第1話
暗闇から引き上げられる感覚。夢と現実を行き交う意識のなか、目が覚めた。
枕元に置いていた時計を引き寄せ、時刻を確認するとまだ起きるにはいささか早い時刻をさしていた。
五月十三日の六時四十九分。
この世界に恭介が帰ってくる時間。
男子寮では今頃誰かが叫んでその帰還を周囲に告げてるのだろう。
しばらく布団の中にこもっていると女子寮の廊下からもいくつもの足音と恭介の帰りを告げる声が飛び交う。
あと五分くらいだろうか、鈴が駆け込んでくるのは。
それまでに用意をすべきかどうしようか布団の中でうだうだ考えているとノックもなしにドアが開く。
「理緒! 恭介が帰ってきた!」
「鈴……いつも言ってるけどドアはノックして開けること」
廊下から入る光に目を細めつつ、身体を起こすと鈴は少ししょげており小さく「すまん」と言うとドアを閉めた。
その行動に目を瞬かせていると、一拍置いた後リズミカルなノックと立て続けに一つ大きなドアを叩く音。
トトントットトン、トトントットトン、トトントットトン、トッ、ダンッ。
そのリズムには聞き覚えがあり、某海鮮家族を思い出した。
いやいや、その前にそのドアの叩き方は非常にドアの耐久性を浪費している気がする。
「はいはーい! 開いてますー鈴さんどうぞー!」
このままドアを壊されてはたまらんと勢いよく開けると、待っていましたと言わんばかりに鈴は腕を組み仁王立ちしていた。
「遅いぞ! それに『はい』は一回だと先生に習わなかったのか」
「それ、ある意味そっくりそのままお返しします……」
がっくりとドアに手をついてると、鈴はその横を通り抜け電気をつけた。
その突然の光に私は目を抑え「目がー目がぁー!」と悶えると鈴は私に「馬鹿か」と優しい罵声とともにいつの間にか出していた制服を手渡してきた。
うん、いや突っ込まれるだけ本望だけどね。少し前の鈴だったら心配してくれたのになーと遠い懐かしい鈴を思いつつ制服に腕を通す。
しかし、やけに急ぎ立てるその様子に疑問が生じた。
いつもならば私が準備を終えるまで待っていてくれる鈴が突然ドアを開けてなおかつ制服まで用意してくれるとは、猫の餌であるモンペチのセールの時ぐらいだろうか。
今日久方ぶりに帰ってきた兄の恭介に会えるのが嬉しいのだろうか。そうだったら恭介に言ったらきっと喜ぶだろうな、と考えを巡らせるがきっと本人に言ったところで肯定はしないだろう。
そして鈴が楽しみになのはきっと本人ではなく、持って帰ってきてるであろう"それ"なのだろう。
「用意できたな」
「あいあいさー」
急いで着替え髪を整えた私を見ると鈴は大きく頷く。その時に髪につけた鈴がチリンと一つ鳴った。
「それじゃ、行くぞ!」
その声とともに私の手を取ると、鈴は振り返ることもなく食堂へと一目散に駆けていく。
「わぁ、鈴早いよ! そんな急がなくても大丈夫だよ!」
「猫の助けを呼ぶ声が聞こえた」
「え、この距離から?」
掴まれた手に引きずられつつ食堂入口前まで行くと、そこは開場前の遊園地のようにすし詰め状態だった。
部活動の朝練で集まった人と、恭介が帰ってきたことによる人の波なのだろう。
ここまで人が集まるのは恭介の日頃の人望というやつなのだろうか。
幼いまま変わらない恭介の笑顔を思いだし、考えてみるが答えの出ないそれを考えてもしょうがないとその考えを消し去った。
さすがに人の波に逆らい進むのは容易くなく、鈴は私の手を離すと腕を組み仁王立ちすると大きく息を吸った。
「こらぁー!」
目の覚めるような大声だ。
「我らが鈴さまのご登場だ!」
その声とともに鈴までの道が開けるように壁となっていた人がはけていく。
そしてその中心に立っていた人物に、私は只々間抜けに口を開けるのだった。
中心に立っていたのは幼なじみである謙吾と真人。
その二人が向かい合って戦闘態勢になるのは幼い頃からたびたびあることで、いわゆる『よくあること』だった。
なんせ謙吾は真人のライバルであり、筋肉馬鹿である真人を相手にできる唯一の友達だからだ。
鍛え上げられた筋肉に勝つにはもう、謙吾の竹刀しかないのだ。
そんな二人がだ、己の武器とは違うモノを持ち向き合う姿は滑稽だ。
拳で戦う真人の手には猫が、竹刀で戦う謙吾の手には水鉄砲だろうか。
よく見ると二人の周囲には様々なものが散乱しており、一体全体何があってそうなったのか見えてきそうで見えてこなかった。
ただ一つわかるのは、きっと恭介発案の元なのだろうということだけだった。
鈴は真人の手に抱かれた猫を見つけると、その二人にこれまた大きな声でこういった。
「弱いものいじめは、めっだ!」
確かに猫を抑えてる真人に、それに向けて鉄砲を向ける謙吾はどうみても動物虐待の瞬間にしか見えない。
私が何とも言えない乾いた笑いをもらしていると、鈴は二人の元へと進んでいき双方の顔に睨みをきかせた。
「弱いもの? おまえか」
「えっ、おまえじゃね?」
「笑わせるな」
「その猫だ!」
双方ともに猫のことだとは思わないのか、お互いにいがみ合うがその様子に鈴はしびれを切らし真人の手から猫を奪い取った。
猫も猫で鈴のもとに渡ったことに安心したのか、間伸びた声で鳴きしっぽをゆるゆると振る。
「で、喧嘩の理由はなんだ」
「聞け、鈴!」
一応喧嘩両成敗ということだろう、鈴は二人に問いかけると待ってましたと言わんばかりに力拳を作り謙吾に向き直る。
謙吾はというと、小さくため息をつき私の姿に気づくとこの場に不釣合なほど穏やかな朝の挨拶をくれた。
「コイツがオレに、目からごぼうという嘘のことわざを教えやがったんだ!」
目からごぼう、それは鼻からスイカを出すぐらい痛そうだな。
「おかげで今日何気ない会話の中で、それは目からごぼうだなって使っちまっただろうがよ!」
かなりどうでもいい理由だった。
謙吾は水鉄砲を私に手渡すと自分の足元に置いていた竹刀を拾いあげる。
「目からごぼうってどういう意味だって、おまえから聞いてきたんだろうが。おそらく目からうろこが落ちるのことだろうから急に自体がはっきり理解できることだと答えたまでだ」
「最初からそれをいえよ! なんだよ目からごぼうって!」
そう言って自分の顔を手で覆う真人に、謙吾は一瞥もくれることもなく鈴へと向き直る。
「鈴、これでどっちが悪いかはっきりしただろう」
「んだよ、逃げんのかよ!」
興味が失せたかのように、真人に背中を向ける謙吾に私は自分の手元に残った水鉄砲をみた。
これ、誰の私物なんだ。そしてどうしたらいいんだ。
「待てよ!猫爪で引き裂いて――」
「あ! 馬鹿真人!」
「ふんっ!」
私が呼び止める声と、鈴の足が真人の顔面に入ったのは同時だった。
真人が鈴の腕に抱かれた彼の武器であろう猫を奪おうとして、鈴に蹴りをくらうのなんて容易に想像出来ることだった。
真人は蹴りの威力により後ろにあった机にぶつかり、それは大きな音をたてた。
その音に驚いてか、鈴に抱かれていた猫は腕から逃げ出し私の足元へと擦り寄る。
私は水鉄砲を足元に置き、猫を抱き上げると猫はまるで「ありがとう」と言わんばかりに一つ鳴き頬を舐めた。
ざらざらした猫独特の舌の感触が何とも言えない。
「やりやがったな!」
真人は立ち直るのが早かった。その首こそは曲がっていたがそれも己の力で元に戻し鈴と双方ともに構えあう。
一触即発しかねない空気だ。
「恭介の妹だからって容赦はしねぇ! てめぇら! 武器をよこせ!」
鈴はその声に振り返り、私の中にいる猫を見ると一つ頷いた。
「ここは危険だ、理緒その子を連れて逃げろ」
「鈴さま……!」
まるで戦場にゆく戦士のよう、かっこいい鈴に羨望のまなざしを送っているとその首根っこを誰かに掴まれた。
「馬鹿言ってないで離れるぞ」
その誰かは謙吾で、言われた通りその輪から離れると同時に周囲からは様々な武器になり得るであろう物が投げ込まれる。
バナナの皮やら、膨らんでいない風船やら、各々に手元にあったのであろう物を投げたのがよくわかる。なるほど、それで水鉄砲か。
「あれ? ならこの猫は?」
自分の手元でくつろぐ猫に、誰が放り込んだんだと考えを巡らしているとふと影がおりた。
「それは俺が投げた」
「恭介!」
「よっ」
軽く手をあげて挨拶をよこす恭介に、私はなんと返すべきかと口を閉口させ結論。
その手のひらに向かって一発パンチを当てた。
「この馬鹿恭介! 心配してたんだから……たまにでいいから携帯に連絡してよね」
「悪い、充電が切れててな」
全く悪びれた様子もなく、笑う恭介の笑顔に一応怒っていたこちらも毒気が抜かれ笑い返す。
ところどころくたびれてる制服に、また徒歩で遠くまで行っていたことが見て取れた。一体全体どこに徒歩で就職活動する学生がいるというのだ。
そしてその苦労を買って採用してくれる会社があればいいのだが。
「おはよう理緒」
「おはよー理樹」
恭介の横で、心配げに真人と鈴の対戦を見ていた理樹は私と目が合うと自分と変わらない笑みを浮かべた。
私と理樹はいわゆる一卵性双生児で、ごくまれに生まれる男女の双子だった。
その顔は似ているが、性別という差からか体つきと身長と少しずつ離れていく自分の半身に少し寂しく感じる。
「理樹も言ってやってよ」
「いやいや、僕には無理だよ。それに恭介が決めることだし」
同意を求めるように恭介を見上げる理樹に、恭介は大きく頷く。
「ああ、そうだとも。誰にも俺は止められないぜ」
「……」
「なんだよ、そんな目で俺を見るな」
「はぁ……」
もう何を言ってもダメだこの人。
私の深いため息とともに、謙吾の手が肩を叩いた。
顔を上げると小さく頷く謙吾の姿に、俺に任せておけという安心感が漂う。
「恭介、せめて行く前にどこに行くかくらい教えてやったらどうだ?」
「そう! それ! ほら、よくいつどこで誰と何をするか伝えて行きなさいって言われるでしょ!」
「いつどこゲームか?」
「う、うーん、そうだけどそうじゃなくて……」
確かにそういうゲームはあったけど、ゲームとしてではなくて伝言というか。
どう言えば恭介はわかってくれるのだろうかと、頭を抱えていると胸に抱えていた猫が一つ鳴いた。
まるで元気をだせよと言うかのようなその声。そして私は一つの考えにたどり着く。
「わかった、恭介、一つ約束しよう」
「約束?」
その声に応えたのは理樹だった。私は理樹に頷きかえし、恭介の瞳を見上げる。
「絶対、ここに……皆の元に帰ってくること!」
恭介の目がかすかに見開かれ、謙吾からも息を飲む声が聞こえた。
わかってる、この約束が今の私たちにどれほど酷なことか。いつかは破られることも、だけど今この時だけでいい。
「恭介」
理樹の恭介を呼ぶ声に、恭介は考える素振りを見せながら顔をふせた。
「それぐらいだったら、約束してくれてもいいだろ? 僕としても恭介が帰ってきてくれるって言ってくれるだけで安心できるし」
「……そうだな」
理樹のひと押しに、恭介は頷き私と理樹は顔を見合わせて喜んだ。
それがたとえ、泡沫の約束だろうと。
「それより理緒」
「ん?」
「そろそろ救急箱の用意を頼む」
視線の先にはそろそろ終わろうとしている鈴と真人の勝負。
勝負は鈴の圧倒的有利が見て取れ、真人の手にはもはや粉となったうなぎパイが握られていた。
さすがに三節棍にうなぎパイは勝てないだろう。
「はいはーい、それじゃこの子お願い」
抱えていた猫を恭介に手渡し、私は盛り上がっている食堂を背に保健室へと続く道を走った。
これが、私たちリトルバスターズ六人の繰り返される何気ない日常の一ページだった。
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