鈴の音
少し目を離した瞬間、彼は忽然と姿を消した。
「あれ、亘?」
紗香は鞄を握りしめながら、辺りを見回した。そして、隣の席を見れば下を覗き込み、まだ居るのか確認するが亘はもうすでに帰ったのか机の下には何も無く、紗香は溜め息をつくばかりだった。
ドア近くに立っている、男子に話しかければ男子は亘は先に帰ったことを教えてくれ、紗香は苦笑いを浮かべお礼を言う。
「たくっ、亘の馬鹿め」
眉を上げ、悪態をつくと、紗香は乱暴に鞄を持ち上げ足早に教室を出ていこうとする。それに気づいた宮原は慌てたように紗香の腕を掴み引き止め、紗香は宮原を見れば「どうかした?」と声をかけた。
「岡本、今度また妹と遊んでくれない? 岡本と遊びたいって煩くて」
「うん、私もまた会いたいし宮原の妹ちゃん本当可愛いよね」
両手を合わせ、少し遠くの方を見つめれば紗香の頬は少し赤くなり、目は心なしか輝いている。
宮原は、紗香の言葉に「えー、そうか?」と言うが、その表情は嬉しそうに綻んでいた。
「あ、それでさ妹がこれ岡本にって」
塾の鞄から取り出した一枚の画用紙に色とりどりのクレヨンたち。そこには幼いながらにも一生懸命描いた人間が立っており、笑っていた。そしてバランスの悪い文字に、逆さまになっている文字。
それは見ているだけで微笑ましく、紗香は受けとれば一通り眺め、宮原へと向き直った。
「宮原、妹ちゃんにありがとうって伝えといて」
画用紙を折らないように丁寧に丸め、鞄へと差し改めて鞄を持ち直した。
「わかった、妹も喜ぶと思うよ」
紗香はもう一度お礼を言えば宮原に別れを告げ、教室のドアへと手をかける。
その瞬間、頭の中に音が降ってきた。それは辺りのざわつく音にかき消されずに耳元に届き、鈴の音のように聞こえた。高い音が一度二度、鳴れば紗香は辺りを見回し塾に残っている人をみる。
しかし誰一人、その音に気づく者は居なく一人首をかしげる。
「……変なの」
「何が変なんだ?」
隣から声をかけられ紗香は横を向けば、そこには美鶴が肩に鞄をかけ、美鶴よりか少し背の小さい紗香を見下ろして立っていた。
「み、美鶴、突然出て来ないでよ。びっくりしたじゃん」
「居ようが居まいが人の勝手だろ」
「……確かにそうだけどさー」
紗香は怪訝そうに美鶴を見れば、踵を返し廊下へと出た、そして出口へと向かおうと歩みだせばその後ろを美鶴も無言で着いて来る。
少し早く歩けば同じように歩き、紗香は美鶴を一瞥し、一種のストーカーみたいだと感じた。
「美鶴さーん、何で着いてくるの」
「紗香の行く方向に僕も用事があるからだ」
「あっそ」
このままじゃ埒が明かない、そう感じとった紗香は立ち止まり、道をあけるように壁に張り付き美鶴を見る。
「美鶴さん、どうぞどうぞお先にどうぞ」
「紗香」
「なーに?」
少し不機嫌そうに返事をすれば美鶴は苦笑いを浮かべ、手を差し出した。
「途中まで送るよ。夜道は危ないだろ?」
さらりと恥ずかしげもなく言う美鶴に紗香の頬は赤くほてり、少しそっけなく「ありがとう」と呟き美鶴の手をとれば、美鶴は満面の笑みを浮かべる。
紗香はその笑顔に少し胸が高鳴るが、どことなく感じる違和感に不安が押し寄せてくる。きっと気のせいだ、紗香は頭を振り、不安を追い払い美鶴の横に並び歩きだした。
「それで、さっき言っていた変だって何が変なんだ?」
「え、あ、うん。そのー……」
少し口ごもりつつも先ほど聞いた音のことを話せば美鶴の足は止まり、驚きに目は開かれていた。
紗香は突然立ち止まった美鶴に不思議に思い振り返り名前を呼べば、美鶴は紗香の腕を掴み低い声色で「何回行った?」と尋ねた。
「え、行ったってどこに」
「ビルだ。幽霊ビル、あそこに行ったんだろ?」
「なんで、それを知って…」
「いいから俺の質問に答えろ!」
いつもの美鶴とは比べものにならないほどの余裕の無さに紗香は一瞬たじろいだ。
何がここまで彼を焦らすのだろうか? 何がここまで彼を責めるのだろうか? 紗香はどこか他人事のように美鶴の顔を見た。目を見た。
二つの黒い瞳には紗香の姿が映りこんでいる。しかし、その瞳は紗香を見ておらず誰かを重ねたように訴えかける。
「紗香!」
紗香は自分の名前が呼ばれたことに、体を揺らした。そして二、三度目を瞬かせたのち一拍開け。
「い、一回だよ……通学でよく通るぐらいで入ったのは一回」
それを聞けば美鶴は溜った息を吐き出し、紗香の胸に頭を押し付け安堵した。そして顔を上げれば弱々しく笑みを浮かべ、紗香の腕を離し「ごめん」と呟いた。
紗香は自分の顔に手をあて、そんなに変な顔をしたのだろうかと悶々と考えこんでしまった。
それほど美鶴からの謝罪は珍しいことなのだ。
「紗香」
「な、何?」
顔から手を離し、真っ直ぐに美鶴の顔を見れば、その表情は真剣で紗香は思わず唾を飲み込んだ。
「二度とあそこには入るな」
「なんで」
「……なんででもだ、いいな?」
不服そうに眉を寄せつつも紗香は頷き、その様子をみれば美鶴は安堵のため息をはきだし、紗香の手をとり塾の自転車置き場へと歩みを進めた。
なんだか躾られた妹な気分だ、握りしめられた手を見ながら、そして美鶴の背中を見ながら紗香は思う。
「美鶴お兄ちゃん」
少し、ほんの少しの悪戯心で紗香は美鶴を呼んだ。
きっと何時ものように呆れたような表情で私の方を振り向き、ぶっきらぼうに「なんだよ」って答えて。
しかし、紗香の予想とは裏腹に美鶴は肩を揺らしハッとしたように立ち止まり。そして紗香の方へと振り返る。
その表情はどこか切なげで、眉を下げつつも口元には笑みを浮かべていた、そして、口が動いた。
「――」
その瞬間他の塾帰りの生徒たちが横切り、その声は大きく美鶴の声はかきけされた。しかし、紗香は口の動きにとっさに頭に二つの文字が浮かび上がってきた。
゛アヤ゛
本当にそれであっているのかは確信は持てなかったが、紗香の頭にはその二文字以外浮かび上がってはこなかった。
美鶴は、とっさに口にした言葉にか、口に手をあてそっぽを向く。そして少しした後、後ろを向いたまま「なんだよ」と紗香の予想していた答えが返ってきた。
「ううん、何でもない」
紗香は握りられていない方の手で、美鶴の服を掴めば背中に頭を押し付け息をはきだした。そして、自分の中でうずく気持ちを抑え顔を上げる。
足元には二人を隔てるように線が引かれているようだ。紗香は、恐る恐るその線を飛びこえ、美鶴と向き合う。いつものように笑顔を浮かべ。
「美鶴ー、なになに。紗香ちゃんのお兄ちゃん発言に思わずときめいた?」
おどけたように、次から次へと喋る紗香に、美鶴は頭を軽く小突き吹き出し笑った。
「なんだよ、それ」
「ん、いやいやまるで美鶴がさ、お兄ちゃんみたいでさー思わず言ってみちゃった。みたいな」
美鶴の背中を何度か叩けば、紗香は歩きだし美鶴の自転車を探しはじめ。そして何台か過ぎた所にまだ真新しい自転車が置いてあり、指を差し尋ねれば、美鶴は大きく頷いた。
「美鶴ってあんまり自転車乗らないでしょ」
自転車に鍵を差し込む美鶴の後ろ姿に喋りかければ、紗香は空を見上げた、今夜の月は三日月だ。
「何でそう思うんだ?」
美鶴は鞄を自転車の籠に入れ、自転車のハンドルを握り締めながらそのまま後ろへと歩く。紗香は邪魔にならないように横へ退ければ、自転車はカラカラとタイヤが回りながら出てきた。
「だって新品みたいに綺麗なんだもん」
美鶴は紗香から鞄を受け取り、自分の鞄と同じように籠に乗せそのまま広い道まで押した。
「例えば僕が自転車マニアで綺麗な自転車が好きだったりとか考えないのか?」
「美鶴に限ってそれはあり得ないと思う」
紗香が真顔で答えれば、美鶴は笑みを浮かべ「それもそうだな」と自分自身を笑った。
自転車が広い道につけば、美鶴は跨り、後ろに乗れと紗香を促す。
自転車の後ろには荷台がついており、紗香はそこに跨るように座れば美鶴の腹に腕を回した。
「いいか?」
「うん、準備OK!」
指で丸をつくれば、美鶴はそれを確認し、ペダルに脚をかけ漕ぎ始める。
一瞬、後ろに体がひかれ、紗香は美鶴を掴む腕を強めた。背中に頬をつければ、熱が伝わり、自然と笑みがこぼれる。
リンッと未だに耳に響く音は、胸に落ち、体へと染み込んでいく。
「みつる」
紗香は美鶴の背中に顔を埋め、寄りかかる。力の抜けた、紗香の手に不安になり美鶴は漕ぐスピードを緩め「どうかしたか?」と尋ねれば、途切れ途切れに紗香は「眠い」と口に出し、とろんと下りる瞼を何度も何度も瞬きをし、眠気を追い出そうと頑張るがそれは無に等しかった。
次第に瞼と共に意識は遠のいていき、リンッと一つの音が頭に響いたのを最後に聞いた。
フワリフワリと宙に浮くように軽い体に、紗香は身をゆだねる。
最近見る白い世界、紗香はため息をつきながらも辺りを見回した。夢の外では今どうなっているのか。美鶴には迷惑をかけていないか。そのことが気がかりで仕方なかった。
「人のコよ、いいえ紗香」
女の優しい声が紗香の名前を呼ぶ。紗香は声のする方を振り返れば、そこには人の形をしていない、何かがあった。
しかし、それに対して恐怖心などなく、淡く光るそれに逆に惹かれる。
いつの間にか地につく足で、紗香はそれに近付く。それに手を伸ばし、触れた瞬間、急激の頭痛、吐き気にみまわれ、その場にしゃがみこんだ。
「か、っは」
息苦しさに喉に手をやり、涙でにじんだ目を閉じれば、頬に涙が伝う。
次の瞬間頬に強い衝撃をうけた。それと同時に幼さが残る声色が紗香の名前を呼ぶ。
「紗香! 紗香!」
「……え?」
ボヤける視界に、映える茶色の髪、整った顔、紗香は二、三度瞬きをし目の前にある美鶴の顔に驚いた。
「な、なんで美鶴がここに!?」
「なんでじゃないだろ」
美鶴はため息をつくと紗香の額に手をあて熱をはかる仕草をすれば「どこか痛む所ない?」と尋ね、それに紗香は首を振る。
紗香は体を起こし、まじまじと美鶴の顔を眺めたのちに、自分の体に変な所がないか叩きながら確認していく。
そして確認が済めばホッと息をつき、自分の置かれている状況を考えた。
自分は先ほどまで何を見ていたのか、それを何度となく思い返そうとするが全く思い浮かばず、美鶴を見ればいつの間にか立ち上がっており紗香と目が合えば苦笑いを浮かべ手を差し出す。
「ほら、いつまでも座ってるつもりか?」
「え、あ、ありがとう」
紗香は差し出された手を取り、立ち上がり、自転車が止まってるのを見れば手を叩き思い出したかのように「あぁ」と声をあげた。
「そうそう、私また同じような夢見てたんだ」
「夢?」
美鶴は自転車のスタンドを足で蹴り、上げれば紗香の方を見た、紗香は大きく頷き、次第に思い出す夢の内容を腕を組ながら口に出す。
「確か、人のコとか、何か白い光みたいな、あっ優しそうな女の人の声だった確か」
訝しそうな目で紗香を見つめ美鶴は話に耳を傾けた。
「それで何かそれに触れてみたいって思ってね、触ったら――」
「紗香」
後ろから肩を叩かれ知っている声に紗香は振り返る。そこには桂太が立っており大学帰りなのだろうか、肩に鞄をかけその鞄の内からはノートや教科書が見えかくれしている。
「お兄ちゃん、どうしたの」
「いや、今日紗香塾の日だからな、一緒に帰ろうと思って」
桂太は側にいる美鶴に気づけば、眉を寄せ訝しそうに上から下まで眺め、紗香に尋ねた。
「あ、えっとこちら学校の同級生の芦川 美鶴くん。そして美鶴、こっちは私のお兄ちゃん」
美鶴は頭を下げ「いつもお世話になっております」と言い、桂太は少しキョトンとしたのち、慌てて同じようにならい頭を下げる。
「それじゃ、僕そろそろ帰るよ」
「あ、うん。今日はありがとう、また学校でね」
話を切り上げ、美鶴は籠から紗香の荷物を取り出し渡せば、一度桂太に向き直り軽くお辞儀する。そして、自転車の方へと戻り助走をつけ自転車に乗りその場を去った。
しばらくその様子を呆然と眺めていた桂太は、紗香に服を引っ張られたことにより、はっと我に返り紗香を見た。
「ねえお兄ちゃん、別に私が男の子と遊ぼうがいいでしょ?」
「……まあ、礼儀なってるし、でもな夜遊びはするなよ、わかったな」
「はいはーい、わかってますよ」
紗香は桂太の手を掴み、引っ張りながら笑いかけ、桂太はそれに苦笑いを浮かべ、他愛ない会話を交しながら二人は帰路へと着く。
2007 02/10
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