薄く開いた唇に、人並みに長い睫毛。友までとは言わないが人より少し小柄な体躯に白い肌。静かな空間にすうすうと一定のリズムで繰り返される呼吸の音。それらを何となく眺めながら、軽く溜息をついた。人一人分の距離を開けて横になる、彼女。大学で初めて話し掛けられた時、彼女は僕の事を知っている風だったけれど、僕とどこかで会った事があるのだろうか。こういう場合……いや、こういう場合でなくても、大抵僕の記憶というのは当てにならないので、彼女が僕を知っているのなら、僕は過去に彼女と話した事でもあるのだろう。
それにしても、突然僕の部屋へ訪れて、特別何をするわけでもなく早々眠りこける彼女が一体全体何を考えているかなんてのは、僕にわかるはずがないし、放っておけばそのうち、起きるなり喋るなりの行動は起こすだろうから、わざわざ僕が特別どうこうするつもりは毛程も無い。

彼女の寝顔を眺めながら手探りに、彼女に関する記憶を探しはするが全く思い出すことができない。はあ、と再び溜息が漏れる。僕の記憶力程当てにならないものが、この世に存在するのだろうかといえば、多分、間違いなく、存在しないだろう。
漠然とした考え事が頭の中をぐるぐる回る。そうし始めてからかなりの時間が経過したころ、視界に映る彼女の瞼がぱちりと開いて、数秒間じっと僕の目を見つめ、現状を把握するかのようにぱちぱちと瞬きをした。

「あ、あたし寝てたんだね」

ごめんなさい、と少し申し訳なさそうに謝られる。僕としてはそんな顔をされる程、迷惑だとも感じていないのだが。

「いや、大丈夫だよ。気にしないで」

うん…。これもおかしい返事かもしれない。強引とも言える位に勝手に部屋へ訪れ、何をするのかと思えば何の説明もなく突然昼寝を開始する人間に対して「気にしないで」はやっぱり正しい返事だと思えない。

「私、どれくらい寝てた?」

「多分、2時間くらい」

「うっそ……」

「本当だよ」

あちゃー、と呟いて両手で顔を隠す。僕としても、単なる大学の知り合いの前で無防備に眠ってしまうのは、年頃の女の子として軽率な行動だと思う。相手が僕じゃなかったら、今頃どうなっていたかわからないし、それに対して文句だって言えないだろう。

「いーくんも寝てた?」

「いや、僕はずっと起きてたよ」

「そっかあ……」

横に傾けていた顔を動かし、天井を仰ぐ。僕が首を横にしたまま彼女を眺めていると、彼女が横目で僕を捕らえた。

「いーくんとこうしてたら」

ドキドキするなあ、と照れたようにえへへと笑い彼女は言った。そう、彼女。僕は彼女の名前さえ知らない。
僕は何も答えなかった。こういう場合、どういう言葉を返せばいいかよくわからなかったし、別に何かを問われているわけではないのだから、答える必要もないだろう、と。

あどけなさの残る顔で僕を見つめて、再びくすりと笑う。うん、まあ、それなりにかわいい顔だよな。それに女の子のこういう表情は嫌いじゃない。そんな事をぼんやり考えていると、突然彼女の腕が伸びてきて、僕の頭を掴んだ。驚きはしたが、表情には出さない。腕に続いて体が近づく。僕と彼女の距離は、あっという間に数センチに縮まった。

「………」

「………」

数秒間の、沈黙。実際にどれだけの時間が経過したのかはわからないけれど、体感時間の割には短いものだっただろう。
彼女の目が淋しそうに笑い、それとほぼ同時に唇が触れた。触れるだけの、優しい、キス。

「いーくんのあたまの中は残酷な造りになってるなあ」

そう言って彼女は僕の髪を撫でた。

「それに関して僕が返せる言葉はないな。僕の記憶力は破滅的だからね」

「うん、知ってる」

僕の、零に等しい記憶力についても、勿論彼女に明かした覚えはない。覚えがないだけなんだろうけど。

「どうせまだ、私の名前も覚えてないでしょ?」

「まさか。流石にそこまで酷くはない」

「嘘だあ」

「うん、嘘だけどね」

さらりと言ってのけたが、その言葉に対して彼女は目に見える程の反応を示さなかった。
僕が簡単に嘘をつくことも、承知済み、ということだろうか。

次に彼女はよいしょと体を起こし、何かが吹っ切れたように、「じゃあ、帰るわ」と告げた。

「……うん、気をつけて」

一体何をしに来たのだろう彼女は。何の用があってわざわざ僕のところへ。

「また来るね」

「ああ、まぁ…」

都合の悪いことはないので拒否はしなかったが、素直に受け止めることも出来ずに曖昧な返事をした。それでも彼女はにこりとした顔を崩さないのだから、本当、肝が据わっているというのか。……いや、ただ単に何も考えていないのだろうか。

「あと何回こうして同じ時間を過ごせば、覚えてくれるのかな」

「………え、今なんて言った?」

「前も同じこと言ったな…」

「…………」

「前も、前も、前も、言った」

今、なんて───

「じゃあね、また」

ドアの閉まる音が、四畳の部屋に嫌に響いて、僕の視界から彼女が消えた。と同時に既視感に襲われた。

──ああ。

「どうやら僕の記憶力ってのは本当に本当に、零に等しいみたいだね──…」

彼女の言葉を丸々飲み込めない程に僕の記憶は曖昧で、明日になればまた今日のことさえ覚えていないのかもしれないと思うと、がらにもなく淋しい気持ちになった。

「僕らしくない……」

こんな気持ちにさせられても尚彼女の名前さえ思い出せない僕はどこまでも僕なのだと思い知らされたようで。次の瞬間にはまた忘れてしまっているのだろうかと思いながら目を閉じた。



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