少し前から通い始めた居酒屋がある。無精髭のおやっさんが店主を務める小さな店だ。
初めて来たのは、彼氏が浮気をしてるんじゃないかと疑い始めたとき。二回目はそれが確信に変わったとき。
そして三回目は、彼氏との関係を終わりにしてきた今日。


「おやっさーん!いつもの!」


カウンター席に座り、それだけ言って机に突っ伏した私におやっさんが白い目を向ける。見えないけどたぶん向けてると思う。おやっさんの呆れた表情は容易く頭に浮かんだ。


「いつものったって…アンタ毎回違うもん頼むだろ」
「いーからいつもの!」
「ったくしゃーねえな」


ハアア、とわざとらしくため息をついてから、おやっさんが立ち上がった。カチャカチャとグラスの音がする。
目をつむってその音に集中していると、頭のすぐ近くにグラスが置かれた。ゆっくりと起きあがる。おやっさんがくれたのは、ここに初めて来たとき最初に頼んだものと同じお酒。
それを喉に流し込んで、勝手によみがえる思い出したくもない思い出と一緒に飲み込んだ。


「男なんてさ…男なんて…。知らねーよバカヤロー!」
「荒れてんなァ。なんかあったか」
「聞いてくれる?彼氏にさ、二股かけられてたんだよ。最初っから二股だったんだよ。とんでもないよホント」
「そりゃー悪い男に捕まっちまったもんだ」
「でしょー……ん?」


おやっさんと話してるものだと思ってたけど、よく聞いたら声が違う。隣の席にさっきまでとは違う感覚を覚えて見てみれば、いつの間にか知らない男が座っていた。
見た感じ若い男だ。髪は白いけど。面識は、たぶんない。


「アンタだれ」
「まあまあまあ飲みなさいよまあまあまあ」
「飲みなさいよってそれ私のお酒なんですけど」


私のグラスに半分くらい残っていたお酒を、その変な男が勝手に飲み干した。そしておやっさんに、今のと同じやつ二つ、と勝手に頼む。なんなんだ。
おやっさんが置いたグラスの片方を手に取り掲げる男につられて、私もグラスを取る。その二つがぶつかると、カツン、と小さな音が鳴った。


「かんぱーい」
「…乾杯…」
「アンタ、なんか鬱憤たまってんだろ」
「え?ああ…まあ」
「こうやって居合わせたのも何かの縁だしよォ」
「はあ」
「よかったら話聞くぜ」
「……」


なんで急にそんなこと言うんだろうって思った。初対面なのに。それとも小さな居酒屋だったら、こんなアットホームな感じの出来事は日常茶飯事なのか。
誰かに話を聞いてもらいたかったのは事実だ。聞いてくれるって言ってるんだからお言葉に甘えてしまえばいいじゃない。どうせもうこの男に会うことなんかないだろうし。

変な男だと警戒しながらも、私の口は動いた。
一歩踏み出してしまえば、言葉は次々と洪水みたいに流れ出す。思ってた以上に、私は話し相手を求めていたみたいだ。この男が意外に聞き上手だったせいもあるかもしれない。

粗方話し終えた私は、残ってたお酒をグイッとあおった。空っぽになったグラスを掴む手に思わず力がこもる。
それを見る男の表情は、薄笑い。


「あー思い出したらイライラしてきたァァ!」
「いいストレス解消法教えてやろうか」
「うん。なに?」
「ここに電話番号書いてみ」
「私の?えーと090の…」


差し出されたメモ用紙に途中までペンを走らせて、ふと手を止める。


「…なんで?」
「この紙俺が持って帰るから」
「だからなんでだよ」


ポイッとペンを放り出した私を見て、隣の男が顔をしかめる。そーいう顔したいのは私のほうなんですけど。


「なんだよ不満か。じゃあ今からウチ来る?すぐそこだし」
「じゃあって何。爆発してください」
「ウチ来るのが嫌なら、電話番号」
「無理です。消えてください」
「ワガママばっか言うんじゃねェェェ!いいから電話番号教えろコノヤロー!」
「どこがワガママよ!おやっさーん助けてェェェ!変態が絡んでくる!」
「おやっさん呼ぶのは卑怯だろーが!」


なんかほんと私って男運がないのかもしれない。
どうすればこの場を逃れられるのか。思案に暮れる、25時。



夜半攻防



坂田と名乗ったその男に電話番号の紙を渡したのは、それから二週間後のこと。
実は以前から私のことを知っていたと聞かされたのは、さらに三ヶ月あとのこと。


7.20

- ナノ -