「坂田先生って素敵ですよねー」


昼休み、私の後輩にあたる先生と給湯室で一緒になった時に言われた。突然の言葉に驚いて思わずインスタント味噌汁の容器を落としそうになる。独り言かと思ったけど、彼女の目はしっかりこちらを見ていた。私に話しかけているみたいだ。あまり盛り上がりたい話題ではないし、いまいち上手い返しも浮かばないから、適当に返事をしてみる。


「そうですかね?」
「そうですよー!優しいしカッコイイし生徒にも人気だし。スーパースターみたい」
「…そうですかね…?」
「ちょっと頑張っちゃおうかな、私」


可愛い笑顔を残して彼女は出ていった。ポットのお湯を注ぎながらさっきの言葉を反芻する。優しくてカッコよくて生徒に人気。間違っちゃいないと思うけど、何だろこの違和感。
彼女が言うような、完璧超人なスーパースターのイメージとは少し違う気がするけど、彼は確かに魅力的な人だと思う。でも私は、坂田先生が苦手だ。




「遅くまで頑張るねェ」


外は真っ暗、すっかり人がいなくなった職員室。一人で机に向かって黙々と仕事をしていると、坂田先生に声をかけられた。ペンを止めた私の隣の席に腰を下ろす。まだ残ってたのか、もう帰ったと思ったのに。彼に見られてる。そう思うと意識してしまって上手く手が動かない。


「なに?授業の準備?」
「そうです、明日の」
「もう遅ェんだから家でやりゃあいいのに」
「家ではだらだらしたいんです」
「だらだらとかするんだ」
「そりゃーしますよ」
「俺も俺も。家ではだらだらだらだら」
「そんな感じですよね」
「だろー、ってオイ」
「あ、ごめんなさい」


まだ帰らないのかな、坂田先生。目を合わせないままそんなことを考える。本当はもうほとんど準備は済んだから、私も帰ろうと思えば帰れる。でも、彼が隣にいては動けない。
私は坂田先生が苦手だ。それと同時に、気になってもいる。もしかしたら好きなのかもしれない。だからこそ苦手なのだ。好きと苦手は、私の中で同時に成り立つ。彼を目の前にすると緊張して上手く話せなくなる。そこから生まれる苦手意識。話すことで変な印象を与えたくない、そうなるくらいなら関わらないほうがいい。
それなのに。坂田先生はそんな気持ちも知らずに、私の領域にどんどん踏み込んでくる。いや知らないのはそりゃ当たり前なんだけど。これ以上私が挙動不審になる前に解放してほしい。だけど私の願いが届く様子はなく、そうそう、とのんびりした声を彼が上げた。


「頑張ってるミョウジ先生にプレゼント」


机に置かれたのは、紙パック。恐らく購買の自販機で売っているものだろう。彼もよくそこで買ったいちご牛乳を飲んでいる。ただ、今ここに置かれたのはいちご牛乳ではなくココアだった。ココアを見つめたあと坂田先生に視線を移すと、「いつも飲んでるだろ、それ」そう言って笑う。


「…頂いちゃっていいんですか?」
「どうぞ?」
「ありがとうございます」


机に置かれたパックを手に取って見つめる。親指で撫でる。それは確かに、私がいつも好んで飲んでるココアだった。何でそんなこと知ってるんだろ。浮かんだその疑問はすぐに消える。そう、坂田先生は優しいから。私だけ特別なわけじゃない、そうやって自分に言い聞かせる。傷つかないために。


「な、そろそろ切り上げねェ?送ってくから」
「いやいやお気持ちだけ頂いておきます。申し訳ないですから」
「俺が送っていきてーの。一人じゃあぶねーだろ」


優しい声、優しい言葉。あの先生にも同じことを言ってるのかな。モヤモヤと黒い影が姿を現す。だから勘違いするんじゃないか。そんな勝手な気持ちが一瞬浮かんだ。勘違いって、誰が?彼女が?違う。勘違いしてるのは、私だ。
いつだって坂田先生は優しい。でももうやめてほしい、中途半端に期待させて振り回すのは。そんなこと言う権利なんか私にはないってわかってるのに、衝動的に口を開いてしまった。


「…ひとつ、言いたいんですけど!」
「ん?」
「坂田先生は優しすぎです。それはすごく素敵なことだとは思うんですけど、でもあの、みんなに優しくしてると無駄な誤解も生まれるというか、あの」
「……」
「…すみません。失礼なことを言って」
「いや」


どうしてこんな言い方しかできないんだろう。可愛いげのない自分にうんざりする。きっとこれでもう嫌われた。やっぱり、欲張らずにこっそり思っているだけの方がよかったんだ。嫌われてしまうくらいなら、そっちの方が。
そんな後悔をしている私の隣で、特に怒ったり傷ついたりした様子もなく目線を下げる坂田先生。しばらく何か考えるように黙ってたかと思うと、スッキリした表情をこちらに向けた。


「なるほどな、そーいう風に思われてたわけか。どうも手応えねーなと思ってたら」
「え?」
「俺ァ誰にでも優しいわけじゃねーよ」
「優しいですよ」
「わかった。じゃあ今度からもっとわかりやすくやるわ」


一人納得した顔で立ち上がる坂田先生を、訳がわからないまま見つめる。そんな私を見た彼は小さく笑った。


「つーことで。とりあえず帰ろうぜ、送ってく」
「え、いやあのだから、結構で」
「暗くて危ねーし。ってのは建前でー、もっと二人で話したいだけなんだけど」


サラッと落とされた言葉を、私の耳はしっかり拾う。それをどういう意味で受け止めればいいのかと硬直したまま考えてると、さっさと帰る準備をしろと怒られ、なぜか言われるがままに急いで机の上を片付ける。上着と鞄を持ち、最後にココアへと伸ばした私の手の上に、彼の手が重なった。またもや硬直する体。ギギギ、と音が聞こえてきそうなくらいぎこちない動きで、なんとか顔を彼のほうへと向ける。


「あれ、これってセクハラになる?」
「…どうなんでしょう」
「一応言っとくけどな、誰がいつも何を飲んでるかなんて知らねーよ?興味もねーし」


ミョウジ先生にしか、興味ねェ。
耳にやわらかく響く囁き。重ねられた手のひら。きっと私はもう、彼の視線から逃げられない。


4.23

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