結局昼前になってしまった。
臨也は池袋駅に降り立ち、改札をぬけながら隣の男性を何気なくみた。
サラリーマンの背格好、この時間帯に。アイロンもしっかりかかっているし、整髪もされている。
ただ、歩く速度が亀並みに遅いのと、この世の終わりのような顔をしている。愛妻弁当と思しきそれを、重たそうにもっていることから、リストラでもされて、家族にそれをいえないオジサンなど、何パターンかの推論を立ち上げた。
まあ、どうでもいい。

手にした荷物を、人ごみにつぶされないように何時もよりすこし慎重に歩く。
ABCマートが本日も熾烈な価格低下を試みるなか、一切の興味もなくその横を素通りした臨也は、事務所に戻ってからの動きを二・三思い浮かべていた。
とりあえず、今しがた会ってきたクライアントの案件を急ぎまとめる事になりそうだ。
今日中に家に…静雄の家に帰れるだろうか。
考えてみたら、観念して自分の気持ちを認め、同居を始めてから、自分が朝から夜までいない日など初めてのことだ。
基本的に融通の利く仕事だから、朝は必ずいるようにしていたのだけれど、今日はどうしても静雄が目覚める前から出なければならない用事があった。

「帰ったら『誰だお前』って追い出されたりして…」

冗談交じりに呟くが、笑えない。
まるで笑えなかった。どころか、ものすごく現実味を帯びている。
だが、次の朝を待つわけには行かない。
臨也には、今日中に戻らねばならない理由があった。
『帰るのが当然ですよ!』という雰囲気をごり押していくしかないだろうか。
そんなことを考えていた臨也は、ふと自分の周りがざわざわしている事に気がついた。
「ん…?」
顔を上げる。なぜか周りが、皆同じ方向を見ていた。
はっとする。
殺気…!
振り向いた時、臨也の視界には、一匹の漆黒の獣が、――というか、こちらに飛び掛ってくるバーテン服の男が見えた。

「シズちゃ、―――!?」

路地から出てきて、そのまま跳躍したのだろう男は、呆気に取られる臨也の肩を前足…ではなく右手で捕らえた。
そんな巨体に全身でぶつかってこられたらひとたまりもない。
臨也は静雄とともに、派手に地面に転がった。
「……ッ!!」
目の前に火花が散る。
軽く後頭部を打ったらしい。
周囲から完全に人がひく。
だが、臨也の頭の中は疑問符だらけだった。
――だって静雄には、臨也の記憶がないはずなのだ。
なのに、なぜ…?
反射的に瞑っていた目を開く。
臨也はそのまま、目を瞠った。

「見つけたぞ、てめぇ……」

低く唸る、怒れる獣。
久しく見ていなかった顔だった。
「し、ずちゃ…」
喉が詰まって変な音がでる。
「記憶、もどったの?」
静雄が一瞬だけ怪訝な顔をする。それから唸るようにいった。
「てめぇ、誰だ」
「……は?」
「誰だって聞いてんだよ…!っていうか、シズちゃんってなんだ!」
「ええっと…」
記憶、戻ったんじゃないの?
ふと気づけば、静雄の肩越しに、彼が出てきた路地が見えた。そこからドレッドの彼、――田中トムが走り出てくる。
どうやら静雄は、仕事の途中だったらしい。すさまじい第六感で、臨也の存在を探知して、仕事を投げ出して走ってきたのだろう。
田中トムは、暫く状況がつかめない様子で眉を顰めていたが、臨也がじっと見ているのに気づいて、やがて肩で息をしながら、頭上で大きく【×】をつくった。
(記憶、戻ったんじゃないの)
ないらしい。
高揚しかけた臨也の気分が、急速にしぼむのがわかる。
が、次にはそんな気分など、ぶっ飛んだ。
ぱた、と臨也の頬に雫が落ちる。

「は、…?」
「え」
「なんだ…?」

ぱたぱたと、雨のように降りそそぐ。
――静雄が泣いていた。
頭が真っ白になる。

(なんで、いま夜じゃないだろ?お日様超照ってるし!)

静雄は自分でもびっくりしているのか、目を瞬いて袖口で涙をぬぐっていた。涙は一向に止まる気配がない。
次第に周囲から「平和島静雄が泣いてる」「泣かせた」「折原臨也が静雄泣かせた」とどよめきはじめた。
臨也は舌打ちをすると、腹筋だけで起き上がって、静雄の後頭部を掴む。自分の肩口に寄せた。
静雄がぎょっとしたのが、腕の中でもわかる。
女の子を慰める男子高校生みたいだが、構っていられない。
コートを脱いで、携帯を出し、コートを静雄の頭からひっかぶせる。
「おい…っ」
「いい大人が、大衆に泣き顔なんて見せるなよ。立てる?いや、動かない方がいいのかな。ちょっとまって」
臨也は静雄を抱えたまま(はたから見れば静雄に抱えられていたが)、携帯を耳に押し当てた。
「―――新羅?」
『もしもし?どうしたんだい大きな声だしたりして、腹でもさされた?』
電話口にでた新羅は、腹が立つほど普段どおりだ。
臨也は苛々といった。
「シズちゃんが泣いてんだけど。これ、どういうこと?まさか症状が進行したなんて事ないだろうな」
『静雄がないてる?』
新羅の声が少しだけ真剣になる。
『気分が悪いとか、嘔吐してるなんて事は』
「シズちゃん、気分おかしくない?」
腕の中から低く「ねぇ…」と返答がある。
「ないって。顔色も悪くない」
『なんだろう。とにかく一度つれてきて』
「わかった」
『もしかしたら、不安定になってるのかも』
電話をきろうとした寸前、そんな言葉が聞こえてきて、臨也は通話ボタンにかかった手をとめる。
「…不安定?」
『そう。今まで記憶がないのに、静雄、ものすごく安定してただろ?その状態のほうが異常だったんだけど、静雄特有の体がそれを許してたんだ。でも、それが何かのきっかけでぶれ始めてるのかも』
沈黙した臨也に、新羅も一呼吸分だまった。
『…臨也』
「なに」
『静雄の記憶を取り戻したいなら、注意深くなりなよ。静雄の『箱』の蓋が、偶然見えてるのかもしれない』
臨也の心臓が早鐘を打った。
「…とにかく、すぐ連れて行くよ。これ以上悪化したら目も当てられない」
『わかった。待ってる』
今度こそ、小さな電子音を立てて電話が切られる。
「シズちゃん」
臨也は自分のコートからはみ出た静雄の肩に手を添えた。
「ちょっと立って。タクシー拾って、新羅の家に行こう。君は忘れてるかもしれないけど、それは脳の病気で…」
「なあ」
言葉をさえぎって、静雄がいう。俯いていた顔を上げる。
光に反射して、静雄の目のなかで涙がきらきらとひかった。

「おまえ、くせぇな」
「……」

今言う事なのそれ。
臨也は心底思った。けれど、続く静雄の言葉にちょっと押し黙った。
「俺の部屋も、同じ臭いがする」
「…うん、えっと。それは俺が君の部屋に住んでるせいだと思うけど」
「…オレの部屋に住んでる?」
静雄は不審に思うでも顔を顰めるのでもなく、ただ納得したように目を瞬いた。
「なら、そろいのマグカップ買ったのてめぇか?」
「うん」
「夫婦茶碗も」
「そうだよ。嫌がらせに」
「…飯、炊いてあった」
「パン切らしちゃって」
「いつもはパン食なのか」
「そうだよ」
静雄は少しだけ黙った。
「なんかこー…甘くして食ってたか?」
臨也は目を見開く。その表情だけで、答えを得たのだろう。
満足そうに、静雄が息をついた。
臨也は慌てた。納得されたら、つまり安心して、また安定し始めるのではないかと。
「どうして、そう思ったの」
静雄は眉根を顰めた。何かいやなことを思い出そうとしているようだ。

「部屋にしらねぇ物あるし、やたら甘ったるいクセェ臭いするし、部屋あったまってなくてさみーし」
でも、フレンチトーストは、元々なかったものだし、違和感の元になったりしないだろう。
静雄は顔を顰めていった。
「しらねぇ…。舌が覚えてたんじゃねぇの」
「舌…」
臨也は、ぼんやりと呟いた。
舌…舌…ぶつぶつ呟く臨也に、何か薄気味悪いものをおぼえたのか、静雄がわずかに体を引いた。
「おい…」
「――ねえ」
臨也は、静雄の肩をつかんでいった。
真っ赤な目が、ぎらぎらと輝く。宝石みたいだ。静雄は目を瞬いた。
「俺が今日朝からいなかったのにはね、理由があるんだ。知りたくない?」
「は」
いや、別に。
表情がそう答えたのに、臨也は真っ向から無視して言った。
「クライアントと会う約束があったのとね。東京駅に、用事があったからなんだ」
いいながら、臨也は側に転がっていた荷物をひきよせた。
それは小さな黒い紙袋で、白い線でカカオ豆が描かれていた。

「なんだこれ」
「チョコレート」

静雄は目を瞬いた。
「今日中に、絶対渡したくてさ」
臨也は紙袋の中から、ひとつ箱を取り出した。
枯れかけた、薔薇のような赤い色の箱。
静雄が、目を瞠ってそれを凝視した。
臨也は目を伏せて、その箱を開いていく。
「ホラ、今日ってホワイトデーだろ。バレンタインにも俺があげたんだけど、きっと君は覚えてないだろうから」
箱にかかっている黒い紐を丁寧に外していく。
「もともとお返しなんて貰う気もなかったし。どうせなら君に何かあげようと思って」
赤い箱をずらしていくと、その中にはもうひと周り小さな黒い箱。
「それで、君が随分これを気に入って食べてた事を思い出して。どうせなら悪趣味に、あの日と同じ箱と中身にしてもらおうと思って、すこし無理を言って箱を用意してもらったんだ。これ、バレンタインの特別仕様なんだよ」
かぱり、と黒い箱が開かれる。臨也の繊細な指が、上に載っていた一枚紙をのけた。
9粒の、チョコレートが艶やかに光る。
宝石のように慎ましく、彼らは静雄の目に映っていた。
「食べていいよ」
凝視したまま動かない静雄に、臨也が声をかけた。
その言葉に命を吹き込まれたように、静雄がそっと指を伸ばした。慎重に、何かを選ぶように、――思い出すように、指先がなぞる。

右下にいるカタツムリ。
次は、左上の英語の書かれた四角いもの。
真中上の丸いの。
右上にあった四角い形のもの。
それから、真中下のまるいチョコレート。真中上のとよく形が似ていたけれど、こっちの方が色が濃い。
左下のペンギンみたいな鳥のもの。
真中左の、Eから始まる英語の書かれた四角いの。
真中右の、まるっこいの。
それから。

ぴた、と静雄の指がとまる。
ど真ん中にある、真っ赤なハートのチョコレート。つやつや赤くて、まるでルビーのようだ。
「リーダー…」
ぽつん、と静雄の唇が呟く。
臨也が怪訝な顔をした。
静雄の指が伸びて、赤いハートをそっとつまんだ。
力を入れたら、あっという間に壊れてしまいそうだ。
口の中に放り込む。
ツルリとした表面を舌でなめ、奥歯でそっと噛んだ。
甘酸っぱい、カシスの芳香が広がり、ホワイトチョコの甘ったるさがそれを包む。
もむもむと噛み締めて、飲み込んで、それから静雄はほっと息をついた。
瞬きをした拍子に、静雄の目から涙が零れ落ちる。
「シズちゃん?」
静雄の舌が、ぺろと唇をなめ、その拍子にこぼれた涙をなめとった。

(―――同じ、味)

静雄の目がゆっくりほそまった。
「……い…」
「え?」
「うまい」
自分の名前を呼ばれたのかと思った臨也は、「あ、そ」とそっけなく答えた。内心、肩を落としたのを知られたくなくてそっぽを向く。
そんな臨也を見て、静雄が小さく笑った。
「なあ」
「なに」
臨也は振り向いて、目を瞬いた。
静雄の笑みが、いつの間にかいやに不敵だった。
見下すような、甘やかすような、臨也の嘘やおためごかしも、口の端で笑い飛ばしてしまうような、それ。
いやというほど、見覚えがある。
「どっかゆっくり出来るとこねぇのかよ」
「シ…」
「ここじゃ落ち着いて食えねぇだろ」
そんな風に笑うくせに、涙が眦からこぼれるものだから。
臨也はゆっくりと目を見開いた。
「なあ」
「…うん」
「しょーがねぇやつだな、てめぇは。ほんと」
「君に言われたくないよ、その台詞」
あーあ、と臨也が声を上げた。
「泣く子と地頭には勝てないっていうしね。両方揃ってんだもん。仕方ないから俺が大人になってやるよ」
「意味わかんねぇぞ。ノミ蟲」
「うっさいちょっと黙れ。余韻にぐらい浸らせろよ」
臨也がぐりぐりと静雄の肩に額を押し付ける。
どっちがガキだ、と静雄が呆れたところで。

漸く「おかえり」と、蚊がないたのだった。


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