だから擦れ違い様いつものように、手の甲に手の甲をこつんと軽く触れさせた。触れさせて、それで終わり。そこから何が始まるわけでもないし、何かを意図した行動でもない。私はただ先輩の手に、触れたかっただけだ。
「───」
ただ今日は少し違った、予想外だった。人間という生物に対して何の興味も無さそうな目を向けている先輩が、私のこんな、些細な行動を気に留める訳などないと思っていたからだ。私が先輩に驚かされる日が来るとは思っていなかった。
「どうされましたか」
「どうもこうも…君、ここんとこ擦れ違う度、手に触ってくるよね」
声の調子からも表情からも、先輩の感情を読み取ることは出来なかった。話には聞いていたが、確かにこうして面と向かって対峙すると、不安定な気持ちにさせられる。人間の裏側を一個体に凝縮したような……、いや、形式上初対面の相手にそんな事を言うつもりはないけれど。流石に、失礼にも程がある。
「すいません、触るつもりは無かったんです、人との距離感を掴むのが苦手でして」
「よく言うよ、そんな明白な嘘がぼくに通用するとでも思っているのか?」
「そんな事より先輩、私の顔なんて覚えてくれたんですか」
「流石に……初めは同じ奴だなんて気付かなかったけど、こうも毎日毎日されていたら嫌でも覚えてしまうよ」
「ありがとうございます」
「で、なに?」
用でもあるのかと言いたげに先輩は私に聞く。
「いえ、何も」
「………そんなことはないだろ」
先輩が窓際にもたれ掛かったので、私も真似をして壁にもたれた。
「応えて頂けないとわかっているお話をぺらぺらと喋る程、私は口が軽くありません」
私は軽く口角を上げて、他人行儀な笑顔を作ってみせる。
「よくわからないんだけど」
先輩の表情は変わらない。
「本当は、わかってるんじゃないですか?私が言おうとする事なんて」
私がいうと先輩は無言のままで、二人の間にしんとした時間が流れた。時折、廊下を歩く生徒の会話が流れ込んでくる。
「例えば先輩、」
会話のない間に、先輩が去って行かなかったのは不思議であったから、私はもう少し、私の話を続けることにした。
「もしもここで私が『実は先輩のことが大嫌いなんです。だからあれはただの嫌がらせです』って言ったら、どうします?」
「………生憎、嫌われることには慣れていてね。別にどうもしないよ、いつものことだ」
「じゃあ逆に『実は先輩のことが好きになっちゃったんです。気付いてほしくてちょっかいかけました』って言ったら?」
「…………」
「そう言ったら何か応えてくれますか?」
「……いや、いきなりそんな……」
「もしもの話ですよ」
少し驚いた顔をした先輩に念を推して、私は腰掛けていた壁から離れた。くるりと体を回転させて、先輩のほうへ向き直す。
「ここで私が何を言っても先輩を動かせないことなんて、わかっているんです。何を言っても一緒なのに、ここで何かを言う必要って、無くないですか?」
「うん……いやまあ、そういう問題でもないと思うんだけど」
「そういう問題なんです」
「……そうかよ」
「それでは失礼します」
「……って、おい」
くるりと進行方向を戻して先輩に背を向けると、後ろから私を呼び止める声が聞こえて、その嬉しさから思わず顔をにやつかせてしまった。その場に立ち止まり、首だけで先輩へ振り向いて、少しの距離を挟んだままで私は先輩に返事をした。
「また明日」
最後に視界へ映った先輩の表情は、なんとも言えないおかしなものだった。