THE BLIDING

あ、見えない。


手元にライターが見あたらなくコンロの火に煙草をくわえたまま顔を近づけた。
カチリと捻ると青い炎が点る。ガスの匂いが鼻をついた。
静雄がコンロの火で煙草を喫むと決まって臨也は眉を寄せた。チェーンスモーカーみたいで、いやらしい。と臨也は必ず続ける
コンロの火を消さず、そのままアイロンを焼く。
静雄は煙草の煙を深く喫み込んだ。白い白い煙が肺の細胞一つ一つ染み込んでいく。
電気が使えないので、ガスでアイロンを焼きシャツにかけるしかないのだ。
昨夜の豪雨で、アパートの電線が切れてしまった。申し訳なさそうに朝謝りにきた大家の皺だらけの指を思い出す。
幸い、静雄は電気にそこまで依存した生活を送ってはいない。
冷蔵庫には酒が入っているだけだし、風呂に入れなければ直ぐ近くの銭湯に行けばいい。テレビを見なくては死ぬ、なんて年はとうに過ぎた。
真っ赤に熱を持ったアイロンを片手に振り返り、視界に入ってきたローテーブルに置かれたままのキャンドルの顔をしかめる。
見るからに高そうなそれは静雄の持ち物ではなかった。
そしてこのキャンドルを持ち込んだ男を思い出して静雄は歯噛みし、思わず煙草をかみちぎった。ニコチンを含んだ歯が口の中に広がる。
猛毒を有するそれは静雄にとってはただ苦いだけのものだ。
オーモンドジェーンとつづられたガラスに入ったクリーム色の蝋は昨夜は一日中、甘ったるい百合の匂いをまき散らしていた。
昨夜はこのキャンドルすらよく見えなかった。そう、ぼやけて白い視界だ。


静雄は強く目を擦った。大丈夫だ。今日はちゃんと見える。


静雄の身体の進化が鋼の肉体を作り上げたのなら、同様に眼球もまた進化した。
ただそれを進化というのか静雄には判断がつかない。
あ、綺麗だ、と思った瞬間くらくらと目が眩む。目が眩んで視界が真っ白になる。
そうして暫くはその綺麗と思ったものが全く見えなくなるのだ。
この事を静雄は誰にも話した事がなかった。
あまりの美しさに目が眩んで見えなくなるなんてそんな馬鹿げた事、と思いながらそれは静雄にとって大切な秘密になっていた。
美しいものが見えなくなる世界。一瞬の風景、空の色、うつくしい人。子供たちの合唱の声。トンネルの裏で聞く列車の車輪の音。赤茶けたブリキのおもちゃ。貝殻専門店の軒先に並ぶ海音の固まり。春にそよぐ桃色の花。
見えないなら壊す事もなく、触れられないから存在を確かめられない。
ただ一瞬、ああ綺麗だ、と思った瞬間だけが切り取られて静雄の中に降り積もっていく。


昨夜は取り立てのノルマも順調に終わり、部屋でしばらくぶりに静かな時間を過ごしていた。ただぼんやりとニコチンの染みた天井を見上げる。目を瞑り、煙草の煙が身体に染みるままに任せる時間が好きだった。
不意に音が降ってきてああ雨か、と静雄は顔をあげた。
最初から大量の水を降らせる雨に静雄は窓を閉めようと立ち上った時、チャイムの音が耳を刺す。静雄の家にはセールスの類はこない。考えられるとしたら、宅配便か先輩でもある上司。
それから、黒髪の男くらいだった。
魚眼レンズの奥に、静雄が予想した通りの人物が歪んで立っていた。
瞬く間にどしゃぶりになった雨に塗れきった男。フードも被らずに塗れたままの顔と首筋を曝していた。
「ねぇ、雨宿りしてもかまわないかな?」
外向きにしか開かない日本のドアの為に黒髪の男――臨也は一歩下がり、そう静雄に告げた。
最近臨也が付け始めた耳元の銀細工、そして静雄はそれが一体何の為につけられているのか知らない―がしゃらり、と揺れた。
羽のような銀細工の先の滴が形のいい顎に流れ、鎖骨のくぼみに垂れる。

あ、綺麗だ。

そう思った瞬間ショートするような音とともに部屋中が真っ暗になった。
「雨がやむまででいいからさ」
「停電か…?」
「お土産もあるんだ」
二人の会話は噛み合わなかったが、それに気がつく人はいなかった。
臨也が我が物顔で玄関に上がり込むと水を吸った靴を投げ捨てる。真っ暗になった部屋で静雄は目を擦った。何も見えない。
「シズちゃん、ほらこれ、いい匂いだろ?」
臨也が火をつけたそれはキャンドルか何かだろう。
「停電ってすごくタイミングいいなぁ!これでこのキャンドルを使う理由ができた。イギリスの土産なんだって」
おそらく臨也はローテーブルの奥に座ったのだろう。そこから声がした。けれど静雄にはその姿が見えなかった。大きなキャンドルで床と少しとローテーブルはわかる。その前で得意気にしているだろう臨也が静雄には見えなかった。
「床濡らすなよ」
「大丈夫塗れてるのはクッションで床じゃありません!」
「つうか何しに来たんだてめぇ」
「最初に言っただろ?雨宿りしに来たの。雨が止んだら帰るよ」
「金持ってるんだからタクシーで帰れよ。あとクッションのクリーニング代もおいてけ」
「やだぁ知らないおじさんに住所しられたくなぁい」
そう言って、それから何がおもしろかったのか臨也はけらけらと笑った。笑った時に吐き出された息でキャンドルの炎がゆらゆら揺れる。
「ねぇ、シズちゃん。どうしてそこにつっ立ってるの。暗いところで固まるなんて獣みたいだよ」
「臨也」
「なぁに」
「雨宿りに来たのか」
「そうだっていったじゃん。人の話聞いてた?」
「この雨はなかなかやまねぇぞ」
「そうなの」
「雲が分厚くて広い」
そんな匂いがする、と続ければ臨也は小さく息をつめた。
何それシズちゃんは化け物やめて獣になったの?とでも返ってくると静雄は予想していたが、その予想は裏切られる結果になった。
「うん。うん、知ってる」
臨也は黙り込み、それから夜があけて雨が止むまで何一つ言葉を発しなかった。

臨也が黙れば静雄も何もいう事はない。特に静雄に臨也の姿が見えないのだから、臨也が口を開かない限り何も行動を起こすことができない。
部屋の中には二人の密やかな息づかいがあった。そして、そのどちらもお互いの存在を確かめるような息づかいであった。


日が昇り、雨が止むと臨也は帰って行く。
蝋がほんの少し残ったキャンドルと生乾きのクッションだけが残された。
静雄はシャツに焼けたアイロンを書けながら濡れた臨也を思い起こした。


そうやって降り積もっていく。
あんまり美しいから、もうこれ以上何も見えなくて構わないようになればいい。
目が眩んでしまってもう何も見えない。






目が眩む静雄と耳が眩む臨也のお話。静雄ver



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