忘却の手段
直ぐ隣で口ずさまれているメロディが完璧に韻を踏んでいる事に気が付き、それにどうしようもなく腹が立って黙らせるために殴った。
殴った瞬間にメロディは途切れて、それから直ぐに何事もなかったようにまた始まった。
杏子を静かにさせる為に殴ったのに、それをちいとも理解してくれない杏子がただ悲しくて、あたしはもう一度殴るしかなかった。
二回、三回を続けて殴った時に、杏子の顔から鼻血が出てくる。
杏子は自分から落ちてゆく血を眺めているだけで、あたしは驚いて直ぐ近くにあったティッシュの箱を慌てて引き寄せた。
小花柄が一杯にちりばめられたピンクのティッシュ箱から何枚か真っ白な紙を取り出す。
それを無理矢理杏子の鼻に詰めるまでをあたしは途方に暮れたような顔をして見つめていたのか、鼻にティッシュを詰められた間抜けな笑顔で笑いかけてきた。
あたしはそれにもまたどうしようもなく腹が立って、何笑ってるんだよ、なんてどうしようもない事を云った。
鼻にティッシュを詰めて満足したのか、杏子は再び違う曲を歌い始めて、それがまた韻を完璧に踏んでいるものだから、あたしは今度こそどうしたらいいのかわからなくなった。
どうしたらいいのかわからなくなって、息するのすらうまくいかなくなって、そんなあたしに気が付いた杏子が歌うのを止めてあたしの肩をそっと掴む。
その掴まれた肩に感じる手のひらの体温が驚くくらい温かくて、嘘っぱちの体温がとても気持ち悪くてあたしはその手を勢い良くはねのけた。
杏子は跳ね除けられた手のひらをしばらく見つめて、「どうしたんだよ」と悲しそうに呟いた。
その悲しそうにしている姿とか、悲しそうな声とか、まだ止まらない鼻血だとかに、あたしはいよいよ、もうどうしたらいいのか解らなくなり、
だって、ずっと覚えているような、でも二度と思い出さないだろうな、と思うような光景だった。
それで、あたしをこんな気持ちにさせる杏子が悪いんだとひどく短絡的な思考に落ち着いて、
あたしは杏子を綺麗さっぱり、そうすっかり忘れてしまうことにした。
どうしてそんな簡単な事にすら気が付かなかったんだろう。もう何だって気にならないよ、だって何も覚えてないんだから。
そうだね、さようなら。
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サルベージサルベージ
さや杏
百合って何なのかよくわかりません