刑務所によって多少の差はあるものの、大抵のところにはあまりドアというものがない。正確に言うと、“囚人が自由に開け閉めできるドア”がないのだ。この水族館では特にその少なさが目立つ。監房と廊下を仕切るのは壁ではなく檻で、懲罰房のドアや棟と棟の連結通路のドアには厳重なロックがかかっている。かと思えば、シャワー室やトイレの入り口にあるのは壁の仕切りだけで、ドアのあるべき場所が空洞になっていたりもするが、クロエにとっては同じことだ。ドアがない、ただそれだけ。
 人影のない廊下を進む。曲がり角に置いてあった車椅子を一つ拝借して、足早に用務室へ入り込んだ。消毒液や輸血パック、ガーゼ、包帯など役に立ちそうなものを手当たり次第に車椅子の背もたれについているポケットへ放り込む。部屋の中には様々な薬がレターボックスのような棚に並べられていたが、それには手をつけなかった。変なものを飲ませて死なれても困る。
 誰かが来る前に素早く部屋を出ると、クロエはまた灰色の廊下を進んだ。目指す先は、重体の囚人が入院している帯域だ。特に、あの髪の長い解体魔が寝ている部屋。

09 きれいな雨が降る


 歩きながら横目で房の中を盗み見て、目的の人物がいないのを確認しては、また次の房に視線を写す。
 六番目の部屋に、アナスイはいた。眠っているのか意識がないのか、備え付けのベッドの上で静かに横たわっている。両足は肩幅ほどしかない鎖のついた錠で繋がれ、右手にかけられた手錠のもう片方はベッドの外枠に繋がれている。
 まるで懲罰房にいたときの自分を見ているようだった。到底怪我人にする仕打ちではないが、患者である前に囚人なのだ。このくらいの処置は想定内だった。
 檻の外、灰色の壁に取り付けられた機械にカードキーを差し込んで扉を開ける。服の下に隠していた小型のペンチを取り出して錠の鎖を挟み込めば、バチン、と思っていたより大きな音がして、鎖が切れた。包帯まみれの指がぴくりと動く。小さなうめき声とともに、アナスイが身じろぎする。瞼が開く。起き抜けの、ぼんやりとして虚ろな瞳がみるみる見開かれて、意識を取り戻す。

「……………おい……おい、待て、お前ッ……!」

 途端に騒ぎ出すアナスイに、立てた人差し指を唇に当ててみせる。全く納得がいかない、というような表情のまま渋々黙ったアナスイをそのままに、足錠の鎖もペンチで切った。これで、解体魔に繋がっているのは、左腕の点滴と患者の状態を観測するベッドサイドモニタのケーブルだけだ。

「…………クロエか……?」

「他の誰かに見える?」

 ピッ、ピッ、と機械音を鳴らすモニタに目を移す。睡眠時は緩やかだった心電図の波が、少しずつ荒立ち始めている。アナスイの鼓動を肌で感じたことは何度かあったが、視覚で感じるのは初めてだった。

「……相変わらず、可愛げのない……」

 軽口には沈黙を返した。男に可愛げがあったって困るだけだ。
 モニタの裏から生えている大量のケーブルを視線で辿っていくと、どれもアナスイの患者着の下に行き着く。恐らく、このケーブルから取得される情報は、リアルタイムに外部へ送信されているのだろう。入院していたとき、ケーブルの煩わしさに耐えかねて血圧計や電極パッドを剥がしたことがあったが、その度になぜか看護士や刑務官が駆けつけてきたのだ。患者が暴れたり逃げ出そうとしたときのために、どこかで監視している可能性が高かった。

「生きてたんだな……むかつくほどピンピンしてやがる…………その服は、どうした?」

 聞き捨てならない言葉があった気がしたが、今は時間が惜しい。アナスイの片腕を持ち上げると、自分の肩に担いで身体を持ち上げる。

「看守のやつ借りた。看護士でもよかったんだけど、あいつらカードキー持ってないんだよね。二人伸すとか面倒くさいからッ……お前、重くない?」

 アシッドマンを出して手伝わせてもみるが、なかなか上手くいかない。もう一度力んで、なんとかアナスイを立ち上がらせて、持ってきた車椅子に座らせる。少し荒れた息を整えようとため息をついていると、アナスイが「体力なさすぎだろ」と呆れたように言った。うるさい。

「クロエ、お前なにする気だよ。懲罰房から逃げられたのに、なんでこんなとこ戻ってきてんだよ。捕まったらどうするんだ」

 最初に静かにしろとジェスチャーしたのを忘れていないのか、アナスイは極力声を殺していた。けれどその声色は、確実に苛立っている。あるいは、焦っているか。
 ふう、と息をついて点滴をスタンドから外すと、アナスイに手渡す。腕より高くしとけよと言い添えると、無視されたと思ったのか、アナスイが不機嫌そうに眉間の皺を深くした。ついでに、床に放ってあった元々の衣服が入っているのだろう布袋も手渡す。アナスイの顔はますますひどくなる。

「怒るなよ」

「怒ってない」

「あっそ。でも、お前こそ、こんなところでなにする気?ベッドの上で寝てれば、徐倫の役に立つわけ?」

 心電図の音が乱れた。多少の速度の波はあっても同じ間隔を保っていた機械音が、急に立ち止まって後ろとぶつかったようなリズムを刻んだ。表しているのは、動揺だろうか。クロエには分からない。

「……ここで話すのは、フェアじゃあないかもね」

 速度の落ち着かない心拍の波も、時折顔を覗かせる不整脈も、全てアナスイの内心を中途半端に代弁してしまう。詳しいことは分からなくても、他人の中へ否応言わせず踏み込んでいるような状態は、こっちにしたって、居心地が悪い。

「……誰から聞いた」

「誰からでも」

「……ウェザーとは、もう会ったのか」

「うん、まあね」

「…………そうか」

 アナスイの患者着を肌蹴させて、身体につけられている医療機器を外していく。まずは呼吸測定器。次に、血圧計。あと一つ二つ何かあったが、何のためのものなのかは知らなかった。あとは、アナスイの胸部にいくつも貼られた電極だけ。
 ピッ――ピッ――ピッ――少しの沈黙に、機械音が響く。さっきよりも規則的で、けれど、少し早い。

「……なあ、クロエ。こんなこと言ってもお前は信じないだろうが、オレはあのとき、確かにお前が好きで……お前がこっちを向けばいいって、思ってたんだぜ」

「……そういうことにしといてあげる」

 アナスイは、肩を落として表情を苦くした。

「……本当、お前…………」

「ほら、時間ないから。行くよ」

 電極のケーブルをまとめて手に持って、一気に引っ張った。ブチブチッと耳に悪い音がして、ケーブルアナスイの肌から外れる。ピ――、心電図がわめき出す。肌に残ったままの電極パッドは、後でどうにかすればいいだろう。
 アナスイを乗せた車椅子を力いっぱい押す。床を靴底で押しつぶすように踏ん張って、駆け出す。心電図の音が遠くなっていく。静養を邪魔された周りの囚人が騒ぎ始める。背後に靴音。

「おい、そこのお前!なにしてる!待て!」

「お、おい、クロエ、本当に大丈夫だろうな!」

 アナスイがうろたえる。看守の怒号と靴音が続く。車椅子の車輪はひたすら回る。

「……ああッ、もう、重、いッ!このデブッ!」

「筋肉だ馬鹿!」

 減速せずに、曲がり角に突っ込む。傾いた車体から包帯や消毒液がいくつか零れ落ちる。レーシングゲームさながらのドリフトに、アナスイが持ち手にしがみついた。アシッドマンで外側から車体を押さえて、なんとか曲がり切る。そのまま廊下を走り抜けと、耳をつんざくような警報が鳴った。次いで、どこかのドアが閉まる音がする。

「おい、今の音は全ての扉にロックがかかった音だ!閉じ込められたぞ!」

「…………アナスイ、刑務所で、囚人がっ、自由に開け閉めできる、ドア、が、どこにあるか、知ってる?」

 息も絶え絶えになっていた。掠れた自分の声の情けなさに、確かに体力不足かもしれないと思い直す。けれどこんな無茶は今回限りだ。肉体改造なんて、必要ないだろう。クロエのすることは、歩いて銀行に行って、銃を見せびらかして、また歩いて帰るだけ。
 もう一つ角を曲がると、別の看守と鉢合わせた。咄嗟にアナスイがダイバーダウンを出すが、「戻せ!もう出られる!」そう叫んでドアのない部屋に駆け込む。アンモニアと芳香剤の交じり合った臭いが鼻を突く。アシッドマンが目の前を飛んでいく。
 幸運なことに、こういう場所にあるドアというのは、大抵が押し開きだ。
 そのまま、突っ込む。

「さっきの答え、トイレの個室」

 アナスイの肩が跳ねたのを見て、クロエは小さく笑った。


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