「……げっ」

朝日がまぶしい朝。ぼんやり時計を見て戦慄した。
午前7時50分。
眩いほどの大寝坊だ。
(目覚まし手前!何仕事さぼってやがる……!)
おそらく自分が消してから、意識のないまま二度寝しただろうことは頭の隅にありながら、八つ当たりという名の怒りが沸いた。
静雄は布団を蹴立てて起きると、あわててジャージを脱ぎすて、制服のシャツに手を伸ばした。
部屋は凍りつくような寒さだったがそんなことは気にしていられない。
転がるように階下に行くと、音を聞きつけた母が「おはよう、おねぼうさん」とホンワカ笑っている。
いや、ほんわかしている場合じゃなくて。
「あら、静君。朝ごはんは?」
「いらねぇ!」
そのまま洗面所に駆け込んで顔を洗う。
どう考えたって遅刻ギリギリなのに朝飯など食べていられない。出席日数はぎりぎりだし真面目に授業など受けていないが、だからこそ急ぐ必要があった。
今年これ以上欠席遅刻がかさむようであれば進級が危ういと学年主任に言われたばかりだ。
静雄だって困るが、学年主任も相当困った顔をしていた。誰だってこんな化け物はやっかいばらいしてしまいたいだろう。
髪の先が濡れていたが何度か櫛を通して、静雄はあわただしく玄関に向かう。丁度母が台所から出てきて、お弁当のつつみといっしょにこんがり焼けたパンを素のまま持っていた。
お弁当を受け取ると、
「はい、静くん」
「むぐ」
口にパンを突っ込まれる。
「朝ごはんは、ちゃんと食べなくちゃだめよ」
「……む」
パンをくわえたまま頷けば、母はやはりホンワカ微笑んだ。
玄関に向かえば、後ろからパタパタとスリッパの音が追いかけてくる。
「ああ、そうだ。今日は早く帰ってきてね。寄り道しちゃだめよ」
靴を履いて立ち上がり、首を傾げながら頷く。
(今日、なんかあったっけか)
だが母はそれで満足したのか、「気を付けていってらっしゃいね」と手を振った。
もう一度頷いて、静雄は家を飛び出した。
外は身を切るような寒さで、静雄は子供など轢かないように(いや、冗談ではなく)気を付けながら、学校までひた走った。


***


「はは、それで今日は食べかすをつけて教室に駆け込んできたってわけだね」

前の席にすわった新羅が、お弁当を食べながらそういうのに、静雄はむっつりと頷いた。
昼休みだ。
口の中には卵焼きがある。
ふんわり甘い、絶品だ。
「母さん、ああいうときは絶対起こしてくれねぇからな」
「静雄のお母さんって、ふんわりしてるけどそういうとこ厳しいよねぇ」
自己管理は自分で。
基本的に躾にはふんわり厳しい。
挨拶はきちんと、目上の人には敬意をもって、時間と約束は守ること。
どれも当たり前で、けれどそれをきちんと教えてもらえたことがどれだけ有難いか、よく問題に巻き込まれる(あるいは巻き起こす)静雄には痛いほどわかっていた。
「ああ、そうだ静雄」
「んー?」
「おめでとう」
「……あ?」
にこにこしていた新羅が、不思議そうな顔の静雄を見て首を傾げた。
「あれ、今日じゃなかったっけ」
「何の話だ?」
その時、ふと傍に置いてあった新羅の携帯端末が震える。
画面に一瞬浮かび上がったメール通知と、その差出人の名をみて、新羅の目が輝いた。
電光石火で端末をとった新羅に、静雄は呆れた目を向けた。
「セルティからか?」
「うん」
まるで宝物でも眺めるように画面を眺めていた新羅は、ふと首を傾げて静雄に目を向けた。
セルティのメールを読んでいる最中に、こちらに意識を向けるなど普段の新羅なら考えられない。思わず驚いて、静雄は動きを止めた。
「……静雄、君、もしかして今日携帯持ってないんじゃないの」
「あ……?」
言われて、静雄は自分のポケットをたたく。それからちょっと考えるように視線を上にやって。
「……ああ、そういや、ベッドの脇で充電したままだわ」
「ははん、なるほどね」
新羅が何かわかったように笑うのに、静雄は目を眇めた。
「……なんだよ」
「セルティが君にメールを送ったそうなんだ。いつもならそうかからず返信が来るから、風邪でも引いてるのかって心配してメールが来てた」
「ああ……」
それは悪いことをしたと、素直に思う。
「それで、何の用事だったんだ?」
「ん?んー、そうだなぁ、かえって自分で確かめるのがいいんじゃないかな」
「……んでだよ?」
思わず眉根がよる。静雄はこういう、もったいぶったやりとりが嫌いだ。
新羅は「おっと怒らないでよ」と両手をかざし、それから妙にやさしい顔で目を細めた。
「こういうのは人づてに聞くよりも直接の方がいいものだと思うから」
「……なんか悪いことでもあったのかよ」
「そうじゃないよ」
新羅はそれ以上は言う気がないようだった。
他のことならあっさり教えるだろうが、ことセルティに関すること、またセルティが喜ぶだろうと判断したことは、例え頭を握りつぶすと脅したところで言わない新羅だ。
静雄は舌打ちをすると、握り飯を口に放り込む。
母の小さい手で握られたそれは二口ほどで口におさまる。
具は静雄の好きな牛のしぐれ煮だった。
密やかな幸せをかみしめていると、ふと妙な近親感が襲う。
(今日は、ってなんか朝も似たようなことおもったよな)
今日は、寝坊して、携帯を忘れて、普段めったにメールなど来ない携帯にメールが来て。弁当も見れば静雄の好きなものばかり……何かあったっけか。
首をひねる静雄を、何もかも見透かした笑みで新羅がみていた。


***


「お疲れさん」

窓の外から声をかけられて、静雄は顔を上げる。
警戒心をあらわにした獣そのものの顔に、門田が苦笑した。
夕陽の当たった人好きのする笑みだ。静雄はようやく小さく息をついた。
髪をかきあげ、怪訝そうに門田を見上げる。
「お前、確か……」
「二組の門田だ」
「……何か用か」
静雄は不良の体が死屍累々と散らばる裏庭に立っていた。
全て静雄が蹴倒したものだ。
お礼参りのお礼参りだか、さらにその返礼だったかもう記憶していないけれど。昼休みが終わって授業があって、放課後のことだ。
静雄はいつも通りすべて片付けた。鬼神さながらのそこへ、この男が声をかけてきたのだ。
何か用があるのかと思って不思議ではない。
二年に上ってもなお、静雄は学年の生徒の顔をまともに覚えていない。それでもこの男の顔はうっすらと記憶の端に残っていた。
門田は窓枠に肘をついて、それから「ほら」と静雄に何か差し出した。ペットボトルだ。
「……?」
「いや、結構動いてたから、喉乾いてないかと思ってな。さっきそこで買ったばかりの新品だぞ」
怪訝な静雄の目を、どううけとったのか、門田はまるで見当はずれのことを言う。
静雄は門田の目を、じぃっと見つめた。
望まないのに色々な罠に貶められてきた静雄だ。とっさに『あの蟲』の罠を疑った。だが、どうも勘が違う気がすると訴える。
そもそも他人とかかわるたびに『あの蟲』に関係あるかどうかを気にするなんて馬鹿らしい。
そうなると、静雄は一転して困った。
ならばこれは善意の施しという事になる。
貰う義理が、ない。だが好意をつっぱねるのもどうかと思う。正直に言うと静雄は心底戸惑っていた。こんな出来事は初めてだったからだ。
「……前にも一度、喧嘩してる時、加勢に入ってきたよな」
「ああ、今回はもう気づいたら終わってたんだ。悪かったな」
「いや、そういう意味じゃねえけど」
謝られて、静雄はますます困った。
結局仕方なく、ペットボトルを頂戴する。いくら冬真っ只中、羽織るものはカーディガン一枚のかっこうで立っているといっても、運動した後はやはり冷えたお茶だ。
静雄は喉を鳴らしてそれを飲む。
それを見届けて、門田は窓枠から体を起こした。
「じゃあな」
柔らかい微笑みを残して、去ろうとする。静雄は思わずひきとめた。
「おい、これ」
「ん?ああ、やるよ」
門田は小さく笑った。
そういって、あっさりと去っていく。その背中を静雄はちょっとびっくりしながら見送った。
(妙な奴もいるんだな……)


***


今日は散々変な日だった。
だがまあ、総じてあれだ。決して悪くなかった。
寝坊はしたが、弁当は旨かった。新羅は変だったが、セルティから何か知らせがあるらしい。喧嘩はしたが、お茶をおごられた。
ふん、むしろ良かったんじゃないか?

「―――って、手前にさえ、逢わなけりゃそう思えたのによぉ、臨也ァ!」
「はは、俺としても会いたくなかったけど、君の気分を害したならそれはそれで甲斐があったもんだね」

五時半を回ったころ。今の季節はもう外は暗い。澄んだ冬の夜に、凍りついたような青白い満月がかかっていた。
3階建ビル屋上のフェンスの上、そのまま落ちて潰れ死ね、という高さに真っ黒な影は立っていた。
ゴキブリよりたちが悪い。
折原臨也、その人だ。
放課後、不良を片付けて、もらったペットボトルを空っぽにしたところだった。ニヤニヤ笑いのこの男が現れて「どう、楽しかったかい?」とわざわざのたまったのだ。ばかじゃないか。だまってりゃ今日がこいつの命日になるなんてこと、無かったのに。
例のごとく地獄の鬼ごっこ・イン・池袋ツアー直行だった。マフラー一つしてなかったのは、これだけ走り回って汗をかくことを予見してたんだろうか。でなきゃ、こんな指の先から凍るような夜に、学ランだけなんて狂気の沙汰だ。
(まあ、もとよりこいつが正気なことなんてなかったよな)
走りに走って池袋の片隅。
臨也はフェンスの上で両手を広げて笑っていた。
背後に青白い満月なんてしょってたって、そのあたりがもうほら、すでに狂気じみてる。
「あーあぁ、ほんと君さぁ、加減ってもんを知ろうよ。一時間ぶっ通しで全力疾走ってどうなの?それで人間って主張するなんておこがましすぎるだろ」
「うるせぇ、しっかり逃げおおせといて言えた義理かよ」
「そうでもないさ、現に追いつめられてる」
追いつめられた奴の表情とは思えないほどムカつく上から目線で、臨也は宣言した。
にやにやと、笑う目がこちらの出方を観察していて、怒りよりも先に胸糞悪さが沸いて出て、舌打ちが漏れた。
「んとに手前は……なにがしてぇんだよ……」
「何の話かな。追いかけてきたのは君だろ。そんなだから俺は逃げなくちゃいけなくなったんじゃないか」
臨也はそういうと、フェンスの上でウンコ座りをした。膝に頬杖をついて、左目の傍を、人差し指でトントンとたたく。
「まぁ、でも君のその胸がすくような忌々しそうな顔が見れただけで今日はひとまず満足かな」
「ああ?」
コイツが、俺の、顔をみたかっただと。
それがたとえ苦虫をかみつぶしたようなソレであっても、泣き顔、激怒した顔、何であっても臨也の口から出た言葉とは考えられなかった。
静雄は思わずぽかんとして、臨也を仰ぎ見る。
臨也はそんな俺の顔を予想していたように、そのままの体勢でニヤリと笑った。
「君の浮かれた誕生日をすりつぶしてやれただけで、トイレットペーパーのきれっぱし分くらいは今の追いかけっこの労力が報われた気がするよ」
「……は?」
静雄は首を傾げた。
「………たんじょうび」
「え」
「……たん、」
「……ちょ、え」

嘘でしょ。

と初めて臨也が表情を崩して、腰を浮かせた。
「……まさか君、自分の誕生日を忘れてたとか言うんじゃないだろうね」
「…………」
全くその通りでそれについては特に何もおもわなかったのだが、なぜか臨也が茫然としたように言うので。
静雄は「悪いかよ」と言わんばかりの眼光で臨也を睨んだ。
「ってか、手前のほうこそ、俺の誕生日なんてなんで知ってやがんだよ」
「愚問でしょ」
俺のこと誰だと思ってるの、とどこか驚きを残したまま、臨也が口走る。
口走って、それからはっとしたように口を噤んだ。あからさまにしまったという動作だが、何をどうしまったのか静雄にはまるで分らない。
怪訝な顔で臨也を睨み付ければ、臨也は無表情のままきっちり6秒かたまった。
「………ふぅん」
「なんだよ」
「あ、そう」
「だから、なんだよ!」
臨也がフェンスの上に立ち上がり、腕を組んだ。ものすごく不遜な顔つきでこちらを見下ろしている。
「つまり、今日、君はまだ誰からも誕生日のお祝いを受け取ってないわけだ」
「ああ?」
それが何だっていうんだ。
どうせ寂しい奴だなんだと散々揶揄って来るんだろうと思いきや。
臨也は予想通りに片頬をゆがめ、ものすごい悪人面で笑った。
静雄は思わず身構え、――。

「おめでとう」
「………は?」
「おめでとう、シズちゃん。君のこの18歳の誕生日をこの俺が、よりにもよって天敵で君が毛虫よりも毛嫌いしているこの俺が、誰よりも真っ先に祝ってあげるよ。午後六時きっかりにね。――お誕生日、おめでとう」

遠くの方で鐘がなる音がしている。ああ、もう六時なのか。母さんが早く帰って来いって、言ってたな、と現実逃避したところで、臨也が鼻を鳴らした。さも嫌味っぽく。これ以上ないほどムカつく声で。
「どう、これ以上ないほど素敵な、最悪な誕生日だろ?」
たとえば君に今日どんないいことがあって、知らないうちに誰かに祝われていたとして。
「そんなもの塗りつぶしてやれるほど嫌だろう?」
臨也は勝手にとても、とても楽しそうだ。
オーバーリアクションで「可哀そうなシズちゃん!」と歌うように吐き捨てて。
「じゃあ、寒くなってきたしそろそろ俺は帰るね」
そういって、両手を広げ、笑った。
「……あ?」
笑顔のまま、ゆっくりと体が後ろ向けに倒れていく。
(しま、っ……!)
あわてて捕まえに手を伸ばすが、臨也の体が重力の手に引っ張られるようにあっという間にフェンスの向こう側に。
真っ黒いカラスが地面に滑空するように、臨也の体が落ちていく、―――。
ぼすん!と鈍い音がしたかと思うと、フェンスにつかまって覗き込んだ視界で、「じゃあねー」と臨也が手を振っていた。
下は通りに面した花屋のようだ。花屋の雨避けにうまいことおちたらしい臨也は、そのまま滑り降りて、地面に降り立った。
スキップしかねない勢いで去っていく黒い背中を、静雄は見送った。
今日は帰ったら、きっと静雄のための誕生日会だ。置いてきたままの携帯にはセルティの(多分)お誕生日おめでとうメールがあって、新羅のおめでとうは多分誕生日の事で、おまけのように人に親切にされるラッキーまでついてきた。

なのに。

「……ああぁぁぁ……畜生……」
静雄はその場でしゃがみこんで、頭を抱えた。
ぐしゃりと前髪をかきあげて、うめいた。
「……律儀に覚えてんじゃねぇよ……くそっ、……」
今このとき、この時だけ腹立たしさと嬉しさのような奇妙なものがグルグルとみぞおちで渦巻いている。きっと感情なのだが、なんと名前を付けていいやらわからない。
「気持ち悪いんだよ……」
静雄はしゃがみこんで、膝を抱えた腕に口元を埋めながら、呟いた。

「……最っ悪だ……ちくしょうめ」


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