丸くなったんだと思う。時間を流れているうちに、自然と角が取れていくように……。それは人外の彼とて同じだったらしい。

ぎしぎしと嫌な音を立てて扉の前へ立ち、ノブに手をやると、扉は何の抵抗もなく開かれた。無用心だ、などと部屋の主を咎めるつもりはない。用心が必要なのは部屋の主ではなく来訪者の方だろう。つまり、今この場合で言うところの私である。

ここへ来るのは初めてではない。最近になってよく増えた。彼が、死んでから。彼の存在が世界から消えて、私は彼に会いに、自分から足を運ぶようになった。

言うまでもないことだが、彼は社会的に死んだだけであって、生物学的に死んだ訳ではない。ただ単に、社会的に見れば、存在していないのと全く同じだという話だ。

「出夢ー、来たよ」

「んんー?」

くぐもった声を漏らして、ベッドの上の彼はこてんとこちらへ首を傾けた。大きな瞳の半分は瞼に隠れている。どうやら意識がはっきりとしていないみたいで、久しぶりの再開にも関わらず、特に驚いた様子もない。
気の抜けた顔、気の抜けた声、頬に垂れた短めの髪。やっぱり、以前の出夢とは全然違う。違うからと言って、出夢が出夢である以上、私の気持ちは変わらないのだけれど。

脱いだ靴を揃える事もせずに、私は部屋の奥へ進んで、ベッドの近くの床に膝を立てた。久しぶりの再開が嬉しくて、出夢の顔に私の顔をぐいと近づけ、声を掛ける。「会いたかったよ」きっと、私の顔からは中途半端に感情が漏れて、気持ち悪い笑顔になっているんだろう。

「僕もめーっちゃ会いたかったぜ。隠居生活は慣れねえや」

出夢はごそごそ体を動かして、私の背中へ腕を回した。当たり前のように体を引かれて、私が作った僅かな距離は、彼に簡単に埋められる。頬に頬をぎゅうとくっつけられ、息が首にかかって──私は確かに出夢が生きていることを感じた。彼を視覚でなく直に肌で感じることで安心出来たのか、胸の辺りにあった塊が、吐く息と一緒に抜けていく感じがした。

「ちゃんと、ご飯食べてる?」

「まぁな、腹が減ったら適当に食ってるよ」

「きちんと3食食べないと、体調崩しちゃうよ?こんっな華奢な身体して。絶対私より細いし」

「ああん?それ誰に言ってんだよ、僕を誰だと思ってんだよ。僕がそんななよっちく見えるか?」

「なよっちく…は違うかもだけど、それでも心配なもんは心配だって」

彼の背中へ腕を回して、うっすら浮いた肋の骨を指で撫でた。シャツの上からでもはっきりとわかるくらい、彼の身体には無駄な肉が無い。

「じゃあお前が住み込みで僕のお世話してよ。僕、料理とか全然する気になんねーし、お前がいたら楽そうだし、困らなさそう」

「出来るだけ一緒に居たいのは山々だけど、九州はちょっと遠いかな……」

彼の願いを素直に受け止めてやれない私は、自分が思っている以上に冷たい奴かもしれない。一瞬、出夢から言葉が消えてしまった気がして、私は慌てて付け足した。

「ほら、どうせならさ、関西で。関西の田舎のほうで一緒に住もうよ。知ってる人が誰も居ないとこ。奈良の下の方とか、滋賀の湖西の方とかさ」

「んー、あんま気は進まねえけど、まあ……悪くはねえかもな」

そう言って身体を離し、出夢の綺麗な瞳に捕らえられる。長くて綺麗だった髪は、今はもう無いけれど、その目の色は変わらない。

………彼の目には。彼の目には何が映っているのだろう。何を映してきたのだろう。どんな世界を見てきたのだろう。出夢はあまり話してくれないから、私は度々自分勝手な妄想をする。彼の家族のこと、愛する妹のこと、昔大好きだった人のこと……断片的な彼の言葉をかき集めて、過去の出夢をつくり出すのだ。

住んでいた世界が違うのだから、これからも世界は同じに映らないだろうけど、同じものを見たいと願うことくらいは許されるだろう。

「なにぼーっとしてんだよ」

出夢の声が届いてすぐ、目の前にあった唇が近付いて、私は一気に現実に引き戻された。「ぎゃはは、久しぶりのちゅー」だなんてかわいい事を言って笑う彼を見て、心臓がぎゅうっと締められた。

意地悪そうな笑顔をみて、唐突に聞いてみる。

「……出夢、幸せ?」

なんだか目頭が熱い。じわじわと涙が溜まっていくのがわかる。滲んだ視界に映る出夢は、真ん丸な目で私を見つめていた。ぽかんとした出夢に、私は続ける。

「私は、幸せ。今までだって幸せだったし、今も、幸せだよ……?」

紡ぐ言葉はゆらゆら揺れて、自分の頬に水滴が落ちるのがわかった。「出夢がいてくれて、ほんとに幸せ」涙を袖で拭うも、それはまたすぐに溜まってぽたぽたとシーツを濡らしていく。出夢が近くのタオルを掴んで、私の顔をぐりぐり拭いた。押し付けられたタオルからはなんだか変な匂いがした。

「なに泣いてんだあ?あ?僕?僕だって幸せだよ。何だよ今更、どうしたんだ、何かあったのか?」

「ううん、違うの。なんか……駄目なの」

「9月ってなんか、泣きたくなるね」そう言うとすぐに「いや、わかんねえけど」と返された。

「なんか、ごめん……ほんと、何でもないから…」

「なに謝ることがあんだよ。いいじゃん、泣きたいときは泣けばさぁ。あ、でも、僕が居ないとこでは泣かないでね」

半分起こした体をベッドの端へ移動させて「ほら、」と隣に招かれた。私は出夢からタオルを奪って、もう一度涙を拭いてから、自分にと空けられたスペースへ体を滑らせる。

「やっぱりアレだ、気は進まないけど、近いうちにそっちで一緒に住もうぜ」

細くて長い腕で私を包んで出夢は言った。表情は見えないけれど、いつもと同じ調子の声だ。

「一緒に仲良く隠居生活も悪くねえだろ。僕は頭脳労働が苦手だから今まで何も思わなかったけど、よく考えれば僕、一人じゃ生きていけないように造られてんだった」

そう言って出夢はいつものように笑う。彼は、優しい。彼はその優しさ故に、彼は彼の存在意義を捨てねばならなかったのだ。いつだって、何かを捨てなければ生きていけない、バランスの悪い存在。

よく考えるまでもなく、自分のことなど把握していただろうに。出夢のわざとらしい優しさに、また涙が零れそうになる。

「そうだよ、気付くの遅いんだから……。私、しっかり働くから、一緒に住もう」

「ぎゃはは。そう考えたら、すげぇ楽しみ。ずーっとお前と一緒にいれるのな」

出夢の柔らかい匂いに包まれながら、死んで不自由から解放された彼の、これからを想像する。これからも、彼の瞳に映る世界と私の瞳に映る世界はそれぞれ違うだろう。弱さを知らない彼は、その弱さを受け止められないかもしれないけれど、彼が受け止められないのなら、私がそれを受け止めるだけだ。悲しくなれないのなら、代わりに私が悲しんでやろう。泣けないのなら私が代わりに涙を流せばいい。

「出夢、あの眼鏡ないほうがいい」

そう言いながら、出夢の髪に指を通した。彼は何も言わずにゆっくり目を閉じたので、私も同じように閉じる。私達はそのまま、穏やかに流れる時間に身を任せた。





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