さて、目の前の男は元殺し屋だという。そんな馬鹿な話があるかと笑い飛ばすわたしを、人の話を信じられないとかお嬢様の心マジ枯れてるー、とけらけら笑っている。こいつクビにしたい。
「頭おかしいんじゃないの」
「なら、その頭おかしい人間を雇ったマリーのお爺さまはもっと頭おかしいな」
「お爺さまはまともな人よ、馬鹿にしないで」
「じゃあ、そのまともな人が雇った俺も馬鹿にしないの」
「あなたはもっとわたしを敬うべきだわ」
えぇー、と芙蓉は面倒臭そうに溜め息を吐いた。
「それに、わたしはマリーじゃなくてマリーゴールド! ちゃんと『さま』もつけなさいよね!」
「いいじゃん、マリー可愛いじゃん」
「可愛いのは百も承知よ、でもあなたには呼ばれたくないわ」
「俺には呼ばれたくないって、そもそも俺しか呼んでないし」
子供のように笑った芙蓉は銀色のボウルを同じく銀色の調理台に乗せ、さて、と二度手を叩いた。
「何食べたい?」
その質問はずるい。たちまちわたしの頭の中にあった『芙蓉への文句』は音を立てて消え去り、代わりに彼が作る色とりどりの料理が一気に思考を支配する。
朝食に出たクロワッサンはさくさくとした生地と香ばしい甘さが目を覚ますのに一役買ったし、昼食のボンゴレ・ビアンコはあさりが苦手なお爺さまがお代わりを頼みたくなる程美味しかったし、昨夜食べた洋梨のシャーベットは本当に素晴らしかった。お腹が減ったらお食べ、と渡されたブリオッシュにはまるまるとしたソーセージが入っていて飛び上がるくらい喜んだのは一昨日のお稽古の時間だ。先生には間食なんてはしたないと怒られたけれど、美味しいものの前には先生のお小言だって霞んでしまう。
「なんでもいい」
だって、芙蓉の作るものは何だって美味しい。きらきらとして、いつだってわたしの心を虜にする。
けれど芙蓉は不満そうな顔で、むすっと頬を膨らませた。
「えー、何でもいいって言うのはイヤだなぁ」
「どうして? 芙蓉が作るものは何だって美味しいんですもの、決められないわ。芙蓉が来てからわたし、好き嫌い減ったのよ」
言いながらわたしは、厨房の隅に置いてある背の高い椅子を調理台の前、芙蓉の向かいまで引きずってくる。よいしょ、と背伸びをして腰掛けると、つま先があっさりと宙に浮くのでそのままふらふらと両足を揺らした。今日の芙蓉は何を作ってくれるのだろうとわくわくしながら我が屋敷お抱えの料理長を見上げると、彼は耳を真っ赤にして笑っていた。
「うん、すげー嬉しい、ありがとう」
「あとね、わたし、芙蓉が料理するとこ見るのも好き」
「……元殺し屋でも?」
芙蓉は俯き、大きな手でボウルをころころと転がした。邪魔だからと、派手なヘアピンで前髪を留めていなければ、今頃彼の表情が見えずわたしは酷く狼狽えていたかもしれない。
うん、とわたしは頷いた。ふふ、と芙蓉はわらう。
「もしかしたら、今夜にでも夕食に毒を混ぜるかもしれないのに?」
「そうしたら、芙蓉の料理が最後の晩餐になるのね。美味しいものを食べて死ねるなんて素敵」
「酷く苦しむよ、味なんて分からないくらいに」
「あら、死とはそう言うものではないの?」
「…マリーみたいな子供でも、俺は躊躇わないよ?」
「子供扱いは嫌いだから光栄だわ」
にっこり笑ってみせると、降参、と芙蓉が両手を挙げた。急に手を離した所為でボウルがぐらぐら揺れている。
それを手を伸ばして押さえると、ありがとう、と芙蓉は目を細めた。
「俺ね、料理…っつーか、何かを作るのがすげー好きなの」
わたしの手に触れそうで触れない絶妙な位置に手を置くと、芙蓉はつるりとしたボウルの表面を指先で二度撫でた。
「だけど殺し屋だったの、笑えるでしょ」
何と言っていいかわからず、わたしは馬鹿みたいに真っ直ぐに芙蓉の顔を見つめるしか出来なかった。でもね、と芙蓉はゆっくりと目を伏せた。
「マリーのお爺さまが拾ってくれた。……あの人も何であんなとこにいたのか知らないけど、俺が隠れ蓑にしてた酒場に来てね、俺の作った飯食って言ったんだよ。料理人が逃げたからうちに来ないかって、孫にも食わしてやりたいくらい美味いって」
「…逃げたんじゃなくて追い出したのよ、お爺さまが。買い物代をちょろまかすとは何事か! って」
「それは料理人の風上にも置けないな」
「しかも、あんまり美味しくなかったし」
付け加えたわたしの言葉に、芙蓉はくっと肩を震わせた。成長期にそれは辛いな、という芙蓉にわたしは大きく首を縦に振った。お腹が減っていれば何でも美味しいと言うけれど、毎日毎日空腹で味を誤魔化す事は難しい。誰だって美味しいものを食べたいに決まっている。
マリー、と躊躇いがちにわたしを呼んだ芙蓉は、厨房の奥へ視線を向けていた。遠くを見つめるその横顔を見上げていると、俺さー、と芙蓉はこちらを向かずに口を開く。
「……酒場にいたって言ったじゃん」
うん、と頷いた一瞬だけ、芙蓉がわたしを見た。
「そこにね、誰々を殺して欲しいとか、誰々に復讐したいとか…みんな依頼に来ンの。俺は普段は料理番として働いてたけど、そういうのが来ると殺しに行かなきゃならない。だってそっちの方が給料いいしね、頑張らないと」
「生きる為に?」
「ううん、美味しいものを食べる為に。…生きるのは案外、お金なくても何とかなるから。だけどさ、結構疲れるんだよな、ああいうの。年を取れば運動能力は下がるし、当たり前だが恨みも買うし、返り討ちに合いそうになるし…だから本当は、もうずっと前から手を洗いたかった」
……手?
意味が分からず首を傾げるわたしに、たくさん汚したから、と芙蓉は両手を広げて見せた。厨房に入る際に念入りに洗った彼の手は汚れひとつなく、ただ指先が少し荒れているだけだ。
「…ねぇ、そういうのって『足を洗う』じゃないの?」
「実際に汚れるのはこの手だよ」
手のひらをこちらに向けたまま、芙蓉は肩をすくめる。わたしがそれに触れようと手を伸ばすと、彼は慌てて身を引いた。
それを無視して調理台によじ登ったわたしは、無理矢理芙蓉の両手を掴む。今この場にはお行儀が悪いと窘めるお稽古の先生はいないのだから、構うものか。わたしよりも大きな手は、少しだけ温度が低かった。
「あー…マリーゴールド、さま?」
「芙蓉」
名を呼べば、びくりと彼の手が強ばるのが分かった。わたしの小さな手では包みきれない大きな手は、居心地が悪そうに身じろぐ。肉付きの薄い指は水仕事の所為か荒れていて、かさかさしている。仕事をする人間の手だ。
「どうした?」
「わたし、あなたの手が好きよ」
手を繋ぐように指を絡め握りしめると、芙蓉は溜息のように笑った。
「あとね、芙蓉」
「うん?」
「それ以上にあなた自身が好き。だからね、そんな風に暗い方向に考えるのやめなさいよ」
芙蓉はきょとんと目を丸くしぱちぱちと数度瞬いた。ありがとう、と彼が返した言葉はまるでわたしに聞かれたくなかったかのように小さかったので、聞こえなかったふりをしておいた。
「マリー、最ッ高に美味しいもの、作ってやるよ」
楽しそうに弾む芙蓉の声がする。今度はしっかりと聞こえたから、私は芙蓉を見上げて大きく頷いた。
その手がいとしい
企画提出:手帖 『使用人万歳!』
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