サンプル1 | ナノ
MY MANIC AND I

朝、古ぼけた毛布から顔を出し、うまく開かない目を擦りながら洗面台へと向かう。
冷たい水で顔を洗い、掛けていたタオルで顔を拭くと、生温い匂いがした。暫く考えてからそれを洗濯機に放り込む。
適当なチャンネルのテレビが朝から良く解らないニュースを垂れ流す。
沸騰したお湯にインスタントの珈琲粉を注ぎ同じくらいの牛乳も入れる。
玄関口のポストに入れられた新聞にざっと目を通すと、悲惨な事件ばかりで俺は溜息をついた。
何時ものバーテン服に着替え、革靴に爪先を入れ、まだ太陽も新しい池袋を出る。
駅には幽のポスターがべたべたと貼られている。それを横目で見ながら改札を通り過ぎると、電車の中にも幽の顔があった。澄ましたような人形のように整っている顔を見て俺はいつも誇らしいような、それでいて今すぐポスターを破きたいような気持になる。そういうときはいつだって、目と閉じてやり過ごす。
目的地の駅に着くと、待ち合わせの改札でトムさんが煙草をふかしながら俺に片手をあげた。池袋以外でもあんまりにも滞納者の態度が悪い時、俺とトムさんが出向く事になっている。
母親の云うことを聞かない子供にちょっとしたおしおきをするのと同じ事だ。母親でだめなら、もっと恐ろしいものがくるよ。子供をつけあがらさせちゃいけない。何事も初めが肝心さ。そういう事だ。

「トムさん、おはようございます」
「おお、時間ぴったりだな。どうすっべ。お前朝飯食ったか?まだならそこらの喫茶店で食うか」

俺はうなずき、歩き出したトムさんの後ろをついていく。そういえば、とトムさんが口を開いた。

「また出たんだってな」
「何が出たんですか?」
「ほら、立ちんぼやポン引きばっか殺して行くやつ。今日も新聞に載ってたぞ。まったく物騒すぎるねー」
「はぁ」
「お、このモーニングよさそうじゃね?ここにするかー」
トムさんが選んだ所に俺が文句を云うことはない。
昔からあるような喫茶店に入れば、お煙草はお吸いになりますか?と店員が尋ねてくる。ショーケースの中にはしなびた果物が乗ったタルトが置かれている。モーニングのAセット二つと、水を持ってきた若い女に告げた。

「しっかし、池袋にもまだ立ちんぼとはいるもんだねー昭和かよって話だよなぁ。今いつよ?平成も20年も過ぎたってんのに」
「でも最近あれだって聞きました。素人の売買春もやられてるらしいっす」
「げぇ、まじで?」
「まじです」

俺とトムさんは先に運ばれてきた珈琲に口をつけた。ひどく粉っぽい味だった。これなら、まだ俺が淹れた方が旨いと思えば、トムさんも似たような事を思ったのだろうよくつぶれねぇなこの店、と呟いた。

「あ、そういやさ静雄、お前命日はどうすんべ?」
社長にいって休み貰うんだろう、とトムさんはサラダにフォークを差す。

「お袋さんと親父さんの墓参りだろ?」

トムさんに悪気はない、と解っていても口の中のトーストが途端に砂のように思えてきた。トムさんは俺の両親がとうの昔に死んでいるという事しか知らない。どんな風に死んだのかとか、そういう事をトムさんは知らない。本当は、墓参りなど行かないのだ、と何時トムさんに告げるべきか考えあぐねもう数年になっている。人はあっけなく死ぬ。命は地球より重いなんて嘘っぱちだと、それだけが俺が知っている真実だ。人の命なんてそこらで捨てられる風俗のチラシより、顧みられないものだ。
「そうっすね。墓参りの事、社長にお願いしないと」
「あれか、弟君とも合わせないといけないもんなー」「ですね」
「やーしかし、えれぇよなぁ。ちゃんと墓参りってよ」
「そうっすか?」
「いやいや墓ってなんだかんだいって高いべ?俺の親戚なんてまだ墓すらたてられてねーべや。寺に保管してもらってるけどよ、バチあたりだって散々言われるみたいでよ」
「まぁ、うちはそこらへんは幽が全部やりましたから……」
「あーだよなー。ほんとあの弟君すげーよなぁー」

トムさんはそう言いながら珈琲の白いカップを口にし、それにしてもまずいなと眉をしかめた。


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俺の中で一番幸せな記憶と、一番最後の幸せな記憶は同質だ。
八歳の誕生日、俺は家族と山にキャンプに来ていた。残念ながら何処の山だったとか、泊まっただろうバンガローの事は何一つ思い出せない。ただ、俺たちみんなで炊いたご飯の白さだけは良く覚えている。
あとは川。そうだ、川だ。まだ小さかった幽を連れていけなかったから俺はひとりで小川のほとりへ行き、大きな岩の上に座って冷たい水の中に両脚を浸していた。
小川は、俺の両側を勢いよく流れて行って。川面の近くにたらした素足に水しぶきが当たるのがわかった。水は冷たく、陽ざしは暖かかった。茂みがさごそ鳴ったので、顔を上げた。土手の上から、俺と同じくらいの年の少年が微笑みかけてきた。
すらりとした両脚はひどく白く、あまり健康的には見えなかった。人見知りだった俺だが、なぜかその黒髪の少年には思わず笑いかけた記憶がある。

「魚だ!」

そういって俺は川面で跳ねた水を指差した。

「ほんとに?」
「いたよ!見えなかったのか?」
「大きい?」
「すっげー大きいよ!俺、あれを捕まえるんだ」

少年が土手から駆け下りてきた。
健康そうには見えない脚だったが、土手から川まで下りてくる速さに俺は感嘆した。少年は躊躇しなかったし、またしなやかだった。
隣にやってきた少年のために俺は少し場所をあけてやった。少年はありがとう、と云った。川の上にある青空から聞こえてきたような声だった。
お前、凄いなと云うと少年は少しだけはにかむように笑った。川面に反射した光が目の中にさし入り少年の瞳の色が赤くなった。

「なぁ、さっきの魚一緒に捕まえようぜ。俺、静雄っていうんだ。お前は?」
「俺は――――」


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臨也とドライブ。最低な響きだ。
高速に乗り、東京都を出た辺りで俺はサンドイッチを半分以上平らげた。ピーナッツバターにチョコクリームを挟んだ甘ったるいだけのサンドイッチ。臨也はうんざりしたような顔で、車の中に広がる甘い匂いに窓を開け放す事で対応する。
途中のドライブインで俺達は飲み物を買った。プラスチックのカップはびしょびしょで、やけにふやけている。
差し出した店員余りの態度の悪さに俺は危うくへらへらと笑う顔を殴り飛ばしかけたがその前に臨也が小銭を全部ばらまいていた。金だ、金!と間抜けな声で店員が小銭を数えている間に俺達は店を出た。
臨也が買っていたソフトクリームは見るからに不味そうだ。チョコレートとバニラ味のミックスソフト。
カーステレオからは女の声が流れてきた。彼はジェニーヴァ湖で死を望んでいる。美しい死に方をしたい男を女が下らないと嘲る歌。
水の味が濃いコーラをすすりながら、俺は臨也の下手くそな運転を見た。見たこともないような真剣な顔をして、ハンドルを握っている。
横からハンドルを触れば車はそっとやさしく高速のグリルにキスするだろう。上から下へ。上へ、また上へ。俺の手首を折ろうとするバックミラーはその目標を達成する事はない。まるで魔法のように消え失せた臨也を俺は探す。車の前に散らばる真っ赤に染まったガラスのかけらの中、地面に激突して全身赤剥けになり血のつまった袋のような臨也が転がるのを見つける。
俺は引っ繰り返った車から這い出る。恐らく俺は無傷だ。――いや、止めよう。そんな死に方は下らない。

「は、なに?何か言った?」
「何にも言ってねぇよ」
「そう、あんまり喋らないでね。隣でうるさいとハンドル誤っちゃうからさぁ。まあシズちゃんに自殺願望があるならどんどん喋ってくれてもかまわないけど、いやそうしたら俺も死ぬか。とにかく黙っていてね」
「まずてめぇが黙れ」


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