「なんだって?」

岸谷新羅…つまり僕は、医者だ。それも闇に生きる医者で永遠の伴侶セルティとも大変釣り合いが取れていると自負している。彼女は光り輝くような女性だけれど、なんといっても影を操るデュラハンという妖精なのだ。つまり僕たちは、月と夜空、蝶と花、バターロールとコーヒーみたいなもので…

「おい、新羅!」

視界がぶれた。
後頭部にすさまじい衝撃を加えられたのだと、認識に至ったのはちょっとしてからだ。つまり、横に立っていた静雄に頭をはたかれたのだと気づいたのは。
当然地面に崩れ落ちた僕を、誰も責められやしない。否、一人だけいた。そういう理不尽なことを平気でやるやつが。
「寝てんじゃねぇ!おい起きやがれ!」
「わーストップ!起きてる!起きてるよ!君にほっぺたひっぱたかれたら首がもげるから待って!」
あわてて押しとどめると、目を血走らせた静雄がそっと手を下した…わけじゃなくて僕の襟首を締め上げて引きずりあげた。
そうして立たされた先に、ベッドがある。そこには一人の男が横になっていた。真っ黒な衣装をべったりと血でそめた、友人、折原臨也だ。
彼は顔を紙より真っ白にしていた。失血しすぎたせいか、唇は青くなり始めている。どこでもらってきたのか、腹に弾傷だ。
うっすらと開いた目と目があったので、かろうじてまだ意識があることがわかる。
僕は静雄にぶら下げられたまま、臨也に聞いた。
「もう一度きくけど、臨也、麻酔がなんだって?」
臨也は端に血がこべりついた口を、少し震わせた。
「…麻酔は、いらない」
「いらない」
口から出たのが嘲笑だったらよかったのに。
真剣に取り合っているのだから自分にも呆れる。
「臨也、それわかってる?君のそれは弾傷だ。つまり、メスを使わなくちゃならない。肉を押しのけて腹に埋まってる弾を抉り出すんだ。それを、麻酔なしでやれって?ショック死するよ」
「頼む、新羅…」
たのむ、だって?僕の襟元をつかんでいた指が、そっと離れていく。まさか茫然自失しているんじゃないだろうかって思ったら、離れていった指はそのまま下に垂れ下がり、次に、大理石も砕きそうな勢いで握りしめられていた。
そんな静雄を、臨也の目がぼんやりと見やる。
「…何を口走るのかわからない、そんな状態は、困るんだ…」
「今までだって何度も使ったじゃない」
「……今は特に、困る」
臨也は細い声で言った。僕は横目で静雄をみた。
「…君が、何か重大な機密を握ってるってこと?たとえば国家転覆みたいな」
「そう、思ってくれてもいい」
震えそうな息を吐いて、いったい何を言うんだ。
こいつの目をみていればわかる。重大な機密?臨也が後生大事に握りしめて誰にも見せたくないのは、長年抱え続けた秘密だ。
この死にかけの友人を、ここまで運んできたのは静雄だ。弟からもらったバーテン服を血で汚して、一目散に、わき目もふらないで、大事に抱えてきた。ついでに僕の家の扉を蹴り飛ばし、吹っ飛ばした。(あとで弁償してね)
宿敵の腕の中で臨也が何を思ったかなんて、想像に難くない。だから『今』なんだろう?
君は今かつてないほど動揺している。君の恥ずかしいほどの片思いを十年近くそばで見てきたこの僕が、君の思いに気づいてないとでも思ったんだろうか。
きっと口に出すのも我慢ならないんだ、この男は。
それこそ、死んでしまうかもしれない瀬戸際でさえ。
臨也は目を細めた。弱々しいのに、目の奥がギラギラしていて、のまれそうになる。なぜだかものすごい圧力をかけてきている気がした。同時に、すがりつかれて懇願されているような気さえした。あの折原臨也に!
それがほかの人間ならきっとそうは感じなかっただろう。けれど俺は彼の友達で、彼は俺の友達だった。臨也は今にもきれそうな糸みたいな声で言った。
「自分をなくすくらいなら、死んだ方がマシだ」
「新羅」
僕が口を開くと、その上にかぶさるようにして静雄がいった。
「やれ」
「静雄?」
「この馬鹿は俺が抑えとく。麻酔なしでもなんでもいい。使わなきゃならねぇなら使え。なんでもいいからなおせ」
静雄は「お前は俺に脅されたんだ」懇願するようにささやいた。頼む、と。そんな彼の声を聴いたのは初めてのことだったし、もうろうとしている臨也に聞こえたかどうかも定かではない。それほど小さく、けれどひたすら一途だ。僕は天を仰ぎたくなった。だってそうだろう?セルティ。
俺の友人たちはどうしてこう、手がかかるんだ。


***


また夢を見ているのかと思った。
ぴくぴくと瞼が痙攣して、臨也は目をひらいた。
長い睫が頬に影を伸ばしている。覗いた目はぼんやりと黒く濁っていた。
「おめざめかい」
声をかけると、臨也は何度か目をしばたいて「夢?」つぶやく。それを聞きたいのはむしろ僕の方なんだけどね。
苦笑して覗き込むと、ようやく臨也はそれが現実だと知ったらしい。
ゆっくりと息をして、声を出そうとして今度は失敗した。僕は水差しをもってきて彼の口に含ませる。からからに荒れた唇に水が根を張る。
しばらくして幾分落ち着いた様子で臨也は聞いた。
「…使ったの?」
「ラボナールを」
麻酔の種類を聞いて、臨也は暗く笑った。彼なら知らないはずがない。この麻酔は鎮痛作用も安全性も高いが、残念なことにある宗教団体で自白剤にも使われたことで有名になった。
臨也は顔をそむけた。
「…最悪だ」
「何が?」
「顔を隠したいのに腕も上がらない。何もかも思い通りにならない」
その様子があんまりにも打ちひしがれていたから、さすがにちょっと哀れになった。
「臨也、君は別に何もいいやしなかったよ」
「嘘だ」
拒絶に似た鋭さだった。臨也がまっすぐに僕を睨み付けた。
「信用できない」
「友達のいうことが?」
「友達だからだ。下手な慰めを言うなよ」
「嘘じゃないよ。人がせっかく教えてやっているのに、どうしてそう断言できるんだい」
「……」
臨也は顔をそむけた。けがばかりでなく、気力が根こそぎ奪われた顔をしていた。
「もう終わりだ」
「臨也」
「死にたい…」
困ってしまった。こいつのこんな弱りきったところを見たことがあったっけ?正直気持ち悪いことこの上ない。いつも自信満々で俺にできないことはない、月の満ち欠けさえ俺に従えといわんばかりなのに。
というか、そう見せかけ続けたくせに。
その時、小さなノックの音がして、僕は振り返った。どうぞ、と声をかけると、そっと扉を開く音がした。
入ってきた人影を見て、臨也がそっと目を見開く。
なんで、とその唇が名前を紡ぐ。今ではもう臨也しか呼ぶことがなくなってしまった名前を。
「……シズちゃん」
静雄は大きな体で退路を塞ぐようにそこに立っていた。
臨也はみるみるうちに青ざめて、しまいには真っ白な顔で腕に力を込めた。
「……やあ」
「……」
「…わざわざ、死にかけた俺の、顔を、みにきたの?悪趣味だね」
臨也は必死で嫌味な笑顔を作った。起き上がろうとでもしているのか、指先が空しくシーツをかく。
静雄がわずかに目を上げてそれを見たけれど、見るに堪えないように目を伏せた。まるでそんな弱々しいものを臨也だと認めたくないように。
臨也の目に傷ついた色が浮かぶ。
それを見て、俺はその瞬間、―――すごく。ものすごく、腹が立った。
セルティのこと以外で腹を立てたのは、いつぶりだろう?
「いざや」
臨也が怪訝そうな顔で俺を見る。その中にうるさそうなということもできる顔を見つけて、俺はそれを言うことを決めた。
「さっきのは嘘だよ。君はずっとうわごとを言ってた。名前を呼んでいたよ」
白い顔が、恐怖にひきつった。やめろ、何を言う気だ、頼むから口を閉じてくれ、…折原臨也ともあろう奴が、なんという体たらくだい。俺にすら心が丸見えだ。
にっこりと、笑った。
「静雄、臨也はずっと、君の名前をよんでいたよ」
静雄が息をのみ、臨也が声にならない悲鳴を上げた。その目が僕を見て、殺しかねない色を帯びた。ひどいや、友人だと信じてたのに。
俺はそっと笑った。黒い虹彩にぱっと紅がちり、白くやつれた顔の中でそれだけが異様に輝いていた。それを見降ろして、踵を返す。戸口までゆくと、静雄が戸惑ったように体をずらした。
その二の腕に、ポンと手を置く。
「思い知っただろ?」
「……」
静雄はうんともスンとも言わなかったけれど、4日感寝ていなかった目は赤く充血していた。
臨也は術後4日粘り続けた。今日目が覚めなければ、臨也は死んでいたのだ。
静雄は社会人にあるまじきことに、仕事も何もかも放り投げて、4日ずっとこの部屋の前でうずくまっていた。多分本人は4日もたっているなんて知りもしないだろう。
それだけ、静雄の受けた衝撃はすさまじかったのだ。
臨也は静雄が殴っても蹴り飛ばしても、ひねりつぶしたって死なないと、どこかで信じていたのだ静雄は。まるで壊れない永遠の玩具だ。
けれど、そう信じさせたのは臨也だ。
静雄は毎日飽きもせず「世界で一番美しいのはだれ」と問い、臨也はせっせとそれに答え続けた。「それはあなただ」と。静雄は女王で、臨也は鏡だった。
でも実は女王より美しいものはたくさんあるし、鏡はそれを知っていた。嘘だったのだ。
ただしその嘘は鏡のたゆまぬ努力の上に成り立っていた。せっせと俺はどれだけぶっても蹴っても君ごときじゃ壊せやしない、だから俺は君にとって遊び相手として最適だし、何の遠慮もなくじゃれておいでと、手間暇をかけて十年、無邪気に臨也を壊れないものだと信じている女王様をたぶらかし続けてきたわけである。
それもこれも、彼が心底女王に囚われていたからだ。鏡は毎朝女王に見つめられることを望んでいて、そのためだけに望みをかなえ続けた。女王は当然「正直な鏡」が自分をきれいだ、という世界を信じ込んでいて、まさかその鏡が割れて中から嘘も目論見も持っている男が出てこようなんて思いもしなかったのだ。
つまり静雄は、ある意味で初めて臨也に出会ったともいえる。
この十年、ずうっとそれを見てきたこの僕からしてみれば、今このとき、静雄が臨也を見たくないと思うなんてこと、ありえてはならない。
静雄に嘘をつくためだけに鍛えられた体は、動きもしない。臨也は蒼白な顔でじっと静雄を見つめていた。
鏡越しでなくては、お互いに何を話していいのかわからないのだ。
でも、臨也は壊れるどころか死んでしまうものなのだときっちり理解した静雄は、臨也をほっぽってどっかに行くことはなかった。それどころか臨也が天国に…いや地獄に行ってしまうのではないかと恐れて、そうはさせてなるものかと門番を買って出るほどなのだ。
この四日で、静雄は思い知らされた。臨也も張り巡らされた嘘の囲いは壊れてしまって、今ではどう繕いようもないと悟っている。
いっそ死にたい。うつろになりつつある目がそう言っていて、僕はそのまま部屋を出た。
背後でがシャンという音がした。床にガラスの割れる音や鋭い金属が落ちる音がする。静雄が僕のそばをすり抜けて、あわてて駆け出した。
扉が閉まる寸前わずかに見えたのは、静雄にすっぽり抱きしめられた臨也の姿だ。静雄の広い肩から覗いた頬は真っ赤で、ゆがんだ顔はまるでウソがばれて泣きそうな子供のようだった。

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