おかしい。今日は絶対に定時で帰るつもりだったのに。
何で私は、こんな時間の電車に乗っているのか。

降りる駅が近づいてくる。足踏みを始めそうな勢いでドアの目の前に立っていた私は、それが開いた瞬間外に飛び出した。同じく残業帰りと思われるおじさん達を追い越して、改札を抜ける。
早足で歩きながら見た腕時計は、あと20分足らずで日付が変わることを示していた。5分ほど歩けば家に着く。だけどそれからすぐ万事屋に向かったとしても、到着する頃には日付は変わってしまっているだろう。

明日は彼の誕生日という、とてつもなく大事な日だっていうのに。
本当なら今頃はもう一緒にいるはずだったのに。

どうしよう、とりあえず電話したほうがいいかな。考えてるうちにアパートに着いた。階段をできるだけ静かに上がり、自分の部屋へ一直線。鍵を開ける少しの手間さえもどかしい。
ドアを開けると同時に玄関に駆け込み、手探りで電気のスイッチを押す。のんびりとついた蛍光灯が照らした部屋の奥で、何かが動いた。誰かいる。
得体の知れない人影に悲鳴をあげそうになったが、寸でのところでそれを飲み込んだ。あれ?と思いながらよく見てみる。やけに見覚えのあるその人影が、玄関まで歩いてきた。

「……銀ちゃん?」
「おーおかえり」
「た、ただいま」

緊張が解けると同時になんだか力が抜けてしまって、その場に座り込みそうになるのをなんとか抑えた。そんな私に、銀ちゃんは不思議なものを見るような目を向ける。そんな顔したいのはこっちのほうだ。

「どうやって入ったの?」
「鍵。くれただろ、いつだったか」
「あそっか忘れてた。銀ちゃん全然使わないから」
「まーな」
「で、何で電気つけてないの」
「いやービックリさせようかと思ってよォ」
「ビックリしたよーもー!」

泥棒かと思って、悲鳴あげながら全力で走り去る準備してた私は何だったんだ。自分の考えてたとおりに悪巧みが成功した銀ちゃんは、ニヤニヤと憎たらしい顔。

「つーか何、こんな時間に駅からひとりで歩いて帰ってきたわけ」
「そうだよ。歩いてっていうか小走りだけど」
「あぶねーなオイ。呼べよ」
「いつものことだし」
「メシは?食った?」
「ううん。まだ」
「チャーハン作ったから食おうぜ」
「え、ほんと?大好き!」
「オイオイやめろよ照れんだろーが」
「ごめん今のはチャーハンに対しての大好き」
「ふざけんなバカヤロー」

どうりでいいにおいがすると思った。台所に走ると、きちんとラップがかけてあるチャーハンが二皿。
必死すぎて忘れてたけど、私ものすごくおなか空いてるんだった。それを見てさらに空腹感が増す。だけど同時に、罪悪感もこみ上げてきた。
早めに帰るねって言っときながらこんな夜中まで待ちぼうけくらわせて、チャーハンまで作ってもらって、おまけにいつもの感じで憎まれ口まで叩いてしまった。お誕生日様に何やってるんだろうか、私。

「…銀ちゃん。あのさ」

リビングにいる銀ちゃんの傍まで戻って、声をかける。それに反応した彼が顔を上げて私を見た。その瞬間だった。

――ピピピピピッ

電子音が、大音量で部屋に鳴り響いた。まさかそんなことが起こると思っていなかったであろう銀ちゃんが、わかりやすく驚いてあたりを見回す。
私はといえば、そろそろだろうなとなんとなく思っていたから、特にビックリすることもなく床に置いていた鞄から携帯電話を取り出し、音を止めた。
「お前かよ!びっくりすんだろーが!」と非難が飛んでくる。さっきわざわざ暗闇の中で佇んで私をビックリさせたのは、どこの誰だっただろうか。

「ごめんごめん」
「なに、電話?」
「アラーム」
「アラームだァ?なんでこんな時間に…」

そこまで言って、銀ちゃんは口を閉じた。彼の目線はテーブルに向けられている。そこに置いてある時計は、10月10日午前0時を指していた。つまり、そういうことだ。

「銀ちゃん」
「…ハイ」
「お誕生日おめでとうございます」
「あ、これはどうもご丁寧に」

あらためて向かい合い、深々と頭を下げあった。90度のお辞儀。たぶん端から見たらちょっと面白い光景になっているに違いない。同じタイミングで頭を上げて目が合って、少し笑いあう。

今日は銀ちゃんが生まれた日。ひとつ歳をとる日。こうやって、毎年この日を迎えて、銀ちゃんは少しずつオッサンに近づいていく。きっとシワだって増えていく。でも、それでいい。

なんだか胸がいっぱいになって、勢いで抱きついた。生まれてきてくれてありがとう。小さな声で呟いて、広い背中へと回した腕に力をこめる。
突然のことに銀ちゃんは少し驚いたみたいだったけど、何も言わずされるがままだ。

「…本当は定時で上がって、すぐ万事屋に行くつもりだったの」
「おう」
「遅くなっちゃってごめん」
「いーよ別に」
「そのかわり今日は一日中付き合うから!銀ちゃんのやりたいこと全部やるからね」
「マジでか。そりゃー楽しみだ」

本当に嬉しそうな声でそう言ってくれるから、こっちのほうが嬉しくなる。背中に回してた腕を思いっきり伸ばして、頭をぐしゃぐしゃと撫でまわし、体を離した。
ずっとこうしていたいのは山々だけど、そろそろおなかが限界だ。

「チャーハン食べたい」
「そーだな。食おうぜ」
「冷めちゃってるかな。あっためようか」
「あ、その前にちょっと」
「ん?」
「目ェ閉じて」

ものすごーくわかりにくいながらもちょっと恥ずかしそうなその表情に、ニヤけそうになるのを頑張って堪える。

「なんで?」
「…なんでもだよ、いいから閉じろっての」

理由なんてわかってるくせに訊ねる私も、チャーハンを食べ終わるまで待てない銀ちゃんも、どっちもどっち、いくつになっても青いまま。
いつまでたっても閉じない私に焦れた手のひらが、ムリヤリ両目を覆い隠すものだから、ついに私の口は弛んでしまったのだった。


20XX.10.10

- ナノ -