青い海が印刷された絵葉書を一枚手に取って、無人のカウンターに少し多めのコインを置く。店の中にも外にも人の影は見当たらず、耳に届くのは打ち寄せる波の音ばかりだ。硝子の割れた窓の向こうでカモメが数羽、退屈そうに空を旋回している。
――ここの海は、バーナビーの知る"海"とは違う。右を向いても左を向いても、黒い息を吐くコンビナートや絶え間無く行き来する厳つい貨物船に、視界を塞がれたりはしない。大都会で生まれ、ビルの群れの中で育ってきたバーナビーにとって、自然に満ち溢れた外の世界は、あまりにも衝撃的だった。初めてアスファルトで舗装されていない道を歩いた時など、その歩き辛さに思わずブーツを脱ぎ捨てた程だ。
埃だらけのベンチに腰を下ろし、雲ひとつない夏の青空を見上げながら、バーナビーはふと、懐かしい"彼"のことを想った。雑草のように逞しく、海のように広い心を持った人。……最後に顔を合わせてから、もう何ヶ月が過ぎただろうか。シュテルンビルトを離れる時に携帯電話も解約したので、近況を知る由はない。分かるのは今、彼が暮らしている実家の住所――ただ、それだけだ。
生温い風が頬を撫で、金色の髪が宙に踊る。黒のシャツとカーキ色のカーゴパンツという質素な装いでありながらも、その横顔が妙に色気づいて見えるのは、その瞳の奥底に、一途すぎるほど一途な愛が根付いているからなのだろう。……バーナビーは綺麗になった。この半年でより一層、強く儚く綺麗になった。小さなボストンバッグの中には、端の焦げた布切れとゼンマイ式の玩具と数式が書き込まれたメモ。ピンクのうさぎのぬいぐるみは、未だ帰らぬ家主を部屋で、ひとり待ち続けている。

「……虎徹さん」

掠れた声で名前を呼び、自分の舌がまだ彼の名のイントネーションを忘れていないことに、心の中で安堵する。"虎徹さん"と呼ばれるのが好きだと、犬歯を見せて笑った時の優しい瞳を思い出して、無意識に口角が持ち上がる。嘘と私欲に躍らされた人生の中で、彼だけが"真実"だった。
砂を巻き上げながら走り込んできたトラックが、バーナビー姿を見留めて、ゆっくりとそのスピードを落とす。運転席から顔を覗かせた男は、どこか彼と似た雰囲気を持つ、人の良さそうな東洋人だった。

「おい兄ちゃん、こんなところで何やってんだァ?観光するならもっと西に行かねーと、ここいらァ観るもん何もねーぞ?」
「分かってます」
「ならいいんだけどよ。電車乗んならオリエンタルタウンかオーシャンビレッジまで送ってやろうか?」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。……あの。代わりに、これを」

古びた絵葉書に、手早くペンを走らせる。右上がりの不格好な文字。これを見れば、差出人が誰かなのかすぐに分かるだろう。

『今日は海を見ました。どこまでも続く広い海を見て、虎徹さんのことを思い出しました。どうかお変わりなくお元気で。』

ポストを見たら突っ込んどくよ、と言った男に笑顔を向けて、バーナビーは再び海を見る。長い旅を終えてもなお、彼の隣に戻れたら……彼が何も言わず、自分を受け入れてくれたら。その時はもう一度、胸を張って「好きだ」と伝えよう。依存するのではなく、甘えきるのではなく、対等な立場に立って、もう一度『最初から』。







明かりの点らない部屋に、5通目の茶封筒が届く。綺麗な筆記体で綴られた宛名はバーナビーの名前、差出人は鏑木虎徹。何気ない近況報告を装った文章の裏に、隠しきれない愛情が溢れているこのラブレターをバーナビーが繙くのは、それから更に半年先の――三度目の冬のことになる。


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