「かはは」
なんだか笑いたくなった。俺の首元には鋭利な刃物がぴたりと宛行われている。情けなく女に馬乗りにされている男を、誰が笑わずにいられるか。
こいつはまるであいつのようだと思う。俺は笑ってあいつが笑わなかったように、俺が笑っても、彼女の表情は変わらず無を保っている。
彼女がすぐに、ナイフを持つ腕を手前に引かなかないことが滑稽だった。その滑稽さに辛うじて生かされている、俺が一番可笑しい。
「これ、引かねぇの?」
自分の頸動脈に触れたままの冷たいナイフを指の平でつうと撫でて、感情の死んでいるような顔した女に問うた。彼女は刃物の腹で軽く俺の肌を叩きながら、口を開く。
「急ぐ必要なんてないもの。人識とお喋りするつもりもないけれど」
感情の篭められていない冷たい声。彼女の白い首が震えるのが、俺の目に妖艶に映った。
「焦らしプレイってやつ?んなことされたら俺、我慢出来ねえよ?やっちゃってもいーの?」
「………」
あ。
彼女の頬が少し歪んだ。可逆心を孕んだ笑み。どうでもいいモノを見るような目。こういうのも悪くねえかもと思ってしまう俺は、いつも通りにいつも通りだ。
「ほら」言って彼女はナイフの先で薄く肌に線を描いた。ぴりぴりとした感覚が走る。じわりじわりと赤が沸くのがわかった。
「抵抗しないと、死んじゃうよ」
楽しそうにするわけでもなく、先程の笑みなど無かったかのように、何も映さない目で俺を捕らえて唇だけを動かした。
「んー…、でも俺、お前に勝てる気しねえよ」
「秘蔵っ子が、何言ってんの」
「秘蔵っ子だからって何だよ。それに、同族に殺されるのも悪くねえと思うんだわ。俺なんて所詮こんなもんだろ」
「ふうん、つまんないの」
虚ろな声で呟き、俺の首からあっさりと刃物が離すと、彼女はそれを自分の頸に添わせ、にやりと口角を上げて笑った。
「秘蔵っ子のくせに」
どくん。心臓が大きく跳ねた。
咄嗟に彼女の手首を掴んで、行為を制止する。彼女の動きは思っていたより簡単に止めることが出来た。このままもう少し力を込めれば、ポキリと折れてしまいそうな細い腕。
「なに、してんだよ」
俺の突然の動作に驚きもせず、「あーあ」と言いたげな飽きれ顔を浮かべている、ように見えなくもない。彼女の無表情の中には、様々な感情が蠢いているように思えた。
「人識が、しないから」
「はあ?何を」
「抵抗。防衛。攻撃」
無機質な単語をつらつら並べるその声と、からんと落ちた金属の上げる音が、同じ音のように響いた。
「抵抗と防衛はしたじゃねえかよ……」
「攻撃は?私が女だからって、躊躇った?私だってみんなと同じ零崎なのに?」
「ああー?お前、俺の事全然知らねえだろ。俺が容赦とか加減とかするような奴だとでも思ってんのかよ」
「じゃあ今の体勢は何」
「ただの実力差じゃね?」
「なあんだ、つまんないの」
飽きてしまったゲームのコントローラーを乱暴に投げ捨てるのと同じように、俺に向かってそう吐き捨てて、跨がったままだった俺の体から離れた。
「何がしてえんだよ、お前」
「人識にうっかり殺されちゃおうと思って」
……軽くとんでもないことを言いやがった。彼女からは相変わらず感情は読めない。
「でももういいや。人識が無理なら自分で処理するから。んじゃね」
「おい……!」
俺から去っていこうと背を向けた彼女の腕を再び掴んで引き留めた。彼女は俺の手を振りほどこうともせずに、ただ黙って冷たい視線を向けているだけだ。
このままこれで終わるのだけは、避けたいと思った。
「仕方ないから今度、俺がお前をうっかり殺してやんよ。それまでは誰にも殺されんじゃねえぞ。勝手に死んだら許さねえからな」
「………」
「例えお前自身であっても、お前を殺すことは許さないぜ。俺がいっちょお前の願望に応えてやるからよ」
そう言うと彼女はにやりと口角を上げた。
「そう、ありがとう。それは楽しみね」
「だから遺書でも書いとけ」
掴んだ腕を離せば、彼女は何も応えないまま去っていった。あいつの茶番に付き合うなんて俺らしくないなと感じつつも、暫く続くであろう彼女との命のやり取りを思えば自然と頬が緩むのだった。