一段一段丁寧に階段を上って、最後の一段を上りきったところにあるドアを開ければ、私が目指していた場所──新校舎と旧校舎を繋ぐ渡り廊下となっている我が校の屋上がある。今の季節は、程よい太陽の温かさと乾いた風が心地好い。
その渡り廊下の隅の方で、ごろんと横になる。そうしてみても全然不快に感じないくらいに、コンクリートの地面は綺麗に掃除されているので、個人的にここの掃除当番の人にはお礼を言いたいくらいだ。
地面から、温かい熱が伝わる。目を瞑って、床から伝わる温度と空から降ってくる温度を全身で感じる、静かな時間。遠くのグラウンドから聞こえる小さな声が、子守唄のように私の眠気を誘う。
暫く目を閉じたまま、幸せな時間を目一杯味わう。50分間の自由時間。渡り廊下な訳だから、いつ誰が通ってもおかしくはないけれど、私を咎める目的でここを利用する人は、多分居ないだろう。居たとしてもまぁ、その時はその時だ。眠るつもりはないけれど、次のチャイムが鳴るまではこのままでいよう。
そんな事をぼんやり考えていると、突然、右頬に、不快感。
──────バチンッ
「痛い!」
「………え?」
蚊か何かだと思って勢いよく降り叩いたのは、人差し指だけピンと伸ばした状態の男子生徒の手だった。足音を殺すのにどれだけ集中力を費やしたのだろう、近付いてきた事に私は全く気付かなかった。面識は無くてもそうだとわかる様な、とても驚いた表情をして私を見下ろしている。
………いや、面識が無いとは嘘だ。知っていた。名前が珍しいからという理由だけで、それ程頻繁には見かけた事もましてや話した事もないけれど、私の記憶、すぐに引き出せる程度の浅い所に彼に関する僅かな情報はあった。
「…阿良々木くん?」
「え…、ああ、うん」
自分の事を私が知っているとは思っていなかったのか、彼は少し戸惑っているように見えた。……阿良々木暦くん。私のクラスメイト。教室で見掛けた事は殆どない。いるのかもしれないけれど目立たない。不良だとか不動の寡黙だとか、彼に関するあだ名や噂は少し耳にした事がある。私も、彼に関して詳しい訳ではないが、少なくとも授業中にこのような場所でこのような関わり方をするような人ではないだろう事はなんとなく、わかる。
「私の顔に何かついてた?」
「ああ、ついてたぜ。虫がいた。気付いてないみたいだったから取ってあげようと試みたが無駄な心配だったみたいだ」
「………」
「………」
バレバレの嘘をつかれた。あんな触れているか触れていないかわからない様なソフトタッチで虫が取れる訳がないし、私に意識はあったんだから私が気付かない訳無いし、現に私は彼のそわそわと不快にも感じたソフトタッチに気付いて、彼の手を思い切り叩いてしまった訳だから。
大体人差し指1本でどうやって虫を排除できるというのだろう。押し潰すとでも言いたいのかな。
「そっか。まぁ、ありがとう」
「えっと……。あー、なんか、ごまん」
五万?
「ごめん」
ああ。
私はごろんと寝返って正面に空をみた。太陽はまだ昇りきってはいないが、視界の端に映るそれが眩しくて、手の平でその光を遮断する。
「阿良々木くん、今日学校来てたんだね」
「うん。まぁ授業は面倒臭くて抜け出してきちゃったんだけど」
「へえー。私は気分転換かなあ…。こうやって、日常生活から自主的に抜け出さないと、時間を感じない時間なんて過ごせないと思わない?」
「僕はさっき、1秒という時間を今迄にない位に長く感じたよ」
「私が熟睡しているとでも思ったの?」
「ああ。ぐっすり寝ているんだと思った。」
まさか。
そんな、誰が通るかわからないような場所で熟睡してしまう程、私は無神経ではない。
「で、それをいいことに私のほっぺたに触ろうとしたんだ」
「柔らかくて気持ち良さそうだったから思わず」
「………」
どうやら阿良々木くんは気持ち良さそうという理由だけで、仲良くもないクラスメイトの女子に触わるような人らしい。欲望に素直というか好奇心旺盛というか。それに、ついさっきついた嘘を突き通すつもりも無いらしい。
「行き過ぎた好奇心は己の身を滅ぼす、ってよく言うけれど、私の中では阿良々木くんに抱いていたイメージが滅びた」
「え、なになに!どんなイメージ!?」
「クールだとか不良だとか?」
「僕そんなイメージ持たれてたの?」
「うん。人と話してる所、見たことなかったし」
「まぁな。僕友達いないし」
「………作らないの?」
「作らない」
「変なの」
「否定はしないぜ」
「褒めてないよ?」
「…わかってるよ」
そう言いながら阿良々木くんは私から少し離れたところで、私と同じようにごろんと寝転んだ。
「気持ちいいなー…。僕、こんなところで授業サボるの初めて」
「意外だなぁ。私は阿良々木くんが真面目に授業に参加している姿をあまり見掛けないけどなぁ」
これは本当だ。さっき彼の顔を見たときに、一瞬でも"面識がない"と思ってしまったくらい、私が彼を同じ教室で見掛けた数は多くない。
「まあ、普段はサボるというか家に帰るから、学校にはいないんだよ」
「そうなんだ。でもこうしてるのも悪くないよ。私はたまーにだけど、オススメ」
「僕もたまに来ようかな、家に帰っても似たようなもんだし」
「いいじゃん。誘ってくれたら私も付き合うよ」
「まじで」
「うん。……あ、でも阿良々木くん友達作らないんだよね。だったら迷惑かな」
「一緒にサボるのは友達になるの?」
「うーん……、まあそれもおかしいかもね。友達って、お互いにとって何かプラスになる事があるから友達なんだもんね。一緒に授業サボってこんな所でごろごろする事に生産性があるとは思えないし。あ、でも私と友達になってくれたら、いくらでもほっぺた触らせてあげるよ」
「まじで!じゃあなって!」
「…………」
信じられないくらい食いついてきた。目が凄くキラキラしていて……他の男子がこれだけ食いついていたのなら引くだろうけど、彼の希望に満ち溢れたような目を見れば、引くに引けないというか……
「え、駄目だった?」
「いや…、いいよ。でも今度ね」
「まじで?ありがとう。触り放題か、友達って悪くないな。もっと友達作ろうかな」
「止めとく事をすすめるよ」
「なんで?だって触り放題だぜ?その為だったら、僕は人間強度ってやつが弱くなる事くらいどうって事ないぜ」
「……なんていうか、素直だね」
素直な人は嫌いじゃないよ。嫌いじゃないけれど少し怖い。怖いけれど引くに引けない。地味だけれどキラキラしている──。そんな変わったクラスメイトの1番最初の友達の座を、あまり健全とは言えないきっかけでいただいた。