり方でも、一度くらい白星を挙げてみたい。彼を振り回してやりたい。

「……馬鹿馬鹿しい」

 呟くと、ウェザーが訝しげに首をかしげた。「クロエ?」なんでもない、と首を振る。

「これ、随分読み込んだみたいだね」

 手に取ったまま忘れていた雑誌が目について、これ幸いと話題を振る。懐かしいテレビガイド。ページの端々は捲り上がり、表紙は小さな皺や傷で溢れている。物を丁寧に扱うウェザーにしては、珍しい汚し方だ。何十回も、繰り返し読まなければ、こうはならない。

「君が、新しいのを持ってこなかったからな」

「……うん、そうだね」

 表紙の隅に印刷された文字を見る。もう四ヶ月も前のものだった。

「クロエ。以前君に、オレのせいでここから逃げられないのかと聞いたな」

「うん。オレは、誤魔化した」

「……あれから、考えていたんだ。オレは確かに、君が雑誌を持ってきてくれるのを期待していた。習慣だったんだ。それ無しで生活を送ろうなんて思っていなかった。それが君の負担になっていたとも思わずに」

「だから、違うってば……」

 アナスイといい目の前の男といい、なぜこうもみんな自分の話を聞いていないのだろう。雑誌を床に放り出すと、咎めるようにウェザーが目を細めた。だんだん重くなってきた頭を、肘をついて支える。
 自分が好きでやっていたことだ。相手が重荷に思うならまだしも、自分の負担になっている?笑ってしまう。

「考え方がおかしいよ。オレが勝手にやってたことだろ……なんでオレの負担になるんだ。ねえ、嫌だったんなら、そう言えばいいよ。はっきりさ」

 ウェザーは首を横に振った。

「オレは、君を縛っていた。……向き合うこともせずに。一方的に」

「違うよ。違う、全然違う。オレがウェザーを閉じ込めてた」

「クロエ」

「だってそうだろ。正面からは頼んでこなかったけどさ、外に行きたがってたこと、知ってたよ」

「……そんなことは」

「あるだろ。毎回毎回、あんなに真剣に雑誌読んでさ。あれを通して何を見てたかなんて、分かるよ。分かってたんだ」

 毎日放送される番組が紹介されているだけの、退屈な雑誌。それ一つでは、肝心のテレビがなければ何の意味もなさない雑誌。

「外の人間の、普通の生活に憧れてるんだろ。そこに行きたいんだろ」

 朝のニュース番組を流し見ながら、慌しく家を出る会社員。子供たちを学校に送り届けたあと、家事をしながらソープ・ドラマを見る主婦。学校や幼稚園から帰ってきて、カートゥーンを見る子供たち。夜になって、バラエティショーをソファで一緒に見る家族。あれこれけちをつけながら、時に感動しながらドラマを見ている恋人たち。
 そんなくだらない、日常の風景を、あの番組表を通して見ていたのだ。彼にはそれしかなかった。この石の海の中では、それくらいしかできなかった。

「アンタがずっと、ここに居ればいいって思ってた」

 ウェザーの目を見る勇気はなかった。クロエは足元に目を伏せたまま続ける。

「記憶が無くなる前に何したかなんて知らないけど……ずっとここに閉じ込めておきたかった。だって、外に出たら、オレみたいな犯罪者とつるんだりしないだろ。そういう人間じゃあないんだ……普通なんだ。真っ当な人間なんだ。ずっと……オレの側にいてほしかったけど、」

 けれど、もう、違うのだろう。

「クロエが居てほしければ、いつでも傍にいる」

「……ひどいこと言うよ」

 始めから、ウェザーは自分の傍になどいなかった。いつだって、自分とは正反対の方を見ていたのだ。それがどんなに遠くとも、届かないと分かっていても、ずっと見続けていた。隣にいるようでいて、心は、触れ合わなかった。
 クロエはウェザーの視界に入らない。けれどそれでもいいと思っていた。ずっと、向こう側を見ているウェザーを眺めていたかった。

「ウェザー・リポート」

「……なんだ」

「嫌いだよ」

「…………そうか」

 嘘だよ、馬鹿だな。そう言ってしまおうかどうか少し迷って、結局言わなかった。







 はあ、はあ、と息を吐く音が響く。予め用意しておいたホテルの一室だ。散々無理をした脚が震えている。カーペットの敷かれた床に倒れこんだまま、クロエは声を上げて笑った。

「ははっ……はあ、はっ……っ、はは……ねえ、驚いた?」

「なっ、なに……笑ってんだ、よ……」

 めちゃくちゃに倒れた車椅子に座った状態のまま、アナスイが言う。腕をついてなんとか立ち上がろうとしているが、元々が重体だ。力が入らず滑るだけの腕に苛立ったのか、そのうち諦めたようにため息をついた。アナスイが座っているのか、それともアナスイが座られているのかはっきりしないが、倒れた車椅子は車輪の部分だけがまだカラカラと動いている。

「べつにー…………っはは、あはは」

「変なやつ……」

 医療棟のトイレの個室のドアを、このホテルのバスルームのドアに繋げた。ドアをくぐれたのは、アナスイとクロエだけ。アシッドマンはすぐに解除したから、今頃医療棟で相当混乱しているだろう。トイレの個室に入ったはずの囚人二人が、どこにもいないのだから。どうせ脱獄なんてできやしないと甘く見て、追跡用のGPSやライク・ア・ヴァージンのような殺傷能力のある枷をつけておかなかったのが運の尽きだ。おかげで自分は生き延びれたし、アナスイはこうして逃げられた。
 未だに笑っている膝になんとか力を入れて立ち上がる。恨めがましい目でこちらを見てくるアナスイに手を貸して、車椅子ともども立ち直させた。

「もっと広い場所に繋げられなかったのかよ……」

「うるさいな。上手くいったんだからいいだろ」

「よくない!」

 オレは頭をぶつけたぞ、とアナスイが顔をしかめる。
 バスルームのドアと、部屋の壁との距離はせいぜい十フィートだ。看守に追われたままの勢いで入ったから、歯止めが効かずに壁に激突してしまった。おかげで車椅子にぶつけた腹や太ももがひどく痛む。けれどアナスイはその比じゃあないだろう。今は気づいていないようだが、ぶつけたのは頭だけじゃあないはずだ。車椅子に乗せられたまま、いつの間にか壁に正面衝突していたときの驚きと痛みは、あまり想像したくない。

「それで、アナスイ。このホテル、前払いしてあるからあと一週間くらいは泊まれるけど、どうする?」

「あっ、てめ……また銀行襲ってきたな……」

 肩を竦めてやりすごす。アナスイは何か文句を言おうとしたが、緊張の途切れで傷が痛んできたようで、結局無言のままクロエをじと目で睨んだ。

「……オレは、徐倫を助けると約束した。水族館に戻る」

「折角出てきたのに?」

「バアカ、音楽室にだよ。檻の中はもうたくさんだ」

 アナスイは一呼吸置くと、言いづらそうに「助かった、」と言った。

「別に。お前にやってもらわないと困ることがあっただけ」

 なんのことかと聞いてきたアナスイに、自分の両手をよく見えるようかざしてやる。看守の制服を着てはいるが、万一アナスイの房に向かう途中で他の看守に出会っていたら即座に囚人だと見破られていただろう。クロエの両手首は、まだ銀色の輪にくくられている。

「鎖は切ったんだけど。ほら、あそこの手錠って作りが独特だろ。ピッキングは得意じゃあないし、ノコギリで腕まで切り落としたりなんかしたくないし。……お前なら、分解できるだろ」

「……いくらオレだって、ある程度は道具がないと……」

「道具って、ドライバーとかペンチとか、そういうの?あそこの机の上に揃ってるけど」

 それにペンチなら今持ってる、と言ってアナスイの手錠の鎖を切った小型のペンチを出して見せる。アナスイはそれを受け取り、しばらくクロエの手錠を見つめた。渋っているのか、それとも状況が飲み込めないのか、無言で考え込んでいるアナスイに、クロエは言った。

「手錠どうにかしてくれたら、あれ、チャラにしてあげるよ」

「……“あれ”って?」

 思い辺りがないとばかりに眉をひそめるアナスイに、少しの苛立ちがちらつく。人のものをあんなにしておいて、きれいさっぱり忘れるなんて、いい性格をしてる。

「お前が分解した、オレのカルティエだよ」

げ、とか、うえ、とか。そんな声を出そうとして失敗したようだった。口を中途半端に開いたまま、アナスイが固まる。それがおかしく思えて思わず笑うと、アナスイは観念したように深々とため息をついた。

「……マイナスドライバーと、針金をくれ」


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