無機質な音が右耳で響いたあと、親指でそれを止めた。同時にふわりと柔らかな香りがしたように感じたが、それはただぼくの記憶が嗅覚を刺激しただけ、だと思う。
「過去の事も前の事も……後の事も先の事も未来の事も全部全部全部、今だけは忘れて考える事は止めて、今だけを感じなさい。あんたの人生の……貴重かはわからないけどあんただけの時間を、今は私だけのために思考しなさい」
なまえさんは胸にぼくの顔面を押し付けて、ぼくはなまえさんに抱きしめられるかたちになった。少し息がし辛いけれど、決して悪い気分ではない。誰だってそうだろう、これを幸せと呼ばずして何と呼ぶのか。
「そういうのもたまには気楽でいいんじゃないの?」
叱られた子供をあやすように、頭の上で優しく語る。……言われなくてもそうしていますよ。いや、本当のところはぼくにもわからないけれど。
なまえさんはぼくの後頭部をやわやわと撫でながら言った。
「私のしている事はいつかの未来からすれば、ただひたすらに絶望を与え続けていただけのことだったのかもしれないけどさ」
「………」
「まあ……今は悪い気、しないでしょう?」
否定したらぶん殴るわよと言われてそれでも否定出来るほどに、ぼくは冒険家ではない。ぼくの反応など待たずに、なまえさんは言葉を続ける。
「いーたんはさあ」
一瞬だけ、ぼくをその名で呼ぶ、人類最強が脳裏にちらついた。
「加虐心を刺激されるというか」
「………」
「まあまあ、そう離れようとしないで。……冗談よ。なんていうか──救ってあげたくなるのよ、私は。あんたみたいな底辺もいいところの救いようのない最低辺でも、私は救ってあげたくなるの。そうね……あんたを壊してでも救ってあげたいわ」
「何さらっととんでもない事言いやがるんですか」
「比喩よ、比喩。いーたんらしくないわね。何?余裕無い証拠?緊張してるの?ドキドキしてるの?意外とうぶよね、あんた」
まあ、なまえさんの言っていることは決して間違ってはいなくて。なまえさんの柔らかい身体と温かい体温と優しく響く声に、ぼくの頭は正常な働きをしていないのだと思う。くらくらする。余裕がない。正にその通りだろう。
「最低なあんたの、生きる相手をしてあげたくなる」
「そんな事、なまえさんにだって頼もうとは思いませんよ」
「頼まれてするような事じゃないからね。人と関わるのにわざわざ相手の委託やらを待っていたら、人間関係なんて成立しないでしょう」
「まあ……そうでしょうけど」
迷惑だ、とまでは言えなかった。ぼくにそんな事を言う理由は無かったし、言ったら言ったでどうなるのだろうと興味がそそられはしたが、今はもう少しこのままでいたいと思った。
「つまりはアレだわ、私はあんたが好きなんだわ」
「意外ですね。なまえさんともあろう人が」
「うん、そうね。私もびっくりよ。あんたみたいな糞ガキのこと好きになっちゃうなんて」
「ぼくもびっくりですよ。なまえさんみたいな綺麗な大人の女性がぼくみたいな人間にそんな事を言ってしまうなんて……失言とも言えますよ」
「そうねえ、いーたんの言ってる事は正しいかもね。本当その通りかもしれない」
そう言ってなまえさんは自嘲的に笑った。
「でも私も、あんたの意見にどうこう左右されるつもりは無いのよ。あんたの意見なんて、この世で一番当てにならないと言っても過言ではないだろうし」
「さらっと失礼な事を言ってくれますね……。でもその意見にはぼくも賛成です」
「そう、それならよかった」
そう言ってなまえさんは両手でぼくの肩を掴み、体と体を引きはがすように、ぼくを思い切り押し倒した。
「……………………………」
ぼくの驚きを文章に表すと三点リーダー50個分はくだらないと思う。
背中に衝撃が走って、次に後頭部。身体に走る痛みからは、何の気遣いも感じ取れない。
「ごめんごめん、痛かった?でもそんな顔して大して痛いと思っていないんでしょう?」
ぼくが痛みの感じない人間のような言い草だ。勘違いされちゃあ困るが、ぼくにだって人並みの痛覚は備わっている。
「ほら……、過去の事未来の事も今だけは忘れなさい。今は私だけのために思考しなさい」
なまえさんはそう言って再び身体を密着させた。顔と顔を近付けて、唇に唇を押し付けて、ぼくの口内を犯した。髪を乱暴に乱される。その手が耳裏を撫でて降下して、首筋、胸、腹───あっという間にシャツの中へと侵入してくる。唇が離れ頬へ落ちて耳を舐めて噛んで突っ込んで───。
なまえさんに、犯される。犯さされる。犯されている。犯された。なまえさん、に、侵される。侵されている。ぼくの思考は完全に、なまえさんだけを感じて、感じて、考えて──いや、考えることなどできなくて、ただひたすらに、ひたすらになまえさんを感じることしかぼくには赦されなくて──…。
「────と、」
耳から舌が離れ、僕の正面になまえさんの顔が見えた。
「なあに、その物欲しげな表情は。いーたんらしくもない。止めたくなくなるじゃないの」
「………ぼく、そんな顔してますか」
「鏡で見せてあげたくなるくらいよ」
少し……どころじゃない。それはかなり恥ずかしい。まるでぼくがこの先にあろう行為を期待しているみたいじゃないか。
「…………」
いや、実際期待していたのか。
「まあ、続きはまた次の機会にでも、ね」
そう言ったなまえさんの顔は、とても煽情的なものだった。
そんな記憶と一緒に、なまえさんの香りがした気がしたのだ。といってもこれはほんの数日前の出来事で、ぼくにとっては珍しいことに、なまえさんと最後に会ったあの日の出来事だけは鮮明に思い出せる。
その出来事の、それからあとは、どうってことのないことだった。なまえさんは悪戯に成功した子供みたいな顔で笑いながら、散々ぼくを茶化したあと、何事も無かったかのように帰っていった。まあ、実際何事も無かったのだけれど。
「………何事も無かった、か……。続きなんてものが存在しないことは、なまえさんが一番わかっていたんでしょうね───」
右手に握られた携帯電話を閉じて、床へ適当に転がした。
「ぼくはあなたが言った通り、生きている価値の無い最低の、最低辺の最低野郎ですよ」
「それでも──生きながらも生きれない……生きているのに生きていないぼくって何なんですかね」
「最後に教えてくれたってよかったじゃないですか……」
ぼくの声は小さな部屋に響くだけで何にもならなかった。