今日は朝から散々だった。
せっかく作った味噌汁を床にぶちまけ、遅刻しそうだったから片付けが途中のまま家を出て、昨日の雨のせいで出来た水たまりの水をタクシーに引っ掛けられ、上司に理不尽なことで長々と叱られ。
満身創痍になりながら仕事を終え、会社を出たのは定時を何時間も過ぎてからだった。しかもサービス残業。やってられない。
のろのろ歩きながら携帯電話を取り出す。万事屋の番号を呼び出して発信ボタンを押したけど、コール音が虚しく響くだけで誰も出ない。十回コール音を聞いたところで終話ボタンを押して、携帯電話を鞄の中に突っ込んだ。


「声、聞きたかったな」


ぽつりと呟いた声が、人気のない道路に溶ける。こんな最悪の日だからこそ顔が見たかった。せめて声を聞きたかった。
ああもう本当に嫌になる。勝手な上司も、ちゃんと上手に出来ない私も。そのくせすぐ彼に甘えようとして。なんで、いつまでもこうなんだろう。じりじり喉が熱くなって、頭にあてた手で髪の毛をぐしゃりと握りしめ、俯く。


「…ナマエ?」


細い三日月の頼りない光に、ぼんやりと浮かぶ人影。私の名前を呼ぶその影を視界に捉えた瞬間、涙がこぼれそうになった。


「やっぱりナマエじゃねーか。何やってんの」
「…ぎ…」
「暗くて危ねェからこの道通んなっていつも言ってんのに」
「銀ちゃんんんん!」
「うお、なに?」


思わず抱きついた。驚きながらも背中に回してくれる腕があたたかい。少しだけ甘い、銀ちゃんの不思議なにおいを肺いっぱいに吸い込む。


「なんだよ、どした?」
「さっき万事屋に電話したんだよ」
「マジでか。ごめんごめん、お前んち行くとこだった」
「なんで」
「たまにはメシでも作ってやろうかと思って。最近仕事忙しいっつってたし」


優しいだろ、惚れ直した?軽い口調でそんなことを言いながら背中をポンポンと叩いてくれる。たったそれだけのことで、体中が安心で満たされて楽になる。なんでそんなに、私が望んでることわかっちゃうんだろう。


「そんな優しくされたら泣いちゃうんですけど」
「泣けばいーじゃん」
「やだ。やだけど、もうね、なんかもうダメなの。何やっても」
「うん。どうした」
「あのさ、それがさ。朝から床に味噌汁ぶちまけて、しかもまだそれ片付け終わってなくて、タクシーに水は引っ掛けられるし、上司に理不尽なことで長々と叱られるし…あああもォォォォ!」
「あーあー落ち着けって」


思い出したらまた嫌になってきた。座りこもうとする私を阻止した銀ちゃんに、腕の中に閉じこめられる。さっきよりも強くなった腕の力。しばらくもがいたものの無駄だと悟った私は、おとなしく動きを止めた。目の前の胸に顔を押しつける。


「…情けない。全部ちゃんと上手に出来ない自分が」
「……」
「銀ちゃんにも、甘えてばっかりでごめんね」
「…ばーか」


少し体が離れたかと思えば、顔を上に向かされる。一度目が合ってしまえば逸らせない。


「別に全部上手に出来なくてもいいし、甘えたっていいし。何のために俺がいんだよ」
「でも」
「ナマエが頑張ってることは俺が一番知ってるっつーの」
「銀ちゃんが…?」
「そ。だから、大丈夫。大丈夫だから」


優しい指が目元を拭ってくれる。いつのまにか私は泣いていたらしい。銀ちゃんの言葉は心にじわじわと染み入って、全身に巡る。そっか、そうなんだって、素直に思える。
私はたぶん、こうやって誰かに認めてもらいたかったんだ。頑張って走ってるつもりでも転んでばっかりで、もう前も見えなくて、それでもちゃんと進んでるんだって。だから大丈夫って、安心したかった。
余裕なんかどっかにいっちゃって、自分自身でさえわからなくなってしまってた心の奥底。そんなところまで、見透かされてしまう。引っ張り出されてしまう。銀ちゃんはいつだってそうだ。


「お前明日休みだろ?」
「うん」
「たっぷり甘やかしてやっから覚悟しとけ」
「…ありがとう、銀ちゃん」
「それにさァ、やっぱりどーしても無理ってなったら、仕事辞めて荷物まとめて俺んとこ来れば?」
「え」
「お前ひとり増えるくらい大丈夫だし、ウチは」
「…それって、あの」


プロポーズ的なものとか思ってしまってもいいんですか。そう聞きたかったのに、みなまで言うなよ、と銀ちゃんに先手を打たれた。
何も言えなくなってしまって押し黙ると、言葉を封じこめるみたいにまた抱きしめられる。今この世界には私たちしかいないんじゃないか、なんて思ってしまうくらいここは静かで、呼吸の音まで聞こえそう。
銀ちゃんの肩の向こうに見えた夜空には、たくさんの星が光っていた。繁華街からは少し外れているし、今夜は月の光が弱いから星も見えやすいのかもしれない。こんな空を最後に見たのはいつだったかな。そういえば私、最近は空を見上げる余裕さえ無くしてた気がする。


「とりあえず帰ろうぜ。腹減っただろ」
「うん。減った」
「なに食いたい?」
「えーとね、チャーハン!」
「お前はホントお手軽な奴だよな」
「いいじゃん別に」
「ま、着いたらまずは例の味噌汁片付けるか」


家に帰ったら味噌汁まみれの床を掃除して、銀ちゃんが作ってくれたチャーハンを食べて、狭いベッドでくっついて寝よう。明日の朝ご飯は私が作るよ。お昼は何か美味しいものでも食べにいこっか?
ささくれだった心が溶けていく。まるくなる。隣を歩く人の手に触れれば、強く握ってくれた。それだけで私はもう、大丈夫だ。


5.16

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