叔父に報告した方がいいだろうか。しかし信じてもらえるかどうか。ラコステ自身いまだ半信半疑なのだ。
 それに。不思議なことに、ホワイトスネイクの相貌を思い出そうとしても、髪の色一つ思い出せなかった。人種さえ分からない。背の高さも、どんな服を着ていたかも。全てがもやの中でかすんでいる。これではますます説明のしようがない。
 ラコステは諦めて仕事に戻ることにした。持ってきたはずのワニの餌を探す。バケツは子ワニの死骸のそばに置いてきていた。群がっている鳥やねずみを警棒で追い払って、バケツを持ち上げる。
 そのとき少し遠くにワニの群れが見えたので、ラコステはふと、自分の能力を試したくなった。ホワイトスネイクが言った通り、自分は沼を作ることができるようになったのだろうか? その沼は、ワニが泳ぐに適したものなのだろうか?
 周りの地面が熱で溶けたようにぐずぐずになって、下から水が滲み出てくる。緑の草木がどんどん茶色い泥水に飲まれていく。一分足らずで大きな沼が現れた。ラコステの立っている場所だけが、ドーナツの穴のように残っている。
「看守さん! 看守! ロッコバロッコ看守!」
 これでワニがここまで一直線に来れるぞと小さく笑みを浮かべたところで、慌てた男の声に水を差された。
 スポーツ・マックスだ。振り返るとまた白いスーツにライク・ア・ヴァージンとその親機をつけた囚人がこちらへ向かってきていて、ついでに沼の中に沈みかけていた。腰まで水に浸かっている。
「助けてください! 溺れちまう!」
「……そこから、右に歩け。浅いところがある。おい、違う。お前から見てじゃあない。僕から見て右だ」
 ラコステは適当にそう言って、沼の中を作り変えた。スポーツ・マックスが歩いていく方向の底を固くしっかりしたものにしてやり、盛り上げて、深さをなくしてやる。
 男が見ていない隙に、ラコステはドーナツの真ん中の離島から外側へ向かう通り道も作った。これで奇妙な状況はやや軽減されただろう。自分もこの道を通ってここまで来たのだと言えばいい。
 スポーツ・マックスはバシャバシャとしぶきを上げながら沼から這い出ると、ラコステの作った道の上を用心深く歩いて沼の真ん中までたどり着いた。
「どうしたんスかこれ? 急に現れたように見えましたが」
「いや、もともとあった。もともと水場に近くて地面の緩い場所だから、なにかがきっかけでこうなったんだろう。それより、お前こそどうしたんだ? 今は労働の時間じゃないぞ」
「そうですよ、午後の自由時間です」
 スポーツ・マックスは自分の体を見下ろして「ゲッ」と顔をしかめた。「泥だらけじゃあねえか……スーツが台無しだ。高かったのに」
「囚人がそこまで自由にあちこち出歩けるとは知らなかったな。その腕輪を渡した看守は誰だ? 所長に報告してやる」
「……子ワニが死んだって聞いたから、すっとんで来たんスよ。あ、それですか? 本当に死んでますね」
「誰から聞いたんだ?」
 囚人は答えない。子ワニに夢中で聞いていないようだった。舐め回すように遺骸を見つめて目を細めている。
 ラコステは静かに離島と沼の外とを繋ぐ道を沈めた。ゴポゴポと水音が立っているが男は気づかない。ワニの背の模様が綺麗だとか、ツヤがいいだとか、そんなことを口走って外の様子などまるで気にしていない。
 西の方からワニの群れが近づいてくる。小川から一旦這い出たワニたちが、するりと沼へ入っていく。一匹、また一匹と。大人のワニだけでも全部で十五匹はいる。偶然島中のワニが集まってきたらしい。もちろん母親ワニの姿も見えた。
 ラコステがすっと体を引いてやると、許可されたと思ったスポーツ・マックスが子ワニに近づいて、その体を触り始める。「傷がない! これはいいぞ。剥製にうってつけだ」
「あなたが『大蛇につつかれたら』なんて言うから、てっきり動物に食われて死ぬんだと思ってたんだ。でもこれは……病死か? 餓死か? どちらにしろ無傷だ!」
 スポーツ・マックスの背を、押し出したらどうなる? 警棒で彼の足を引っ掛けて、そのまま蹴り飛ばしたら? 首根っこを掴んで放り投げてやったら?
 沼にはワニが潜んでいる。そろそろ目と鼻の先まで来ているころだろう。
「…………持っていけよ」
「え? なんですって?」
「持っていけと言ったんだ。剥製でも何でも作ればいい。その子ワニの体はお前にやる」
 一瞬スポーツ・マックスの目がぎらりと輝いて、口元が意地の悪い笑みを作った。すぐに消えてしまったが。さっと表情を戻すと、両手でラコステの手をとって大げさに握手を交わそうとする。しかしラコステはその手を振り払った。
「早くその子ワニを持って男子監へ戻れ。今すぐだ」
「……死骸を? オレが持つんスか? 看守さん、オレはスーツ着てんだぜ。こんなの抱えてったら汚れちまう」
「さっき沼で散々汚れただろう。それ以上はひどくなりようがないと思うが」
 それでも囚人がぐずぐずしているのを見て、ラコステは冷ややかに続けた。
「今すぐ持って返らないのならお前はもう二度とワニの遺骸を手に入れることなんかないぞ。子ワニを抱えて帰るか、手ぶらで帰るか、どっちなんだ?」


 体長一ヤード、体重十ポンドにもなる子ワニの遺骸を抱えて、囚人が必死で歩いていく。その後姿を見送りながら、ラコステはその場にしゃがみこんだ。ざまあみろ。せいぜい男子監までじっくり子ワニの重さを味わえばいい。そんな気持ちで軽く鼻を鳴らす。
 ラコステはなぜスポーツ・マックスを逃がしたのか? なぜワニに食わせてしまわなかったのか?
 変なものを食わせてワニが腹を壊したら困る、という理由もなくはないが。一番は、ラコステの機嫌がよかったからだ。じわじわと近づいてくるワニの群れを見て、水面にうっすらと浮かぶ目や鼻、そのうろこを見て、気分が高揚していたのだ。
 ホワイトスネイクの言ったことは本当だった。ラコステはよりいっそう、ワニに近づくことができたのだ。ワニになれないことは知っている。ワニのように生きることができないというのも、もちろん。
 しかしこれは大きな収穫であり、前進だった。この能力があれば今までできなかったことが山ほどできる。具合の悪いワニだって、今度からは、一匹だけ沼に沈ませてそこから檻まで繋げていけばいい。楽に隔離できる。
 つまるところ、ラコステの体内で生成されたドーパミンが、スポーツ・マックスに子ワニを持っていかせたのだ。
 ラコステはバケツをひっくり返して鶏肉を全て沼に落とした。バシャバシャと水しぶきが立ち、ワニたちが我先にと餌に群がる。いつもより多くのワニがやってきたから少し足りないかもしれない。
 もう一度食料庫へ行ってこよう。水面に向かって足を踏み出す。ブーツの底が触れるか触れないかの瞬間に、泥水は土に変わった。ラコステの歩く場所だけが土になる。道ができる。
 便利なものを貰った。ラコステは上機嫌で湿地帯を後にする。もはやホワイトスネイクの正体など、気にも留めていなかった。


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