はじめましてマスター

「マスター、マスター朝だよ」

 朝、暖かい日差しが窓から差し込む。
 穏やかな時間にパソコンのモーター音が響く。
 ああ、もう朝なのか。
 揺すられる身体に私を起こそうと必死な声、全てが心地よくて私はこのままもう一度夢の世界に落ちて行きたかったが彼女はそれを許してはくれなかった。

「マスター! あーさだよー!」

 その声と同時に掛布団を捲られ、そのまま引っ張られ身ぐるみが剥がされる。
 冷たい外気に身体が震えあがる。ああ寒い、おお寒い。
 私は自分の身体を抱きしめ背中を丸め縮こまる。仕方ない起きるとするか、目を恐る恐る開けると緑色をした瞳が二つ私の瞳と重なる。顔、近くないか?
 彼女はニ、三度目を瞬くと細め口の端があがり笑いかけられる。

「おはよう、マスター」

 私が起きたことに、彼女は凄く嬉しそうに笑みを浮かべたまま頬を染めて立ち上がる。
 こっちまで嬉しくなる笑みとはこのことだな。
 私は身体を起こすと、いたるところ跳ねてる髪を撫で付けながら笑いかえし彼女を見つめる。

「おはよう、ミク」

 ミク、と呼んだ彼女は何度もうなずくと手を組みもう一度息を吸い込み「おはよう、おはようマスター」と言う。
 なぜだか解らないがミクはこうやって一日を始めるのが好きらしい。
 前に私がミクより早くに起きた所残念そうに眉を下げ、枕を抱えたまま「起こしたかったのに……」と可愛らしいことを言ってくれた。
 それからは、なら起こしてもらおうじゃないかと寝過ぎることもしばしば。ミクが来る前と比べるとやけにルーズな生活になった気がする。

「マスター、朝ごはん出来てるからね」

 服を着替えてる私に、ミクはパタパタと世話しなくスリッパで部屋をかけていく。
 フリフリのついたエプロンをかけながら、私の脱ぎ散らかしたパジャマを拾いながらまるで親のように私に構うミクはボーカロイドの筈なのに時々違うものに見えてくる。
 ″普通の女の子″
 そうまるでどこにでもいそうな。でも中は人間と程遠い、機械の身体。心臓だと称するものは私から見ればただのCD-ROM。
 ふとカレンダーを見ると、ミクの字で「みんなが来る日」と書かれていた。
 そしてよく見ると、遠慮がちに「マスターと会って四ヶ月目」とも。
 もうそんなにたつのか、スカートのフックを閉じチャックを上げ靴下を履く。

「ミクー」
「なーにマスター?」

 鞄に要るものを入れていきながらミクを呼ぶと、ミクはすぐさま扉の向こうから顔を出し不思議そうにこちらを見つめてくる。

「これからも、よろしくね」

 ミクは目を丸く見開くとカレンダーを見つめ、バレたかと言いたげに照れながら少し舌を見せ「えへへ」と照れ隠しに笑う。

「もちろんだよ。だってミクのマスターは、茜ちゃん以外いないもん」

 ミクの手が腰に回り後ろから抱きすくめられる。自分より若干背の小さいミクは私の肩に顔を埋め「もう、離れないから」と小さく呟いた。
 この四ヶ月間。本当に色々と事は起きた。
 日々が音速で過ぎ去るように、色んな出来事が私の目の前を過ぎ去っていった。
 でもね、ミク。あなたと出会った日はきっといつまでも忘れないと思う。
 だってとても非現実的で心臓に悪かったもの。今でも思い出すと笑えてくる。
 空気の入れ替えと言ってミクが開けた窓から風が入ってくる。
 髪が風に吹かれて顔にあたり、私はそれを耳にかけた。そう、丁度こんな風なまだ風が冷たかった日のことだ。

「バーチャルボーカロイド、初音ミク?」

 友達の薦めで買ったパソコン用のソフトを私はクルクルと色んな角度から見つめる。
 こんな薄い一枚のディスクで歌を歌わせることが出来るとは、最近の技術は気付かぬ間に発展しているんだな。
 私は箱からソフトを取り出すと先に出していたトレイに載せて取り出しボタンを押す。
 するとCD-ROMを載せたトレイはハード内に戻っていきプログラムを起動させようとカリカリと音をたてる。
 ディスクトップに現れた見慣れたインストール画面。
 私はそれに指示に従いボタンを押していく。こういうのは説明書を読むより自分の手で動かして慣れるにかぎる。

「えっと、OKっと」

 マウスを動かしていき、私は二つ並ぶボタンのうちOKボタンをクリックする。
 これで後は読み込んでくれたらいつでも出来る。
 私は待ち時間をどのように過ごそうか、椅子から立ち上がろうと机に手をついた時だった。
 プツンと電源が切れたように画面が真っ暗になったかと思うと、黒の背景に乗せて蛍光緑色の文字が流れていく。
 パソコンに詳しくない私にだってわかる、これはただ事じゃないと。
 急いで説明書を手にとり流し読みするがこんな状況での故障やらヘルプやらは見当たらず、どうしたものかと頭を抱えている間にも文字はめぐるましく流れていく。
 新種のウィルスとかだったらどうしよう。
 下手にいじらない方がいいとわかっておきながら触ってしまうのは悲しいかな、それが人間の性分だ。
 マウスを回したりクリックしてみるがウンともスンとも言わない。

「ど、どうしよう」

 これは『初音ミク』の製作会社に電話するべきなのか、それともパソコンのサポートセンターに電話すべきか、それともそれともこのまま放置するに限るか。
 焦りに冷や汗が流れでる私を他所に、パソコンはカリカリと音を立てて一つの文章を表示させたとたん動きを止めた。

『boot up Hatune Miku?』

 息をのむ。もしかしてこのソフトはこういう演出がしてあるのだろうか。んなまさか、いやでも。
 私は頭を抱えつつ、ひとまず起動させてみようとEnterボタンを押した。
 押した瞬間、文字が乱れていき不快な雑音とともにまた黒が画面を覆う。
 やっぱり下手にいじらない方がよかったのだろうか。肩を落としため息をつく。
 一時休戦、コーヒーでも飲んでのらりくらり頑張るとするか。
 椅子を引き、腰を浮かせると同時に何かが視界に入った。
 なんだろうか。目の前にはパソコンしかなく、今はそれも黒しか写さなくて下手したら私の顔が写る。

「え……?」

 顔を上げた瞬間、それ以外声は出なかった。
 否、出せなかった。画面上からいくつものコードが伸びたかと思うとパソコンに繋がれ、目の前から手が伸びていた。
 暗闇からその腕を中心に波紋が広がり、画面が波打つ。ありえない。
 その言葉が頭の中をぐるぐる回り急激に喉が渇き覚えた。手は二の腕まで出て、私の目の前を何か探ってるのか指を動かしている。指が肩をつかんだ。

「ひっ」

 私はそれを払いのけようと後ろにさがると勢いつけすぎ椅子ごと背中から落ちた。
 ダンっと強い音と共に背中にびりびりと電気にあてられたようにくる激痛。腰がぬけた。
 手を使って後退していくが壁に背中があたり逃げ場はない。
 手はいつの間にか両方出ており頭の先が少し見えてきた。
 少し冷静になってきた頭で「ああ、これなんて貞子」とどこか現実逃避をしてみるが、無理だった。
 膝が震え、私は固く目をつぶった。これから来る恐怖に備えるため。
 トンっと軽い音と共にハードが音をたてる。
 私はいま何も読み込んでないはずだ、どういうことだ。
 恐る恐る怖いもの見たさで目を開けると目の前に少女が立っていた。
 顔が整っており、そのへんの女の子より断然可愛く。
 リボンだろうかいったいどのような構造なのかツインテールに結ばれた髪の根の方に結ばれている。
 鮮やかな緑かかった水色、とても現代ではみかけない近未来型の服に見覚えのある姿。
 耳にはヘッドホンだろうか、そこからマイクが伸びており少女は目を閉じていた。

「だ、誰?」

 声を振り絞ると彼女の瞳が見開かれ、まるでいくつもの情報が光となり瞳の中を駆けめぐるように左から右に光が移動していく。
 どこか遠くを見つめる彼女の深緑の瞳に私は吸い込まれそうだ。
 彼女は目をゆっくりと閉じると、USBケーブルが自動で抜けヘッドホンへとまるで掃除機のコンセントのように吸い込まれていく。
 そして吸い込みが終わると彼女はヘッドホンに手を当て、音をとるように「あー、あー」と言い。
 カリカリと音をたてていたパソコンが静かになり、瞳が開いた。

「マスターこんにちは!」

 彼女の、第一声は元気な挨拶と聞きなれない単語だった。
 片手をあげ、嬉しそうに笑みを浮かべている彼女は返事が返ってこないことに口をう? と尖らせその丸い瞳に私を写し「マスター?」と尋ねてきた。

「マ、マスターって……あの主従関係でいうマスター?」

 手を前につき身をのりだし、震える声色で尋ねると彼女はやっと喋った私に手を合わせ女の子らしくキャッキャッと喜んだ。
 そんなに嬉しいことだったのだろうか、大きく縦に首を振り「うん! マスターはマスターだよ」と語尾に音符マークが付きそうな弾んだ声で言う。

「今日からあなたが私、初音ミクのマスターです」

 よろしくねマスター、とヘタリこんでいた私の手を取ると上下にブンブンと効果音がつきそうなほど振った。
 その反動に彼女、ミクのツインテールがリズムにノって揺れる。
 待て、私がいつ何時彼女のマスターとなったと言うんだ。
 それに初音ミク? それは私がつい先ほどまでインストールするのに苦戦していたソフトの名前に酷似している否、まさかそのソフト本体。
 んな、まさかそんな非現実的な。
 目の前がぐるぐる回り、気持悪さと共にフッと電源が切れたように意識を失った。
 次目を覚ました時、そこに彼女がいないことを願いつつ。

「あ、マスター起きた。大丈夫? 気分まだ悪い?」

 まあ、そんなこと無理だったんだが。
 私は頭に柔らかいものを感じ目を開けるとミクのドアップがあった。
 どうやら膝枕をしてくれていたようだ、ミクは私の顔にかかる髪を払い除け笑いかけてくる。
 頬から耳にかけ赤みをおび、恥ずかしさにどうにかなってしまいそうだ。

「あ、あっ、その、ミ、ク?」

 名前を呼ぶとミクは「なーにマスター」と首をかしげ尋ねかえしてきた。
 私は体を起こしミクを正面からまじまじと見つめる。見た目人間、感触も人間。

「マスターこれ何かの遊び?」

 キャッキャッと遊びだと思ったのかミクも私を見つめかえしてくる。
 中身、頭脳は子どもくらいだろうか。
 とにかくだ、いったいどうなってるというんだ。
 こんなファンタジーな、ここ日本だよね。そうだよね。

「マスター?」
「ミク、あのさ。その、ミクはなんで実体化してるの?」

 あなたはソフトウェアでしょ? ミクは困ったように眉を寄せ口元に手をあて「うーん」とうなった。
 ミクにもわからないことなのだろうか。もしそうならば、私はこれ以上詮索はしないつもりで腕を組み息をつく。

「私は、まだ研究段階で、ううん。今は実技テスト中で、あれ、ねえマスター私なんでここにいるの?」

 それはこっちが聞きたいことだ。どうやら本人であるミクもよくわかっていない様子だ。
 でもいくつか不思議な事を言っている。研究? 実技テスト?
 ああ、もうだめだこれは『初音ミク』を販売している会社に問い合わせをするしかないのか。

「ミク、わかんないなら無理しなくていいよ」

 下手したらクラッシュするのではないかと思えるほど悩みに悩む姿のミクに、やんわりと無理しないでと言えばミクは眉を寄せ肩を落とす。

「うぅー、ごめんねマスター。ミク役立たずで」
「いや、気にしなくていいよ」

 私は落ち込むミクの頭に恐る恐る触れて撫でる。
 ミクは驚いたように顔をあげたのち、照れくさそうに微笑みもっと撫でてと言わんばかりに頭をこちらに向けてきた。
 髪の質が人間のようにサラサラだ、もっとアンドロイド的にゴワゴワしているものだとばかり思っていた。
 少し興味が湧き、ミクの頬に触れる。フニフニと年相応の柔らかさに弾力。引き締まった身体にすらりと伸びる足。もし私が男だったらきっと惚れている。

「ミクってさ、かわいいよね」

 だから、なんとなく、本当何気なくそう呟いた。
 ミクは一瞬目を瞬き私を見つめ返していたが、すぐさま自分が何を言われたのか理解したのか頬を赤らめ手をパタパタとさせる。

「え、えっ、えぇー!」

 そして人の限界を超えただろう声色で叫びだした。
 なかなか破壊力抜群の声だ。
 ガラスのコップがその破壊力に振動している。耳がキーンと超音波を感知したように鼓膜が震え、私は慌ててミクの口を手で塞いだ。

「んー、んー!」

 苦しそうにもがくミクに私は片手の人差し指を口元にあて「ミク、シーッ」と言えばミクは落ち着いたのか手を下ろし口を閉じた。
 それに伴い私も手を離すと、ミクは「だって……」と呟き私をじとっとした眼差しで見つめてきた。

「マスターが悪いんだよ。突然変なこと言うから」

 ミクは私を指差すと頬を膨らまし、ぷいっとそっぽを向いた。
 その様がまるで小さな子供のようで私は思わず笑ってしまった。

「ごめんごめん、でも本当のことだからさ」

 ミクはチラリと横目で私を見つめると、「マスターのほうが何倍もかわいいのに」と照れるようなことを言う。
 そしてはたと我にかえるように顔を上げた。

「そういえばマスターの名前は?」

 なにを今更と思いながら、自分だけ相手を知っているのはフェアじゃないよなと思い直しミクの目を見つめ口を開く。

「茜、牧野茜これからよろしくねミク」

 その瞬間、ミクの瞳に光が走り機械的な声で何事か呟いたかと思うと元に戻り。

「うん、マスターよろしくね」

 はにかんだ笑みと共に大きくうなずいた。
 まあ、なんだかんだでやって行けそうな気がする。
 はにかんだ笑みに、こちらまでつられて笑い私はミクの手をそっと握りしめた。
 その後、『初音ミク』製作会社に今回の件を尋ねてみると、電話の窓口でなにバカなことを言っているんだといいたげに応対され、相手にされなかったのは言うまでもない。

080322

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