「でも、それじゃ」
新羅は自分の声がすこし低くなるのを感じた。

「…諦めるのかい?」

静雄がこれからしようとしていることは、そういうことだ。諦め、放棄する。誰かに愛し、愛されるということを。
静雄は特に感慨もなさそうな声で言った。
「そうだな」
「でもきっと、ご両親はそれを望んでないと思うよ」
「それも、わかってる。反対された」
静雄は目を伏せた。
「あの人たちは優しいからな」
静雄は、距離を置くように両親を『あの人たち』と呼んだ。それは多分、大事だから遠くで見守り続けた結果なのだと、新羅は思う。
「いっただろ。もういいかと思ったんだって。父さん達に迷惑をかけ続けるのも、いないかもしれない人間を探し続けるのも」
静雄は言葉を選ぶように、すこし息をついた。
「俺が、疲れたんだ。だからもう、いい」
新羅は、そういった静雄の目元に小さな皺があるのに気がついた。
もうこの男も、自分と同じように老いはじめているのだと、初めて知った気がした。
多分もう、互いに知り合った年月のほうが、知らなかった年月を越えている。
けれど新羅だって、静雄が小学生の頃に何を感じ、高校で何を悲しみ、社会人になって何を惜しんだのかすべてを知っているわけではない。
むしろ、静雄は単純なのに感情をうまく表現できないから、知らないことのほうがきっと多くあるのだろう。
長く風雨に晒され続けた内側は、磨り減り、いつの間にか静雄にこんなに大きなものを、諦めさせつつある。
「静雄」
新羅は静雄を真っ直ぐに見ることが出来ないでいた。
「さみしいよ。君がそういう結論をだした事を、僕はすごく寂しく思う」
そして、どこかで仕方がない、と思う自分がいるのも事実だ。
静雄はいつになく穏やかな声で「そうか」といった。
「私やセルティだって、それに、きっと君が思っている以上にたくさんの人が寂しく思うよ」
「……そうか」
静雄は本当に嬉しそうに、それから悲しそうに少しだけ笑う。
「でも多分、俺をおいかけて来るやつはいねぇんだ」
それは冷たくも厳しくもない。
卑下の響きも一切なかった。
人は誰しも他人に対する干渉の範囲をもつ。多分、新羅がそうすればセルティが追いかけてくるだろう。彼女は自分の一番近くにいて、互いの存在という意味において深く干渉しているからだ。
けれど、静雄の周りには誰もいないのだろうか。
誰も、……。

「―――臨也」

新羅は自分の唇から、勝手に言葉が転がり出た顔で驚いた。静雄はもっと、面食らったらしい。
次には深く、顔をしかめる。
「なんで、そこにあいつの名前が出てくる?」
「なんでかな…。でも、なんだか臨也なら君をおっていきそうな気がしたんだ」
「それで?山ん中で殺し合いか」
「うーん…」
新羅は眉根を寄せて首を傾げた。静雄が鼻で笑う。歯牙にもかけない様子に、新羅はすこし困ったように笑った。
「なんであいつが来ると思う。俺がいなくなったのにわざわざひきづり出す真似するはずねぇ」
むしろ静雄がいないことで一層池袋を飛び回るはずだ。そう思えば、池袋のためにも先にあの男を抹殺しておくべきだろうかと、静雄は真剣に考えてしまう。
「まあ、それもそうなんだけどね」
新羅は静雄の悩みをすかしたように苦笑する。
「きっと臨也は他の誰にも、特に君には絶対そういう面しかみせない」
新羅の引っかかる言い方に、静雄は怪訝な顔をした。
「静雄、臨也が君に抱えている感情は、多分君が思っている以上に複雑で根が深いと、僕は思う」
「意味わかんねぇぞ。まさかあいつが俺のこと好きだなんていいださないだろうな」
「さすがにそこまで飛躍はしないけど」
好きだけど、素直になれなくてつんつんしちゃった女の子であるまい。
新羅は「これはあくまで私の考えだけれど」と前おきをして、静雄の目をみつめた。
「いまさら臨也が、君なしの人生をおくれるとは思えないんだよね」
静雄は、笑い飛ばす事もできないような苦い顔をした・
「……そんな風にいわれるほど、あのノミに積極的に関与した覚えがねぇ」
「きっと君にはね」
新羅の笑顔に、静雄は一層眉根を寄せた。
「正確にいつからだとは言えないけど。臨也がいっさいを省みなくなった地点があるはずなんだ」
「省みなくなる…?」
「そう。普通に他者といきられる地点、とでもいうのかな?」
それは凡人と、それ以外をわける明確な一本の線だ。
お互いに越えたくても越えることができない。
残酷なまでに互いをわける、見えない壁のようなもの。
静雄が幼いころ力を発現させたように、臨也にもそれを踏み越えた瞬間が、確かに在ったはずなのだ。
「それがいつなのか知らないけど。ただ何が原因か予想するのは、亀の甲羅を読むより簡単だよ」
新羅の言葉に、静雄はゆっくりと口を開いた。
「…オレだって言いてぇのか」
「他にある?」
静雄には答えられない。新羅ほどに、静雄は臨也のことを知らないからだ。
「中学の頃、『自分』と『それ以外』しかいなかった臨也の世界に、今は加えてもう一人いる。――それが君だ、静雄」
ふと、何かに気がついたように静雄が目を瞠った。
「多分臨也は、必死に君と同じものを見ようとしてるんじゃないかな」
静雄の世界には、その他大勢の側にいる家族や弟、友人がうつっている。彼らは遠く、手を伸ばすことのない場所にいる。
臨也の目にはその他大勢と、自分の隣で一心にそれをみつめる静雄がうつっている。
新羅のいる場所からは、静雄と臨也がふたりぼっちでその場所にたたずんでいるのが見える。
「だからきっと、静雄が目の前から消えるなんて、臨也が許さないと僕は思うんだ」
それは決して好意ではなく、だからといって悪意だけで語るにはあまりにひたむきだ。献身に似ていると、時々新羅は思う。

「ありえねぇ」
ぽつ、と呟きが聞こえて新羅は我を取り戻した。目の前で、俯いていた静雄が丁度顔をあげるところだった。
静雄はこちらがたじろぐほどまっすぐに、新羅を見た。
「あいつが俺を追ってくるなんて、ありねぇ」
確信を持った言い方に、新羅は首を傾げる。
「どうして?」
「………」
静雄は答えなかった。
けれど、少しだけ痛みを覚えたように目を眇めたのが印象に残っている。
静雄は新羅から視線を外し、灰皿の上でもう半分ほどの長さになってしまったタバコをとった。
煙がゆらゆらと風に揺れている。
「ありえねぇんだ。…ありえるなら、俺は…」
掠れるような呟きは小さくて聞き取る事もできなかった。
暫くして、話せて良かった、と静雄は言った。
「帰るの?」
「ああ、長居したな」
立ち上がった静雄はバルコニーに続く窓から、今にもオレンジの海に沈みそうな町並みををみて微笑んだ。
「綺麗だ」
その言葉は部屋に染み入るように、ゆっくりと溶けた。
眩しそうに、静雄は目を細めた。
「この街ももう、見納めだな」
その瞬間、新羅は静雄が覚悟をきめたことをしったのだ。
部屋には静雄と新羅の二つの影が、濃く長く伸びていた。



***



静雄はもう、何も壊したくないんだ。見えるものも、見えないものも。
壊すだけで、自分は何も作れないと思ってる。
だから彼は、この街に帰ってくることはないよ、臨也。
ここにある、ほんの小さな人との繋がりですら、静雄は触れないことで守ろうとしてる。いいや、もしかしたらもう壊れようが壊れなかろうがどちらでもいいのかもしれない。
壊れるところを、見るのに疲れたんだ。
静雄にとってここにあるものは皆、それほど遠く脆いものばかりなんだよ。

臨也。
誰が呼んでも、静雄は決して戻ってはこないよ。




「―――ええ、その件はお会いした時に」

臨也は通話を終えた携帯で、今度はメール画面を開いた。
細く白い指が、よどみなくメールを打つ。
風の音が強い。
春の嵐は未だ東京の上空に蹲り、気まぐれに涙を零す。
幾分温かくはなったが、肌に触れるとやはり冷たい。
メールを送信する。臨也はカフェの軒先でいじくっていた携帯を、ポケットに戻した。
その瞬間、腹の傷が鋭く痛んで、臨也は小さく舌を打った。

「…たしなめるつもりなら、余計なお世話だよ。新羅」

呻くように囁くのは、先ほど別れた友人のことだった。
痛み止めのおかげか、縫って10日たった傷は時折思い出したように痛むほか、わずかに熱を持っているだけだった。
幸か不幸か『中身』は傷ついてなかったけど、3週間くらいは大人しくしていなよ。と言葉の割りに早々に愛の巣から追い出されたのは、つい先ほどのことだ。
この十日は大人しくしていたおかげか、傷の治りも悪くない。そんな診断結果が下ったにもかかわらず、臨也が不機嫌なのは主に新羅の口のせいだった。
新羅は傷口を縫っていたときも話していた事を、臨也の去り際にも念を押すように語った。

(あいつも大概理屈っぽいと思ってたけど)

ああいう風に知った口を利かれるのが気に障ったのは、初めてではない。
何の妄想癖があるのか、説教をされたけれど、もちろん臨也は歯牙にもかけるつもりはない。
「俺が、シズちゃんのこと追いかけるだって?」
冗談ではない。なんで、あんな化け物を都会に連れ戻すと思うのだ。
あの化け物が何を考えてか帰るつもりがないのは願ってもないことだ。
あんな…。
臨也はふと、道行く人々を眺めた。軒の下にいる臨也の前を、傘を差して通り過ぎていく。大きいのや小さいのや、男や女、老女と幼女が連れ立っていた。
くっきりと、まるで臨也など見えていないように雨の当たらない軒と、雨の中の人々は隔てられているようだった。
臨也は足元をみつめた。
雨の当たらない臨也の立つ場所だけが、白くういていた。

――凡人と、それ以外をわける明確な一本の線。

これを越えたのは、新羅が言うほど大げさなものではない。
臨也にとっては常にそこにある選択だった。
あの頃の臨也はどちらに行く事もできた。むしろいずれ飽きて、知らず人の群れの中にいるのだろうと、漠然と考えていたほどだ。
それがいまや人非人よばわりされるほど臨也は異常で、人々は線をこえたはるかむこうにいた。
いつの間にか越えたわけではなく、臨也はそれを選んで越えたのだった。


(夏の、確か夏休みに入るすこし前だったっけ)


陽光があまりに鮮烈で、白い光がいつまでも瞼の裏でスパークしているみたいだ。
当時、平和島静雄はもっとも生意気な新入生ということで、不良集団に付けねらわれていた。きっかけを作ったのは勿論臨也だが、不用意に喧嘩を買って転がり落ちたのは静雄だ。
その日喧嘩を売ってきたのが、あまり頭のよい連中ではなかったのが、静雄の不幸だった。
確か、静雄はそこらへんからねじ切った鉄の柵を武器にしていた。相手は10人ほどの最上級生で、皆手に鉄パイプを持っていたように思う。
みせしめにでもするつもりだったのか、静雄が襲われたのはまだ生徒の人通りも多い正門のすぐ側のグラウンドだった。
袋叩きにでもするつもりだったのだろう。あてがはずれ、ばったばったと斃れる仲間と、修羅のような形相で仁王立ちする静雄に、不良の一人が混乱の極みに至った。
何を思ったのか、持っていた鉄パイプをまるで見当違いのほうに力の限り投げたのだ。

―――結果として、その鉄パイプは静雄の頭を直撃した。

正確には、静雄が自らぶつかりにいったのだ。
鉄パイプのなげうたれた方向に、同じクラスの女子生徒がいたためだった。
鉄柵で叩き落せばいいものを、使用したのはよりにもよって己の額だ。女子生徒の周りで凶器を振り回すのを躊躇ったのか、おかげで額をぱっくりと切った静雄は、理性の綱もその瞬間に断ち切った。その姿はさながら赤鬼のようだ。
最後の一人まで不良を叩きのめした静雄は、自分が身を挺して庇った女子生徒のほうを振り向いた。無事を確認するためだろう。
――そこには誰もいなかった。

誰もいないそこをみつめ、肩で息をしていた静雄はゆっくりと息を落ち着けていく。
その顔は疲れた様にも、何の興味もないようにも、またすこし安堵したようにも見えた。
暫くしてようやく自分の額の有様に気がついた様子で、額に手をやり舌を打つ。
それでもこの期に及んで、怪我の具合なんかより制服に血液がつくことを気にしてた。
放り棄てた鉄柵が、がらんと大きな音を立て、焼けた砂の上に転がる。

――そのすべてを、臨也はすこしはなれた校舎の影からみていた。

今、静雄の周りには誰もいない。
けれど、庇われた女子生徒が友人に手を引かれながらも、幾度も心配そうに静雄を振り返っていたことも。
遠巻きにする生徒が時折興奮したように静雄の暴力に声を上げるのも。
暴力を振るった後、静雄の目の中に染みのような真っ黒な闇が浮かんだのも。傷つき、痛みを覚えたように眉間にきつい皺がよるのも。
臨也はすべてみていた。

――ふざけるな、と臨也は思う。

(こんなものが存在していいはずがない)

ましてや人の形で人の言葉を話し、服を着ているなどあってはならない。
明らかに人の枠を外れた、暴力という力。
細かな傷がつきやすく、それを歯牙にかけない静雄という男。
そのアンバランスさは、ともすれば黄金比だ。
片腕のビーナスのように人を魅せ、惹きつけ、強さと言う美しさは畏怖すら覚える。

足元の土を踏みしめた。噛み締めた唇に、土のひんやりとした空気が触れる。
裏庭に続くそこは木々が立ち並ぶせいか、湿気てひんやりとしている。
静雄がたつ場所は太陽に焼かれ、眩しいほどに白い。
ただ静雄の金髪と、流れ落ちる赤い雫だけが鮮烈に色づいてみえる。
――格が違う。
この胸の焼けるような痛みの名前を、臨也は知っていた。
あまねく人を観察し続けていた臨也だ。知らないはずはなかった。
そして初めて理解した。その痛みの名前を、焼けた鉄を噛むように鮮明に。
けれど、認めたくはなかった。
はじめてみつけた、凡人とは別の場所にたつ存在。
臨也が踏みしめる線の向こう側に、知らず立つその男は、臨也など視界には入っていない。
並居る人間と、自分が、彼の位置からはきっと同じ場所にたっているように見えるのだ。
(この、俺が)
彼の目には、他の有象無象と同じように映っているなど耐えられない屈辱だった。

―――あの男の目に、なんとしても自分の姿を映さねばならない。

臨也は足をすすめた。
木々は夏の陽光に焼かれ、濃い影を土に落す。臨也はその影を踏みしめ、そしてグラウンドの焼け付くような砂を踏みしめた。
近づく足音に静雄が顔を上げる。
太陽を反射させるようにぎらぎらと輝くその目は、獣のそれにみえる。
砂埃が舞い、静雄の金髪を巻き上げた風が、光の粒を天に舞い上げる。
静雄の長い指が、目にかかった血液を乱暴に拭う。
鮮血が指のまたから流れ落ち、地面を汚す。
――静雄の目が、警戒するように臨也を睨みつけ、射すくめる。
ぞくぞくと、背筋を痺れが駆け上る。
太陽にやられたのかもしれない。
頭はゆだり、自然に唇が笑みを形どる。
臨也は両手を広げた。
その瞳にむかって叫びだしたいほど気分が高揚した。
――ああ、そうだよ。そうして俺のことばかり見ているといい。
臨也は心の中で囁きかけた。
(お前の知らないやりかたで、これからお前の事を陥落してあげる。知らず俺の駒になれ)
言葉にならない高揚を、臨也は征服欲という枠に押し込めた。
この男を、手に入れる。
その甘美な想像は、かつて人の中にまぎれて生きる選択肢があったことを忘れさせた。
臨也は笑う。

「やぁ、こないだ、新羅に紹介してもらったとき以来だっけ」
「てめぇ…」

静雄が威嚇するように唸り声を上げた。
臨也はゆっくりとその名を口にする。

「こんにちは、シズちゃん」




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