「――それでね弘、」
「…あのさ、いちいち呼ばなくても大丈夫だから」
「え……ごめん……」


十秒に一度は呼ばれる名前。遂に耐え切れなくなり、思わず素っ気なく突き放した。ところが予想以上に真に受けてしまったらしく、この世の終わりみたいな絶望的な顔で、じゃあ…ちょっと控えるね…なんて俯く佐助。何だかこちらまで切なくなってくる。


「…違うの。そんなに何回も呼ばなくたってちゃんと聞いてるし、わかってる」
「!う、うん…!ごめん、なんか嬉しくて、つい…!」


再びぱっと空気が華やいだ。ふにゃりと笑んで、何もなくても呼びたくて……と照れながらに呟いた佐助。手を合わせていじいじと指先を絡ませて、落ち着かないその様子はまさに乙女で。
…くらり、と。何かが揺らいだ気がした。


「?……ッぶ!?何で!?」
「知らん!殴りたくなった!!」
「……ふふふ、弘ったら可愛いなあ!」


ついその幸せそうな横面へ一発、拳をぶち込んでしまった。一瞬ぽかんと呆けたもののすぐにへにゃへにゃと表情を崩した佐助は、先に歩き出した私に追い付いて腕を体に絡ませてくる。可愛いのはお前だ…!と叫びたいのも山々だが、それも悔しくて言えない。


「ね、弘」
「今度はなに!」
「んな怒んないでよー。手、繋いでいーい?」


いい?とか尋ねるような口ぶりをしつつ、既に私の手と自分の手を重ねている佐助。答えを待つつもりがないんなら、わざわざ聞かなきゃ良いのに。そもそも毎日繋いでるんだから、別に断らないし……。


「あ、そういえば聞いた?この間、真田の旦那が一年の子に告白されたって」
「え……え!?何それ知らない!」


いい加減、慣れない名前呼びのせいでガチガチに緊張した私を察したのか、佐助は何気ない話題で気を紛らわせようとしてくれているらしい。いつもみたいにぶらぶらと繋いだ手を振って、屈託のない表情で笑う。
でもいつもと違うのは、前よりも少し距離の近くなった彼の呼び方。たまに勢い余って「弘ちゃ」まで言いかけると慌てて呼び直したりなんかして、しかもその時にやたらと愛おしげに私の名前を紡ぐものだから、こっちも少し落ち着かなかったりするのだ。


「――ってな感じでさ、やっぱり旦那は断っちまったってわけよ」
「勿体ないなあ……でも真田らしい、っていうか」
「だよねえ」


程よい緊張感を残したままいつもの道を歩く。もうあと五分も歩けば私の家に着こうか、というところ。車通りの少ない寂れた交差点の赤信号で足を止めて、何気なく途切れた会話の静けさにぼんやり空を見上げた。
黙り込んでしまうと気まずい場合のがずっと多いけど、佐助が相手だとそんなこともない。沈黙ですら少し愛おしくて、ほっとするのだ。


「ねー弘」
「なに」


ふと呼ばれて振り返れば、いつの間にかぐっと近付いていた佐助の顔が眼前を覆う。瞬き一つの間に、ああ、キスだな、と経験が呟いた。

そっと落とされたそれはどこか物足りないような、それでいて優しい。繋いだ手にぐっと力が篭った。たまに促すように佐助の唇が動いてそっと吸い上げられるのだけど、つい体が固くなってしまう。思わず顎を引いたが、追い掛けてくる唇は執拗だ。
それから私が口を開くことがないと悟ったのか、一度離れてからもう一回だけ名残惜しそうにキスを落とすと佐助はゆっくり顔を離す。かさついた唇を潤すためのメントールのリップクリームが私に移っていて、それだけが妙に生々しい。


「……なに、急に」
「んー…何となく、したくなった」


咄嗟にカーディガンの袖で口元を押さえながら尋ねると、佐助はしれっと肩を竦めて微笑んだ。何となくで堪るか、とも思ったがこんな状態では何も言い返せない。あっそ、と素っ気なく切り返して視線を前に戻す。と同時に、信号も青に切り替わった。


「弘はさ、」
「……?」
「ちゅーした後に、そうやって照れてる顔が一番可愛い」


まあ普段から可愛いけど、なんて。結局一台も周りに停まっていない横断歩道を渡りながら、佐助が小さく呟いた。さっきまで私に触れていた唇が紡いだそれに、ますます肩身が狭い。火照った頬に指の背を宛てた。あまり効果はなさそうだが。


「へへ、可愛い」
「……それは、どうも」


そんな顔で見るな!と叫びたくなるくらい柔らかく微笑んだ佐助は、爆弾の連続で勢いをなくしてしまった私の返事を聞いて満足そうに喉で笑う。そんな視線が眩しくて、私はしばらく俯いていた。……さっきまで女の子みたいだったのに、もう男の顔だ。
それから碌な会話もしない内に、あっという間に着いてしまった私の家。いつもはなかなか繋いだ手が離せなくて佐助は渋るけれど、今日は代わりに「ごめんね」と肩を竦める。


「ホントはもっといたいんだけど、今日これからバイトがあるからもう帰るわ」
「ん、わかった。今日もありがとう」
「いーえ。んじゃね弘ちゃ……じゃなかった、…弘」


まだだ、そんな呼び方。私が落ち着かないから普通に呼んでくれればいいのに。それとも反応を楽しんでいるんだろうか。多分、後者だ。
そうして去り際、佐助は額にキスを寄越してから手を振った。いつもと違い、駅とは反対方向へ遠ざかっていく背中。バイトを始めたての頃に聞いたけれど、私を送ってからすぐ向かえるようにバイト先はこの辺りを選んだそうだ。


「(……はあ、)」


佐助は、何をするにしても私を中心にしてしまう。生徒会のことだってそうだし、バイトもそう。それだけ大事にしてくれているんだとはわかるけれど、それでは逆に私の方が彼に依存してしまいそうで。寂しさを感じている手を握ったり開いたりして佐助の名残を探している自分に、ほとほと呆れ返ってしまった。つい落とした溜め息も、既に熱っぽい。
……ああ、駄目だ。十分依存してる。


「……姉貴?」
「!」


聞き慣れた声にばっと視線を上げれば、訝しげな顔でこちらの様子を窺う成実の姿。何やってんの?と小首を傾げた彼に、今の自分が如何に不審であるかを悟った。…もう佐助が去ってから随分経っているというのに、何をしてるんだ私は。


「あ、いや……何でもない…」
「?……まさかアイツ、姉貴に何かしたんじゃ、」
「え!?ししししてない!!何も!!」


さっきのキスと佐助の言葉がフラッシュバックして、思わず慌てて否定したが逆に怪しまれてしまう。見る見る釣り上がっていく成実の目に冷や汗が浮かんだ。


「本当に何もないから…!」
「ほんとに?何か隠してないか?」
「そ、んなこと……」


……何だろう、この浮気を問い詰められているような気分は。相手は弟なんだから、こんなに慌てふためく必要はないはずなんだけど。否、そもそも姉の恋愛事情にいちいち首を突っ込んでくる弟の方がおかしいのか。


「……姉貴さ、」
「な、なに」
「何であんな奴のこと、好きなの」


急に、真剣な顔つきでそう切り込んできた成実。ぐっと言葉に詰まる。じっとこちらを見据える弟の鋭い視線に、一瞬だけ肩を竦めた。


「…何で、だろ」
「………」
「なんかもう、どうしようもなく好き、っていうか」


言葉で言い表すには少し拙くて、でも抱えた感情は並のものではなくて。苦しくてもどこか穏やかでいられるこの気持ちは、きっと他の誰にも理解できない私だけのもの。そして、佐助以外の誰にも渡したくないものだ。
目を眇めた成実は、考えるように瞬きをする。そうして興味を失ったように、すっと私の横を通って玄関の扉へ手を掛けた。


「ふうん…」
「……?」
「俺としては、アイツより前の彼氏の方が安心できていいけど」


ま、姉貴の好きにすればいいんじゃない。そう諦めたように言って、成実はさっさと家へ入っていく。唇に残ったメントールが、今頃すっと冷えた。



紙一重な試練

(だ、第一関門…突破?)


―――――
120108
シスコン成実が書きたくて紙一重ヒロインは政宗の従妹にしたのだと言っても過言ではない。




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