池袋は、夜のしじまに沈んでも空はどこか明るい。街の明かりが闇夜を照らして、淡い藍色にクリームを溶かし込んだような不可思議な色を作り出すのだ。

「なんだか、高校生にもどったみたいだね」

新羅は換気のためにあいていた窓を閉め、振り返る。
「俺たちが高校時代にお泊り会なんて催したことがあったかい?」
肩をすくめるのは臨也だ。貸しだした高校のジャージを着ている。
顔色はいつもとかわりないが、表情はまだどこか固い。そのわりに、ジャージの足のすそがわずかばかり足らないことはきちんと指摘してくるのが、臨也らしかった。
ちょうど毛布と羽毛布団を持ってきたらしい静雄が、それをソファにおきながら臨也を睨んだ。

「っていうか、なんでアンタまで残ってんだよ。関係ねぇだろ」
「…忘れられてるのは俺だよ?」

つづけてぼそりと「それにもしかしたら、君を殺せる千載一遇のチャンスかもしれないし」という呟きが聞こえた。
静雄のこめかみに青筋が浮く。
「あぁ?」
「おっと、風呂に入ったばかりなんだ。暴れるのはやめてくれよ」
「てめぇ、もうしゃべんな」
てめぇ、といわれて、臨也の顔にぎこちない微笑が浮かぶ。
「やだやだ。君と同じ空気を吸いながら一晩過ごすなんて。いっそのことドタチンでも呼んじゃう?夜通しおしゃべりとかしたらちょっとは気がまぎれるかも」
「どたちん?」
「門田君のことだよ」
新羅が言い添えてやると「門田とまで繋がってやがんのか」と静雄が眉根をしかめた。
高校の静雄のもっとも中核をなす登場人物が、そろい出たようなものだ。いよいよ自分の記憶が頼りなく感じられるのだろう。
新羅は医者の顔で微笑んだ。
「まあ、大丈夫だよ静雄。臨也のことなんか忘れても、君にとってマイナスって無いに等しいし」
「おい新羅」
「ほんとのことじゃない?」
臨也が、歪んだ顔で頬を吊り上げた。
「…まあ、たしかにそのほうが俺にとっても都合がいいのかもね」
思っても無いくせに、よく言う。
新羅は肩をすくめた。臨也が舌打ちをする。
やり取りを不審げに見ていた静雄は、よくわからない顔で頭をかいた。
まあ、そうだよね。今の君には意味が判らないと思うよ。
(きっと、覚えてた頃の君にもわかんないと思うけど)
こちらは大分足らないジャージの裾(新羅はジャージを二枚持っていた)を、気にした風もない。裸足でフローリングの上をぺたぺたと歩いた。
「なあ、おい新羅。牛乳もらうぞ」
「ちゃんとコップ使ってね」
「人んちで直でのんだりしねぇよ」
台所の暗がりで、金色の髪がゆれる。それを、臨也が焼けるような目で追っていた。

「俺は専門医じゃないからなんとも言えないけど」

新羅が声をかけても、臨也は振り返ったりしなかった。
「記憶喪失って案外簡単になおったりするものだよ」
「…一生つづく場合だってあるだろ」
「そのほうが都合がいいんじゃないのかい?」
「苦労して手懐けた瞬間、記憶が戻るなんて、ありそうな話だろ?シズちゃんなら」
漸く振り向いて、臨也がいった。笑ってすらいない。
素直に、忘れられてショックだって言えばいいのに。
ゆっくりとため息をついた、その瞬間だった。
ごと、と鈍い音がする。臨也がはっと振り返った。速いな。
新羅も驚いてそちらをみやる。
静雄が、シンクにもたれかかるようにして額を抑えていた。

「シズちゃん?」

音の基は、中身のはいった牛乳パックのようだった。慌てて近づいてみれば、シンクが流れ出た牛乳で真っ白だ。
「ちょっと、何やって…」
静雄の顔を見た臨也が、息を呑む。その気持ちは、よくわかった。
「あ…、」
静雄が驚いたように自分の目に手をやる。
静雄の瞳は、飴を透かしたような茶色をしている。
そのくせ、ぽろぽろと、こぼれる涙は透明だった。
「静雄、大丈夫かい?」
肩をつかんで呼びかけると、静雄はひどくゆっくりこちらを見た。
「しんら、」
「し、静雄、ちょっとそのまま、あ、待って待って、瓶か何か用意して置けばよかった…!」
「やべぇ、とまんねー」
子供のような細い声に、ぎゅっと心臓がつかまれる。ポケットに入っていた治療用のガーゼを静雄の頬に押し当てて、新羅は眉根を寄せた。
わけが知れない、不安だ。
「シズちゃん…」
臨也があえぐように呼びかけた。
魚が空気に溺れたみたいだ。
のろのろと、静雄の視線が臨也をとらえる。
ころんと、静雄の目から涙が零れ落ちた。

「…み、むし…」

隣で、臨也が鋭く息を呑む。
その瞬間、静雄の体が傾いだ。
黒く細い腕が、何より早く体を支える。
「シズちゃん!?」
静雄の体は筋肉と骨ばかりで出来ている。
臨也に支えられながら、静雄の体は台所の床にゆっくりと座り込んだ。
臨也の肩にもたれる静雄なんて、多分こんなときじゃないとみられないだろうな。
「ちょっと新羅、なにぼさっとして…!」
「大丈夫、呼吸は安定してる」
くー、という呼吸音が良く聞こえた。
臨也が口を噤む。
手を伸ばして、脈を取る。安定してる。体温も、高くも無く低くも無い。
涙は止まっていた。
「臨也、静雄のことソファまで運べるかい?」
「……」
臨也は黙って静雄の脇と膝の下に腕を入れると、そのまま抱き上げた。

…うわぁ、お姫様抱っこって。

あまりに露骨過ぎて、思わずひいちゃったよ。

静雄の首がぐらぐらとゆれて、臨也の首筋に収まった。
呼吸が鎖骨にあたったのだろう、ちらと、臨也の視線が静雄の耳をみた。
ソファに横たえられると、静雄の足はふくらはぎの三分の一がはみでる。
首の付け根に手を添えて、もう一度脈を取った。

うーん、

「どうなの」
「寝てる」
「……は?」

低かった臨也の声が、一オクターブくらいあがった。

「なんて」
「だから、寝てる。健やかに、問題なく」
「………」

傍らで臨也がゆっくりと腕を組んだのがわかった。多分、こいつどうやって殺してやろう、と思ってるのに違いない。
手を伸ばして、静雄の目元に残っている涙をふき取ってやろうとした。
そのとき、ふと気がつく。
瞼がぴくぴくと震えている。

「……」

えい、と静雄の瞼を押し開いた。
壮絶に不細工な顔に、臨也が「なにしてんの」と呆れたように言った。
別に嫌がらせじゃあないよ。

「眼球が動いてる」
「それが?」
「夢を見てるんだ」
「そりゃ、化け物だって夢くらい見るだろうさ」

眠りが浅いのだろうか。だが、それにしたって、臨也が側にいるのに、飛び起きもしない。
なんとなく嫌な予感を覚えて、黙り込んだ。すると臨也がぽつんと呟く。
「さっき、俺のことみて、ノミ蟲って呼んだよね」
「うん」
「ってことは、記憶、戻ったんだ」
多分、そう考えるのが自然なんだろう。
けれど、晴れない気分が「うん」と答えるのを躊躇わせた。そして多分、臨也もそれを感じ取っているのだろう。
声は低く、地を這うようだった。
そしてその予感は、翌朝的中することになる。
新羅は自室のベッドで寝ていた。
臨也は客間の布団を静雄が持っていったという理由で、居間のソファで毛布にくるまっていた。
床暖もヒーターもよく効くからだ。
静雄はそのままもう一組のソファで布団にくるまり健やかに眠っていた。
そして、静雄はその日、ごくごく普通に目を覚ました。
社会人らしく、健康的な時間帯に起き上がり、つけっぱなしのヒーターをみて「もったいねぇ」と眉根を寄せた。
そうして、すこし腫れぼったい瞼を擦って、寝ぼけ眼の新羅を見つけて、言ったのだ。

「しらねぇ間に寝ちまったのか」

何一つ可笑しな所作はなかった。
静雄の目は臨也をみていた。

「わりぃ、急患か……それにしちゃぴんぴんしてるな?」

静雄は、昨日自分が、誰とこの家に来たのかを、覚えていなかった。



***



「どうしたー静雄」

寒さがいや増す池袋で、背の高い後輩は急に足を止めた。
マフラーやコートで武装した男女が、邪魔そうに静雄をみる。
それからマフラーでかくれたバーテン服に気がつくと、ぎょっとして自分から避けていく。
おかげで、自分たちの周りには綺麗なアーモンド形の空白ができた。
静雄は何かに気をとられているのか、そんなことにはまるで頓着しなかったが。
ここで人様に迷惑かけるのはよくねーぞーと、説教をして下手に切れられると面倒だ。
田中トムはポケットに手を突っ込むと、きょろきょろとする後輩の反応を待った。
静雄は弟にもらったという、カシミヤのマフラーを片手でおさえながら、あたりを何度も見回していた。グラサンの下の瞳が、尋常ではないほど鋭い。
げ、これはもしかしてあれじゃねーの、とトムはなんとなく先を察した。
もうすぐ三月になろうかというのに、仰いだ先の空に、春の兆しは一片も見えない。
やがて、

「……トムさん」

視線を後輩に戻すと、彼は一点を凝視していた。
うわぁ、やっぱりか。
トムは視線の先を追う。
道路を挟んで、雑踏の中に、そいつはいた。
真っ黒なコートに、真っ黒な髪。
靴の先まで真っ黒なその人影は、赤く輝く目で静雄のことをガン見している。

――出た。

静雄の舌打ちが聞こえた。
「…なんすかね、あいつ。さっきからすげー視線感じると思ったら、なんか、めちゃくちゃガンつけられてんですよ」
「あー……」
トムは静雄から視線をそらして、地面を見た。
ちら、と脳裏に白衣をきた眼鏡の男の笑顔が浮かぶ。

『刺激しないでください。静雄もですけど、アイツも』

ろくな事になりませんから、と静雄の同級生がいっていた。
確か、もう1週間以上も前になる。
突然話があるとやってきたその男は、『岸谷新羅』と名乗った。『ヤミイシャ』というとんでもなく物騒な仕事についているらしい。とても見えない、平凡な感じの男だった。
それに、闇がつこうとも、医者は医者だ。そして、何より静雄の友人だった。
だからトムはこの一週間、この言に一度も逆らわず『この場面』に遭遇すると、必ずこう答えてきた。

「あー……まあ、ほっとけよ」
「でも」
「ほそっこい兄ちゃんじゃねーの。どうせお前の噂聞いて、物珍しくて見てるだけだって」
「……」

静雄はそれでも納得しないように、あの男、『折原臨也』を睨みつけている。
白く、埋もれそうな小さな顔の男があの『折原臨也』だと気づいた通行人の何人かが、遠巻きに臨也と静雄をみている。
その視線の数は、そのうちにかなりのものに膨れ上がっていく。
あの男の視線もだが、トムはそちらのほうが煩わしい。それなのに、静雄は臨也のほうばかり見ていた。
「静雄、そろそろいかねーと、集金おわんねーぞ?」
すこし間を空けて呼びかけると、静雄はゆっくりと動き出した。
視線も意識も、『折原臨也』にむかっている。
肉食獣が、警戒を解かないままに歩を進めるのに似ていた。
静雄が動く事で、人の波も動き出す。
折原臨也は、その場所を動かないまま、ただ静雄をみていた。
――いつもそうだ。
昨日もそうだったもんな。
よくあきねーもんだ、とトムは思う。
綺麗なねーちゃんならともかく、静雄の恐ろしい形相を毎日毎日みにきて、睨まれて、何が楽しいのだろう。
それはでも、静雄にも言えることだった。

(毎日わすれるくせによー)

トムにはよくわからない。
深入りもしたくない。
ただ、可愛い後輩がこのままあの男のことを忘れたままなのには、賛成だ。
覚える必要もないと、実のところ思う。
それなのに…。ちら、とトムは静雄を横目でみあげた。
静雄は最高に不機嫌な顔をして、猫背であるいている。

そんなに嫌ならば、毎日毎日、――見つけなければいいのに。

「気になるのか?さっきの兄ちゃん」

だからだろう、ついよけいな口を出した。
静雄は瞬きをして、それから頷いた。
「なんつーかこう…。見てると苛々がこみあげてくるっつーか」
「あー」
「俺は見世物でもなんでもねーっつー」
「そりゃまあ、そうだわな。そのとおりだ」
もっともだ、と頷いてやる。
ふと、隣の刺々しい空気が矛を収めた。

「……でも」

後輩は、どこか頼りない目をした。寄せた眉は、怒っている、不機嫌だ、というより、どこか心細そうに見える。
そのまま静雄は口を噤んでしまった。
歩きながら、2人は黙り込んだ。
しんと、肌を刺すような風が吹く。
トムは顔を上げた。
「……そーいやぁ、な、静雄」
「っす」
「おまえ、ヴァローナに何返すかもう決めたか?」
静雄は顔を上げて、「かえす?」と鸚鵡返した。
トムは、おう、と頷いた。

「ホワイトデーだよ、ホワイトデー。貰っただろ、バレンタインに、チョコ」
「あ、あー……」

この調子だと、ホワイトデーという行事が念頭にあったかどうか。
静雄はイメージにそぐわず、律儀な性格をしているのだが、如何せんバレンタインだのホワイトデーだの、横文字の、それも恋人達の祭典に悲しいほど縁がない。
「そういや、ありましたね。…30倍返しでしたっけ」
「どこの独裁国家の法律だそりゃ」
「いや、うち母親がバレンタインに必ず弟の分とくれたんですけど、くれるときにそういってたんで…」
よく手伝いとかさせられました、となかなかほほえましいことを言う。トムは喉で笑った。
「世間様では三倍だよ、三倍。まあ、その気概でやれってこった」
「っす」
「物がかぶらないようにしねーとな」
ことのほか、新しくできた後輩を大事にしている静雄は、生真面目な顔で頷いた。
ちなみにその後輩は、本日社長の指示で内勤の手伝いである。冬になってからというもの、社長がなにかと「女は体を冷やしちゃいけねぇ」とヴァローナに内勤を手伝わせる事が増えた。
本人はいたく不満そうだが、顔を立てる意味でも「俺も静雄も、そういうのは苦手だから助けると思って頼む」というと、「苦手…静雄先輩の弱点という意味に理解しても?」とやけに神妙な顔で聞くので、「まあそうだな」と頷いた。するとそれからは大人しく業務をこなしているらしい。

(あれだなー、まあ、もしかして春がきてる感じなのかね。おじさんには寒さが身にこたえるアレなのかね)

と密かに観察を続けているのだが。
トムの気もしらず、静雄はヴァローナに渡すため、自分の好きなお菓子をいくつか思い浮かべているようだった。




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