【蓼を食う】


冬の朝、手をついた洗面台は死体のようにひやりとしている。
もっとも、夏の暑い日にもこの手に馴染んだりはしないけれど。
臨也の家はどこもかしこも『床暖房』なるものがついていて、厳冬の朝ですら、廊下を裸足で歩いても平気だ。こんな風に、上半身を晒していても問題はない。
だからだろうか。
両手で優しく抱きとめられ、「別にもう一眠りしたらいいじゃない」と耳元で囁かれている気分になる。
大変、危険だ。
仕事まで随分余裕があるが、二度寝して起きられる自信が、今日に限ってはまるでない。滅多にない三連休が昨日おわったばかりだ。
静雄は元来、自分を律するのが上手いわけではない。

寝ぼけ眼のまま、鏡に映る自分を直視しないように務めた。
女の指のように細い水道栓を捻れば、一呼吸置いて水が流れ落ちた。
清らなそれは、どこから流れてきたのだろう。
洗面台にしぶく。
どこまでも冷たい土のような香りがほんの一瞬鼻先を掠めた。

ミネラルウォーターのように澄んだ水を優しくすくい、鼻先から頬まで手を滑らせる。
しん、と肌を突き刺し、肉を食み、骨に染み入るような冷たさ。思わず肩が震えた。
脳の芯に纏わりつくあまやかなものが、排水溝に押し流されていく。
光沢のある白い石の上に、幾つか水滴が落ちた。

洗顔石鹸を泡立てて頬から下に伸ばす。
臨也が使っているらしきシェービングクリームがあったけれど、手は伸びない。
静雄は毎日洗顔のついでに髭をそってしまうので、いまさらその習慣を変える気はなかった。

細いフォルムのシェーバーを手のとり、肌に押し当てる。
鏡の中の自分が先ほどよりはっきりした目でみつめ返してきた。
刃を滑らせると、わずかな抵抗を感じる。肌を通して、じりじりと刃先が肌と毛を刈り取る音がした。
髭は随分伸びている。この三連休、一度も髭をそらずにベッドに寝転がってばかりいた。自堕落極まりない生活をしたものである。

顎を逸らし、頬から顎先に刃を滑らせる。骨ばった指に泡が伝い、筋に沿って流れていく。それが肘を伝ってあたりを濡らさないように、適当な傾斜をつけた。
静雄は器用なたちではない。初めて髭をそった時など、それはすさまじい惨状だった。
静雄は母に似て、毛質が細く柔らかい。髭もそれに準じるようで、そり始めたのは高校の3年からだ。
遅いほうだろう。

(幽はもうちょっとはやかったもんなぁ…)

静雄は、鏡の中の自分をまじまじとみつめた。
あの頃より肩幅も広がった。肩から二の腕、デコルテにかけて浮いた骨を皮と筋肉が覆い、なだらかな丘陵線を描く。
腕に浮いた筋ははっきりとし、未発達だったあの頃より、手はがっしりと無骨さを増していた。
高校生の自分は多分、もっと細く丸みを帯びていた。
今はどちらかといえば、骨の太さが目に付く。

(まあ、あれからもう…。……何年になるんだ?)

簡単な計算に目を瞬かせていた時だ。
ふと鼻が「それ」を捉える。

いつからいたのか、洗面所の扉に臨也がもたれかかっていた。

恐ろしい事に、寝巻きの上だけを着ていて、下をはいていない。パンツまではいていなかったらどうしよう、と掠めた戦慄を、静雄はむりやり向こうに蹴飛ばした。

「…んなとこで、何してんだてめぇ」
「シズちゃんこそ、なに鏡の自分に見とれてんの?君がボディビルに目覚めたら、しゃれにならないからやめろよ」

臨也の白い指が、乱暴に髪をかき回す。

「起きて布団捲り上げたまま直さなかったろ。おかげで寒くて目がさめた」
「健康的な生活が出来て結構じゃねぇか」

ちなみに現在、朝の五時である。
静雄は腰が痛くて目が覚めた。
ざまあみろである。

鼻で笑って、髭剃りを再開する。
静雄の肌は剃刀にまけるということを知らない。多少あらっぽく滑らせようが、赤くなった事など一度もなかった。だがさすがに刃を横に滑らせれば切れるので、大雑把ながらも丁寧に、静雄は半分をそり終えた。

その間、臨也は微動だにしないで扉にもたれかかっている。食い入るような目を、背中にも鏡越しにも感じながら、決して目を合わせないように静雄は髭剃りだけに集中する。
顔を右に傾け、もう半分に取り掛かろうとした。
しかし、その手を後ろから伸びてきた手に止められた。

「おい…」
「わかってるよ。仕事なんだろ、今日」

いいながら、臨也は静雄の手からシェーバーをとった。

「俺がそってやるよ」
「いらねぇ。返せ」
「そもそもコレは俺の。半分髭面で仕事行きたいならどうぞ?不気味で集金率上がるんじゃない。社会人としてはどうかと思うけど」
「……」

静雄は小さく舌を打つ。
また、何の気まぐれなのだ、この男は。

「心配しなくても、こんなちゃっちい剃刀でシズちゃんの頚動脈がかききれるとは思ってないよ」
「…めんどくせーやつ」
「君ほどにはね」

静雄は深く深くため息をついて、臨也に向き直った。洗面台の淵が腰に当たり、そこに後ろ手をつく。
傲慢に顎をそらす。
とっととしろ、と視線で促した。
臨也が、口の端を吊り上げて笑った。

骨ばった白い手が、後頭部に添えられる。押されるまま右を向いた。ひやりとした刃を、こめかみの下に感じる。
自分でするよりも丁寧に、刃が肌の上を滑る。

「肌だけ見れば、女の子みたい。つるつるじゃん」

もちろん褒め言葉ではない。毛が細いので、そればそりのこしもなく滑らかになる。女性にしてみれば呪い殺したくなるようなうらやましさだが、静雄はそれを密かなコンプレックスにしていた。

いっそ髭を生やそうかと思ったが、似合わないからやめなさい、と母にきっぱり申し付けられた。
この男は知っていてそれを笑う。

男の指が、顔の輪郭をなぞった。
「口の上するから、ちゃんと閉じて。ほら。んっ、て」
んって。子供か。

呆れながらも言われたように、上と下の唇を重ねるように閉じる。
しゃくしゃくと、洗面所に髭をそる音だけが反響した。
最後に顎先にとりかかる。臨也の指が上を向くようにと顎をしゃくる。
刃がすべり、それから臨也はきちんと検分した。

「んー。……よし」

頷いた臨也の腹に、一発拳をぶち込む。
気配を察したのか飛びのかれたので、威力は半減したが、臨也は腹を抑えて呻いた。本日二度目のざまあみろ。

「ちょっと…!」
「うぜぇんだよ。耳元でぺちゃくちゃしゃべんな」

臨也に背を向け、洗面台で泡を綺麗に洗い流す。
尻を蹴られたが、予知して力を入れていたので逆に臨也が痛がっていた。
余計な事をされたので泡がおちた胸元も、水の冷たさに顔をしかめながら洗い流す。
乾いたタオルでふき取れば、さっぱり感に息が漏れた。

振り向く。臨也が不機嫌な顔でたっていた。
鼻で笑って、横を通り過ぎようとしたときである。

「まって」

腕をつかまれた。
何の文句を言われるのか、と眉を顰めて振り返れば、意外に険のない顔をした臨也がそこにいる。
ただ、何ゆえか静雄の顔を凝視していた。

「おい…?」
「髭」
「は?」
「残ってる」

指差されたのは、静雄がそったほうの顎の先である。
臨也は噴出した。

「すご。一本だけとか、すげー器用な間抜け…っ」
「んだと…」

恥ずかしさをカバーするように、静雄が唸った。

「怒らない。見つけたのが、出かける前でよかったろ?」

臨也はまだ笑いながら、静雄の後頭部に右手を、顎の先に左手を回した。
意図が読めないまま、近づいてくる顔をみつめた。

――キスを、される。

かと思いきや、顎の先に固いエナメルを感じ、目を瞬く。
ぷちん、と小さな音がした。
体を離した臨也は、いやらしく笑っている。
赤い舌を出していた。
その先に、細く茶色の、短い毛が乗っている。
何か言うより先に、舌は素早く引っ込んで、臨也の喉が上下した。

「おま…」
「キスかもしれないって思ったら、目くらい閉じなよ。まあ、しないけど」

臨也はくっくっと喉を鳴らして、猫のように素早くあいた扉に手をかけていた。

「さてと、俺はもう一眠りするよ。しがない会社員の君はきちんと出社するといいさ。俺がせっかく、身だしなみまで整えてやったんだからね」

三日分のびた髭を腹に収めた男は、それでも不満気に目を光らせている。

「いってらっしゃい」
「……」

この男は、本当に、面倒くさい。


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リクエスト:髭を剃る静雄



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