「なまえ、」
私の名前を呼ぶ萌太の声を聞いたのが、久しぶりなことに思えた。何故そう思ったかはわからない。それが何故だか知っている気もするんだけれど、頭を働かすのは面倒だった。
「どうしたんです、ぼーっとして。何かあったんですか?」
「ううん、何も………」
「うーん……、今日は随分歩いたから、疲れてるのかもしれないですね」
萌太にそう言われて辺りを見れば、わたしたちはどうやら河川敷に座って話しているようだった。川に冷やされた風が肌に凍みる。当たり前だ、今はもう12月も半ばだし、この土地の冬が厳しいことはよく知っている。隣を見れば、萌太はいつもの作業服以外に何も羽織っておらず、随分寒そうな格好をしている。北海道育ちにこの程度の寒さは寒さでないのかもしれない。
「萌太……、今何時?」
「夜中の2時です」
川の下流のほうをみれば、ちらほら明かりが灯っているようだったが、私達の居る辺りは街灯が少なく、萌太の顔も、陰ではっきりとは見えない。
「こんな時間に外を出歩くの久しぶりかも」
「何を言ってるんですか。少し前までしょっちゅう出ていたでしょう」
「最近は夜に出ることなんて無くなったよ」
「世の中には物騒な人が沢山居ますからね……、これからも深夜の外出は控えたほうがいいと思いますよ」
「夜中に私を散々呼び出していたのはあんたでしょうが」
私がそう言うと萌太はくすくすと笑いながら「すいません」と謝った。横目で萌太を見る。困ったように眉を下げて笑うその表情が可愛くて好きだから、こっそり覗いてやろうと思ったのだが、陰に暈けてよくわからなかった。
「暗くて萌太がよく見えない」
「僕はなまえの顔がはっきり見えているんですけれど」
「え」
こんな暗闇のなかでも相手の顔がはっきりと見えるとは、感心より驚きのほうが勝って無意識に声が漏れた。それもいつか聞いたことがある、家庭の事情やらと関係があるのだろうか。
「何を言ってるんですか?」
まるで心を読んだかのような萌太の言葉に、わたしは何も返せない。
「あそこの街灯に、僕らは照らされているはずなんですけれど」
萌太の指差すほうを見れば、確かに街灯が、わたしたちを照らしていた。
あれ。なんで。
「もしかしてなまえ、僕の顔忘れました?」
瞬間、がつんと脳みそを直接殴られたような感覚に襲われて、視界がぐわんぐわんと揺れた。「そ、そんなことは……」言葉が上手く紡げない。「もえた、」自分の声が情けなく震えているのがわかる。
「なまえははやく」
「言わないで」
頭を働かすのが面倒なのよ。
「僕を忘れたほうがいい」
「………嫌だ」
「なまえはそう言うけれど、僕は少し安心しましたよ。なまえの潜在意識はあなたの意思を無視して、自己防衛の為にしっかりと記憶に働きかけてくれているみたいです」
頬にかけられた指に温度はなかった。そんな格好で出歩くからだ、やっぱり寒いんじゃないかと思う。その手を温めてやろうと、自分の手を近付けるが、腕に上手く力が篭らずそれは失敗に終わった。
萌太の手を握るくらい、難しいことでも何でもないのに、何故かわたしにはそれが出来ない。
「嫌だ……」
「ごめんなさい」
「忘れたくない」
「ごめんなさい」
「萌太の手、すごく冷たい」
「ごめんなさい、これが僕の意思だったんです」
彼の時間は秋で止まったままで、冬を感じているのはわたしだけなのだろう。彼に温度が無いのも、わたしはどこかで理解している。
夢のなかで逢えればと、そう願ったことが間違いだった。夢は現実を、わかりやすくよりはっきりと映し出すだけなのに。
(今度なんていらない私達)
――――――――――――――
タイトル同一企画
装飾に提出しました。