事件
六月は、何かとジメジメした日が続く。
紗香はシトシト降る雨を憂鬱そうに眺め、窓についた水滴が流れるのを目で追い小さくため息をついた。
「フフフ、今回もダメダメだー!」
腕をうんと伸ばし、脚を放り出す。そして、テスト用紙を隠すように一気に机にへばりつき横に座る亘を見やる。
「どうだった? テスト」
亘は一瞥すると、首を横に振り紗香と同じようにうなだれる。辺りもザワザワと騒がしく、所々、テストの話題で持ちきりだった。
テストというのは塾で二ヶ月に一回の割合で行われる実力テストの事である。毎回そのテストでは宮原がトップにたち今回もそうだと皆が思っていた。
「はい、皆静かにして」
石井先生は、大きな、しかし耳障りにならない程度の音量でざわつく生徒に呼び掛ければ、生徒は皆一斉に静かになり前を向き座る。紗香も体を起こし石井先生に向き直り、密かに手元ではテストを握りつぶした。
「今回も皆よく勉強していて成績も上がっている子が多かったよ」
石井先生は一枚の紙を見ながら喋ると、生徒は少し小さな声でひそひそと喜びを伝えあっていた。
「特に今回は何と芦川君が一位で歴代の中で成績が一番よかった、皆芦川君に拍手しようか」
先生に続き、ちらほらと拍手をする音がし、教室中拍手の音に包まれた。女子は頬を赤らめ、憧れと尊敬の眼差しで美鶴を見つめ、男子は「スゲー」と口々に言いあう。
しかし、当の本人はしれっとした顔をし、特に照れるわけでもなく鼻高々に自慢をするわけでもなく、ただいつものようにそこに座っていた。
「あいつヤな感じ、喜びもしない」
「美鶴らしくていいじゃん」
紗香が拍手する横で亘は頬に手をつき肘をたて膨れたような顔つきで美鶴を見た。
紗香はそんな亘の様子に苦笑いし、拍手を止めれば亘の頭を撫でる。すると、照れ臭そうに手を追い払おうと亘は紗香の手を掴み机に戻した。
「亘ー、そんな機嫌悪そうにしないでよ。ほら、梅雨もさ明けたら夏休みだよ」
紗香は同じように肘をつき笑った。亘はテスト用紙を鞄に入れるとため息混じりに「そうだといいけど」と、言い席を立ち上がった。他の生徒も、テストの結果を聞き終えればそれぞれ好きなように動きだした。
ちらりと、紗香は美鶴の方を向き、亘へと向き直る。出来ることなら二人には仲良くなってもらいたいものだと、口には出さず思えば、先々行く亘の後を追いかけた。
外へ出れば、雨は止んでおり、ただムッとする湿気と黒く渦巻く空だけを残していった。
ことが置きたのは六月最後の週のこと。
その日、いつものように紗香は亘を迎えに行くと、そこには何時もとは違う、何かを待ちこがれている亘の姿があった。
四六時中、笑みを浮かべる亘に少し気持悪さを感じながらも、何があったかは聞かない所、紗香には思い当たるふしがあるからだ。
しかし、カッちゃんには"最近機嫌がいい"ことの理由が検討もつかず、昼休みに三人で談笑をするさいにそのことを話題にあげた。
「亘、チカゴロ、やけに明るいじゃん?」
亘はカッちゃんに尋ねられ、一層笑みを深くし、この夏休みに来る楽しい秘密をうち明けた。
「八月一杯、ルウ伯父さんの所でオレ、バイトするんだ」
紗香とカッちゃんは、それを聞くと手放しに羨ましがった。
「いいなぁ、俺もちょっとぐらい遊びに行かれるといいんだけどなあ」
「私も行きたいー!」
二人で「いいなあ」と、繰り返して言えば、亘は暫く考えたあと手をあわせ「ならさ」と続けてこう言った。
「ルウ伯父さんにきいてみてあげようか?」
亘の言葉に紗香は目を輝かせるが、カッちゃんはちょっと煮え切らない顔をした。
「伯父さんなら、きっとオーケイしてくれるよ」
「うん…たださ、オレんとこは店の手伝いがあるからね」
頬をかき苦笑いを浮かべる、紗香は「大変だね」と適当に相槌をうてばカッちゃんは「毎年のことだし」と椅子の上であぐらを組んだ。
「お盆休みは?」
「そんときは家族旅行。ウチはオヤジもオフクロもあんまし休みとれないから、家族旅行だけはちゃんと行くんだ」
亘は目をパチパチと瞬かせば首を傾げながら尋ねる。
「カッちゃんて親孝行?」
「――って感じぃ?」
語尾を伸ばしながら言えば、三人は笑いだし。そして一通り笑えばカッちゃんは紗香に向き直った。
「紗香んちは、兄ちゃん大丈夫なのかよ」
「お兄ちゃん?」
急に話を振られ、少し考えれば「さあ?」と曖昧な言葉を返すだけだった。
「大丈夫じゃないかな、少しくらい」
どこか遠い目をしながら、紗香は話、フッと影を落とし笑った。
「それに、夏休みぐらいゆっくりさせてあげたいんだ二人とも」
「紗香……」
紗香の家の事情を知っているカッちゃんと亘は、かける言葉が見つからず二人そろって黙りこむ。
そんな二人を見て、紗香は困ったように笑うと机に手をつき勢いよく立ち上がった。
「って事で紗香ちゃんは亘の旅行に同行しまーす!」
手を上げたかだがと宣言すれば、亘は苦笑いし「ルウ伯父さんに聞いてからね」と、水をさした。
そして、三人はまた笑った。
そんなふうに過ごして、六月の末、あと一枚日めくりをめくれば、待望の七月という日のことだった。
「亘ー今日って塾の宿題何ページだっけ?」
「えー? 前の続きだよ」
ランドセルを背負いながら言い合えば、紗香は「そっか、ありがとう」と、ずれ落ちるランドセルを背負い直した。
カッちゃんとは途中の曲がり角で別れ今では二人だけだ。時間も時間なのか辺りに下校する生徒は見当たらず、二人は家までの道を一直線に走っていく。
今日は塾のある日なのだ。その日は決まって二人は家まで競争し、お腹に物を詰め塾へと向かうのだ。
その日も、冷蔵庫を開けお菓子を食べ塾へと行く。紗香は宿題を入れれば宮原をあてに家を出た。
そして隣の家のドアを眺め、一緒に行けないことを悟り、エレベーターへと続く道を行く。
亘の家は、邦子の友達が訪ねて来て居るのか雑談が壁越しに聞こえたのだ。しかし、それもすぐ収まり、先ほどの雑談は無かったように静まりかえる。
その不自然さに気がつくはずもなく、紗香はエレベーターに乗り込み下へと降りる。
そして塾へと続く道を行くと近所で立ち話をしている主婦の姿が目に入ってくる。
何時もの風景に気にも止めず紗香はその横を通り過ぎようとした。しかし耳に入ってきた言葉に思わず足が止まった。
「大松さんのところのお嬢さん、お聞きになった?」
大松さん、お嬢さん、二つの単語が耳に入り、頭の中を駆け巡る。足はその場に止まり、ただ聞こえてくる言葉に耳をかたむけた。
「さらわれてたんですってね、この前あった事件とひょっとして、同じじゃないかって事で訴え出したらしいけど」
「今さらすぎるわよ、警察も目星ぐらいはついてたらいいんですけどね」
主婦の二人は「ねえ」とお互い言い合う。
「そういえばそのせいで、大松のお嬢さん心が、その壊れちゃったんでしょ?」
「中学生なのにね、可哀想に」
紗香は、目の前が真っ暗になった。そして前に夜であった香織の姿が頭によぎる、虚ろな目で、ただその場に佇んでいる香織の姿を。
「あ、あのっ」
それは大松香織って子ですか?さらわれたって本当ですか?今香織さんはどんな状況なんですか?
次から次へと頭に言葉が駆け巡る。しかしその言葉はどれも声として出ることなく、胸にしまわれた。
突然振り返り、声をかけてきた小学生に主婦の二人は目を瞬かせ、変な物を見るような目つきで紗香を見てきた。
何か喋らなくては、そう心が焦るたびに頭の中は真っ白になっていく。
「あ、あの、かすが共進ゼミってどこですか?」
とっさに口から出てきた言葉に、紗香は自分でも驚き、呆れそうになった。
かすが共進ゼミは、今紗香が立っている所では目と鼻の先なのだから。しかし、主婦は丁寧に塾までの道を教え、それに対して頭を下げお礼を言い紗香は塾へと続く道を歩いて行く。
先ほどの主婦の言葉を頭の中で、壊れたテープレコーダーのように繰り返した。香織に何があったのだろうか、紗香の知るかぎりでは心が壊れるほどの何があるかは理解しがたいものだった。
紗香は上の空で足を進めた、その時後ろから紗香の方へ向かって走ってくる足音がしたが、その足音には気付かず。その足音の人と、ぶつかり前のめりに転けた。
「いったあ……」
少し涙目になりつつ、上体を起こし、後ろを振り返りぶつかってきた人物をみた。
「亘?」
振り返った先には、同じように尻餅をつき座り込んでいる亘の姿がある。紗香は不思議に思い立ち上がると砂を払い落とし亘の元へと駆け寄った。
「亘、どうかしたの? 私とぶつかって痛かった?」
紗香はしゃがみ、亘の顔を覗きこみ、視線を合わせるが意識は他所にいっているのか一向に動く気配がなかった。
痺を切らし紗香は手の平を開き勢いをつけると、そのまま亘の頬を叩いた。叩く瞬間、ヒュッと風をきる音と、空気の乾いた音が二人を包んだ。
道行く人は何事かと振り返り、子供だとわかれば安易な考えを思い浮かべまた歩みだす。
亘はというと、叩かれた瞬間、肩があがり、瞬きをし顔をあげた。
「紗香……?」
間の抜けた声に紗香は大きくため息をつけば、立ち上がり腰に手をやり胸をはった。
「そうよー、紗香ちゃんですよ! たく、亘ってばどうしたの」
見下ろし目を合わせれば、亘は顔をうつ向かせた。そして口ごもりながら膝を抱えた。
「か……りさ……が」
紗香は耳を傾け亘を見やった。
「香織さんがどうかした?」
膝を抱えてうずくまる亘を抱きしめれば、耳元で囁くように声をかける。そうすれば、亘はすがりつくように紗香の服を握りしめる。幼い頃から繰り返し行なっていた行動だ。
きっと亘も香織さんの事を聞いたのだろう。亘は香織さんの事を一番気にかけていたのだから傷ついて当然だろう。しかし、理解した所で紗香にはどうする事も出来ないのだ。慰めることしか。
「紗香……聞いた?」
「うん、香織さん心が壊れちゃったんだよね」
小さな子どもをあやすように、頭を何度も何度も撫でる。すると、亘は安心したように服を掴む力が緩む。
「僕、胸が苦しくて悲しくなって」
「うん」
涙混じりの声が胸の中から聞こえてくる。時折鼻をすする音も聞こえ、紗香は亘の頭に顔を埋めた。
「わからないんだ、僕は知りたかった、でも知りたくなかったっ」
しゃっくりをすれば、亘はまた服を握りしめた。紗香は頭から顔を離せば亘の指を一本一本服から離せばそのまま指を絡めていく。
「うん、私もだよ」
向き合えば、亘は目に涙をため鼻水を垂らしながらしゃっくりをあげていた。紗香はその姿に「ふふ」っと吹き出し笑えば亘の額と自分の額をくっつきあわせる。
「ねぇ亘、私のおもちゃが壊れた時の覚えてる?」
「オルゴっ、ルの?」
「うん、それ。その時さ、親に見せたらいいのに二人で直そうって頑張ったじゃん?」
「う、ん」
「あの時言った言葉覚えてる?」
額を離せば、紗香は満足気に笑みを浮かべ亘の頭を撫でた。しゃっくりをしている亘は時折体が弾み、恥ずかしそうに口に手を当てるが一向に止む気配がない。
「壊れてなおせないモノなんてないんだよ、時間がかかってもいつかは元に戻るから」
亘は、その言葉を聞けば薄く笑みを浮かべ手を強く握った。
「そうだね」
「そうだよ」
お互い言い合えば二人は同時に笑いだし、一瞬辺りは笑い声に包まれた。そして二人は立ち上がり、砂を叩けば、亘はハンカチで涙を拭き取り照れ臭そうに笑った。
「よ、しなら塾へ行こう!」
紗香は拳を大きく上に突き上げ、亘の手を取り歩きだした。亘は引きずられつつも後を追いかけ、いつもと変わらない紗香の様子に笑みを浮かべたが、すぐ気難しい表情を浮かべた。
紗香は、亘のそんな様子に気づくはずもなく。強く握り返す手に、微かな違和感を感じるだけだった。
2007 01/03
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