二匹の猟犬の耳が、ぴんと立ち上がった。
王子が剣を抜く。
しゅら、と見た目より細い音がして、次の瞬間には猟犬の牙を受けていた。
デリックは足を踏み出し、拳を握り締める。
戦うなど久々だ。
血も肉もわきたつことなく、沈黙している。
王子の剣が猟犬たちをおした瞬間、デリックがその懐に飛び込んだ。
「……ッ」
間一髪、デリックの拳が王子の頬をかすめる。
ジッ、とこげるような音。
間合いを取り、驚いたように王子が目を瞬く。
手袋に包まれた手で、頬をこすった。
「すごいな、初動動作がまるでなかった」
「よけられた事をほめてやるよ」
「その怪力はいったいどういう仕組み?細い体だしそれほど筋肉が発達しているように見えないんだけど」
「おしゃべりする気はねぇ」
続けざまはなたれた拳が、唸りを上げて王子の鳩尾を狙う。
王子は身をかわす。
と、ふいに王子の体の影から現れた切っ先がデリックの腹をおそう。
太刀筋に、迷いは一切ない。
「……ッ」
背筋がそうっと冷たくなった。
(こいつ……っ)
今までのやり取りから、ぬるい手でくるのだとばかりおもっていた。
とんでもない。
デリックは王子の顔を見た。
「かなしいな」
王子は低くささやいた。
「もっとおまえをよく知りたかった」
「は…っ」
デリックは嘲笑う。
(冗談だろ)
そんな目をしておいて、まだ馴れ合いたいと口にするのか。
王子の顔はたしかにわずかに寂しそうだ。
けれど目はどこか翳りを帯びている。
さきほどとはまるで別物だ。
つめたい鋼ににているとおもう。
それまで二人のやり取りをじっと見ていた猟犬が、跳躍した。
一瞬で間合いをつめ、王子の喉笛をねらう。
鋭く一閃された剣が、猟犬の足をとめる。
しかしすでに間合いをつめたデリックが、王子の体制が整うより先に、拳をかためている。
王子が振り返る。
凍りつくような眼差し。
無表情。
まるで見えない何かに操られたかのように、なめらかに王子の体が体勢を立て直し、デリックの拳が届くより先に、剣を振りかぶる。
「………ッ」
デリックは舌を打ち薄い霧に淡く稲妻を発生させ、拳に纏わせた。
至近距離なら、まず間違いなく『こわれる』。
デリックの拳は、ひたすらに物を、システムを、プログラムを、壊すためだけに存在する。
――悪魔のような、力。
わずかに目を眇めて、デリックは王子の胸めがけて、拳を打ち込んだ。

――――しかし。

王子は剣でそれを無理やり地面にねじ伏せると(ありえねえ!)小さな鬼のようにデリックに迫った。
鮮やかな、突き。
剣がよけたデリックのすぐ喉元を突き、袈裟懸けに切り裂こうと空を切る。
後ろに体重をかけていたデリックは、そのまま背後に飛びのくが、剣は逃がしてはくれなかった。
鈍い擦過音が耳元で、する。
二の腕を刃に裂かれる。
デリックの顔が痛みに歪んだ。
「……ッ」
飛び退る。
守るように猟犬2匹が躍り出て、王子との間に立ちはだかる。
姿勢は低く、いつでも飛びかかれるものだった。
王子は息一つみだしていなかった。
そのくせ子供のように首を傾げる。
「いたかった?」
「きれりゃ、当然だろ」
デリックは眉をしかめて言う。
こわばった頬に無理やり笑みを浮かべた。
わずかに冷や汗が首筋をぬらすのを、王子はじっと見ている。
「ウイルスなのに切れると痛いんだ」
「俺をほかのウイルスと一緒にするな。あんな、うねうねうねるだけしか能がないのより、繊細なんだ」
「そう」
王子が繊細な睫をふせれば、白い頬に長い影が出来る。
女のように美しいその双眸が、ふいに。

「―――それは、楽しそうだ」

血なまぐさく、ぬうと笑みに彩られる。
息を呑んだ。
王子の目が、金色に輝いている。
まるで夜空に浮かぶ満月のようだ。
さきほどまで黒かったはずのそれに、ぞうっとデリックの背筋があわ立った。
「なんだ、お前」
王子が一歩進み出た。
首を傾げる、その様子がまた子供のように無防備だ。
「おれがこわいの」
二頭の猟犬がデリックの側に寄り添い、低く唸りをあげる。

――どちらが先に動いたのか。

猟犬が地をけるのと、王子が地をけるのが同じだった。
王子の剣が、迷いの寸分もなく猟犬を斬る。
実体のないそれは、真っ二つになり、なったそばから修復する。
「スライムみたいだ!」
王子が高い声で笑った。
狂ったような高い声。
(なんだこいつ…、突然、性格が豹変したみたいに)
みたい、ではない。
かくじつに豹変している。
王子のくちもとに浮かんだ笑みは、歪んでいる。
みたことがない折原臨也の顔も、もしかしたらこんな風にゆがむのかもしれない。
おそらく日々也の顔もマスターを基盤につくられているのだろう。
同じ顔の人間を、他に、しっている。
哄笑も、嘲るような口調も、いやらしく眇められた目も、すべて、記憶の中にある――『彼』のものと同じだ。
デリックは舌打ちをした。
(胸糞悪い)
心の底から、正直に、そうおもう。
疾く、きえろ。
強く思った。
一呼吸あと、ぐにゃりと王子の足元が揺らぎ、隙が生じた。
「…なん、」
王子の腕を、猟犬の一匹が鋭い牙で捕らえる。
「……ッ」
王子が顔をゆがめた。
(ああ、だからいったのに)
馬鹿野郎が。
後味の悪い始末をするのは誰だと思ってるのだ。
俺だ。
しかも犬に食い殺された死体なんて絶対きみがわるいに決まってる。
デリックの思考はめまぐるしい。
目の前のものから逃げるようだ。
本人は決して気づかないけれど。
しかし、その思考はふいに停止した。
猟犬の体が、まるで何かに侵食されたように真っ黒に染まったのだ。
凄まじい勢いだった。
和紙を色水につけたような、急激な変色。
王子だ。
王子の腕に触れている場所から黒くそまって分解される。
ウイルスのシステムそのものが、死滅しているのだ。
(いや、そうじゃねぇ…!)
自分から自滅をしている。
気づいて、デリックは悲鳴を飲み込んだ。

――そんなことは、ありえない。

だってそれでは、王子がウイルスである猟犬たちのシステムを掌握し、自己破壊するようプログラムし返した、ようではないか。
頭が真っ白になる。
「まさ、か……っ」
王子の白いかんばせが、白刃と共に迫った。
体勢を立て直す暇もなかった。
「ほめてあげよう。俺にこの技を『つかわせた』のはおまえが初めてだよ」
頬は興奮で赤く染まっているのに、囁きは夜のように静かだった。
デリックが、目を見開く。
迫った死の足音が信じられないというように。
歯を剥いて、王子が笑った。
『ストーップ!そこまで!』
天から大音量の声が響く。
突然、二人の間に透明の壁ができた。
かと思えば、それは王子を選択して、一瞬にしてデリックから10歩ほど遠のいた場所に移動させた。
互いに何が起きたか理解できなかった。
極限まで張りつめた緊張の糸が、ぷっつりときれ、互いに驚いた顔のまま固まった。
先に立ち直ったのは王子だった。
なにやら呆然とした風情でデリックの顔を見ている。
その顔から赤みが失せ、徐々に白く、無表情になっていく。

「――ああ……」

ため息のような声をあげて、王子が息をついた。
俯く。
そうして再び顔を上げたとき、デリックはちょっと驚いた。
王子の目が黒に戻っている。
(なんだ…?何かのシステムか)王子は訝しげなデリックに気づかず、きっと天をにらむ。
その視線の先に、真っ白な矢印があった。
「…どういうつもりですか」
『日々也、それこっちの台詞』
「マスター」
マスター、デリックのいるこのPCの神さまともいえる絶対的な支配者――臨也は、姿こそ見えないが、日々也と同じ声で、呆れたようにいった。
『どうもこうも、デリックは君の敵じゃないよ』
日々也、と呼ばれた王子は、つかれたように首を振った。
「マスター、騙されています。彼はウイルスに感染している。あなたが話しているのはデリックという何がしかのシステムを演技しているウイルスにすぎません」
『だからそれが勘違いなんだってば。デリックがウイルスにつかれるなんてこと、ありえない』
「マスター」
日々也は顔を上げてゆっくりと小首を傾げた。
「なぜですか。理由を説明していただかなくては、俺にも対処のしようがない」
『ふうん、セキュリティスイートの君でも、そのウイルスが飼い犬かそうじゃないかは判別できないんだ?』
セキュリティスイート。
コンピューターのあらゆる物を保護し、守り抜く。
まさにPCの守護神だ。
その中でももっとも高性能で、最強、そうあるために人格と思考能力を与えられた日々也は、その名にはじるおこないをした。
つまり、ぽかんとして、「は?」と聞き返したのだ。
何と言ったこの馬鹿は、と顔に書いてあった。
『たしかに彼はウイルスだ。それも多分、現行するなかでもっともランクの高いウイルスだといっていい』
臨也の声がいう。
『でも敵じゃない』
かつん、と響いた音は、恐らく臨也が机を叩いた音だ。
『だって、マスター、というより、生みの親が俺だから』
沈黙が落ちた。
「……なんですって?」
ようやっと声が出たらしい。
かわいそうに。
デリックは思う。
臨也の声はいよいよ楽しそうに繰り返す。
『だから、デリックを』
「生んだ。あなたが?」
『そう。つまりデリックのお母さんだってこ…』
「きしょくわりぃいい方すんな死ね」
デリックの心の底からの願いはものすごい眼力とともに発射された。
果てがないはずの白い天井にものの1秒でつきささりそうなほどである。
しかしふいに表情を笑みの形にゆがめると、さも親しげに呼びかける。

「……随分久しぶりだな?マスター」







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