日誌を目の前に、私は深々と溜め息を吐いた。遅刻反省文もなかなかにペンの進むような代物ではなかったが、これもまたいい勝負ではないだろうか。いずれにせよ先程から一文も進んでいない自分の手に、もう一つ重たい息が落ちた。

日直というやつは、一日の最後に日誌を纏めたり戸締まりを確認したりと、たいへん面倒くさい。特に面倒なのは日誌。万が一適当に書こうものなら、担任の片倉先生からお咎めは食らうわやり直しを命じられるわで良いことなんか一つもないのだ。
人気のない教室で一人ぽつんと、机にかじりつき日誌の欄を埋めていく。が、三行ほどであっさりとネタは尽きた。参った……最低でも十行は書かないと片倉先生は容赦なく突き返してくるのに。
参考にならないかと思い過去の日誌をぱらぱらと捲るが、やはり皆考えることは同じらしく。どこと無く似たような文章ばかりが続く紙面に、思わず溜め息をついた。


「…ああ、なんだ良かった。まだ教室にいたんだ」
「……あ」


不意に響いた声に顔を上げると、茜射す教室へ顔を出したのはもうすっかり見慣れてしまったあの夕日色。男にしては少し長い、襟足に掛かるくらいの髪の毛をゆるく靡かせながら歩み寄ってきた佐助は、安心したようにほっと肩を下ろす。


「もう帰っちゃったのかと思った」
「ご、ごめん…」


つい言ったつもりになっていたけれど、どうやら自分が日直だということを伝え損ねていたらしい。要らぬ心配までかけてしまったようだ。素直に謝り、次いで礼を告げれば彼はえへへなんて子供みたいに照れながら笑う。…っか、可愛いだなんて別に思ってなんか………ハイ嘘です思いました超可愛いです。
ふと佐助が、シャーペンを握る私の手元を覗き込んだ。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、目線だけ私の方に寄越す。


「日直の日誌?」
「そう」
「ああ、こっちの担任ってこういうの厳しいんだっけ」


お蔭で旦那もよくやり直しくらうみたいでさ、と彼は苦笑を零す。ああ…と思わず吹き出しながら頷いた。確かに真田なら、早く部活に出たいがために適当に済ませてしまいそうだ。仏頂面の片倉先生から日誌を突き返されて涙目になっている真田の姿が、容易に目に浮かぶ。

前の席の椅子を引き、よっ、とか何とか掛け声と共に腰を下ろす佐助。それから満足げに小さく笑った。…何が楽しいんだか。
どうやらこのまま待っているつもりらしい佐助から視線を外し、再び日誌に向き直る。あまり待たせてしまっては退屈だろうし、だったらできるだけ早く済ませてしまおうと思ったからだ。というか私も早く帰りたい。

二言三言交わしながらペンを走らせていると、不意に机の上に投げ出したままの掌に佐助の手が触れる。当然びっくりして顔を上げるが、彼はそれを意に介さず無言で掌同士を合わせ始めた。訳がわからずつい変な表情でその様子を眺める私を、ちらと佐助が一瞥する。


「……何、急に」
「いや?小さいなあって」
「そりゃあ……アンタと比べれば」


そもそも佐助は指が長い。実際に合わせてみた掌は、私の手なんか軽く握り込んでしまえそうなほど。わりと華奢に見えるが意外にごつごつしていて、触ると節くれ立っている。些細ではあるが、見せつけられた男女差に思わず閉口した。


「女の子の手って柔らかいよね」
「そうなの?比喩表現だと思ってた」
「んー何となく。あ、口ん中入りそう」
「…ちょっと、やめてよね」


本当にやりかねないような、真剣な顔をして呟いた佐助にヒヤリとしつつ、慌てて握られた手を引き抜いた。冗談だよーとからから笑う佐助を白い目で見る。…冗談に聞こえないっつの。


「ほんとに何もしないからさー」
「……」
「ねー弘ちゃーん」
「…ああもう、うるさいな」


けっきょく根負けして差し出した掌を、すかさず佐助が捕まえる。指と指を絡ませてきゅっと握って、また満足げに笑った。その無邪気な表情に目を細める。…駄目だこりゃ、全然集中できない。もはや一文字も進んでいない日誌の上へ、潔くシャーペンを置いた。


「…もっとガツガツしてるかと思った」
「え?何が?」
「佐助が」


頬杖を衝いて鼻筋の通った顔を眺める。きょとんと瞬きを繰り返す様子は確かに可愛らしいけれど、私はあの夕暮れの出来事を忘れてはいない。
戸惑ったように瞳が揺れて、ええ…と小さく佐助が唸る。…ちょっと無粋な問い掛けだったかもしれないな。おろおろする佐助に罪悪感が込み上げてきて、ほんの数秒前の自分を恥じた。


「…そりゃまあ、俺も一端の男だし……多少は邪な気持ちだって、抱えてるけどさ」
「……!」


暫しの沈黙の後、ぽそぽそと小さく呟かれた声を私の耳が捉える。小刻みに震える睫毛をじっと見つめた。夕日で照らされた頬が紅潮しているのがわかって、こちらの体も少し強張る。


「正直に言えば、本当はこんなんじゃ足りないよ。もっと触れたい。髪だって撫でたいし手も握りたい、べたべたに甘えたい、ぎゅって抱きしめたい。…キスだって、したい」
「……」
「でもそれを咎められたとして俺は、もう弘ちゃんのことを、そういう対象にしか思えないから」


だから、ガツガツしてないってよりは開き直ってる…って感じかな。
ひょいと肩を竦めて彼は笑った。どこか照れ臭そうで、でもほんの少しだけ期待も滲んだ笑顔。真っ直ぐそれを凝視して、今度はこちらがしどろもどろになる番だった。


「や、色々とまだ時期じゃないってことは、流石に弁えてるって」
「……佐助、」
「それに焦んなくても弘ちゃんは俺のこと好きでいてくれるんだって、ちょっと余裕ができたのもある」


最後に悪戯っぽく笑って、繋いでいた指先を口元に持っていく佐助。視線は絡み合ったまま、音もなく落とされた唇にぎょっと心臓が跳ねる。ギリ…と奥歯を噛んだ私に、佐助の目がキラリと光った気がした。


「あ、今のドキッとした?」
「……してません」
「え〜したでしょ?ねぇしたんでしょ?」
「うっさい!してないったら!」
「ッあで」


調子に乗ってニヤつく佐助を粛清し(脳天に手刀を落としてやった)、もう一度日誌に取り掛かる。悶々としながらシャーペンを握り直す私だったが、それでも尚クツクツと喉で笑っている佐助に思わず頭を抱えたくなった。
ああもう、本当に恥ずかしい奴…!嬉しい私もどうかしてる!




紙一重の日常

(む、如何なされたか政宗殿)
(Ah,真田か……いや、ちぃと取りに行きたいもんがあるんだが、よりによってあそこでイチャついてやがる奴らの隣でよ……)
(……どんまいでござる)



―――――
111218
日常編、またの名をバカップル編。




prevtext top | next




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -