そっと鍵を開け、音を立てないように玄関の戸を開く。カレーの匂いがした。
廊下をそろそろと歩き、キッチンに通じるドアを少しだけ開いてみる。愛しの新妻はこっちに背を向け、鍋をかき混ぜながら何やらぶつぶつ呟いていた。

…一人で何喋ってんだ?

頭の中にハテナマークを浮かべつつ俺の奥さんもといナマエのすぐ後ろまで近づいてみる。鍋をかき混ぜていたお玉を置き、ナマエは右手を口元に当ててホホホと笑った。


「やだわ〜もう奥さんってば!」


そしてまたホホホと笑う。ホホホってお前。いつもそんなセレブみてーな笑い方してねーだろ。


「うちの旦那もねェ、こないだね…」
「俺がなんだって?」
「うおっ!銀ちゃん!」


後ろから声をかけると、ナマエは勢いよくこっちに振り向いた。目を丸くして俺を見た後、ヘラッといつもの笑顔を見せる。


「おかえりなさい。今日は早かったね」
「まーな。つーかお前、さっきから一人で何言ってんの」
「え、ご近所付き合いの練習」


…へー、そう。こいつとはもう何年もの付き合いになるが、いまだに時々行動を理解できない。


「じゃあ、アナタ」
「アナタ?」
「ご飯にする?お風呂にする?それとも、私?」


にっこり笑って首を傾げる。突然なんだと思いつつ、ちょっとときめいてしまった。


「…じゃ、お前で」
「わかった、ご飯ね」
「オイイイなんでだよォォォ」
「お風呂まだ沸かしてないし私お腹すいたし」
「じゃあ聞くんじゃねーよ、俺すっげー恥ずかしいだろうが」
「可愛い奥さんの練習だよ」


ああそうだな、昔からお前よく言ってたよな。練習でできないことが本番でできるものかってな。
とりあえず着替えておいでよ、と言われ自室に向かう。着替えて居間に戻ると、もう食卓の上は準備万端だった。


「あ、銀ちゃん冷蔵庫からお茶とってきて」
「へいへい」


麦茶の入った容器を持って椅子に座る。二人揃って手を合わせ、いただきますをちゃんと言ってから、カレーに手をつけた。
特に決まりを作ってるわけじゃねーが、晩飯の時にお互いどんな一日だったか話すのが日課になっている。お互いというか、主にナマエが話している。話したくて仕方ないらしい。昔から喋るのが好きだから、こいつは。


「今日はね」
「んー」
「郵便局行ってー病院行ってー」
「は、病院?なんで。風邪でもひいたか?いっつも腹出して寝てっから」
「え、嘘。でも私起きた時いつもちゃんと布団被ってるよ」
「俺が被せてやってんの」
「マジでか。ありがとう」
「おー。で、大丈夫なのかよ」
「うん、別に。そんでねー晩ご飯の買い物して帰ってきた。アイス買ってきたよ」
「マジでか。何?」
「あずきバー」
「イエー」


テレビから時折笑い声が聞こえる。何やらバラエティの特番をやってるようだ。おっあの娘カワイイな、とグラビアアイドルを指して言えば、若手俳優を指してあっあの人超イケてる惚れそう、と返された。負けず嫌いなのも昔から。


「…そろそろさ、練習始めなきゃ」


テレビを見ながらぽつりと呟いた言葉に、俺は少し手を止めて彼女を見る。そしてラッキョウに手を伸ばした。何か口元が緩んで見えるのは気のせいか?


「今度は何の練習だよ」
「子どもをあやす練習とか」
「…それはまだ当分必要ねーだろ」
「そんなことないよ」


ラッキョウを噛む口が思わず止まった。正面に目をやる。きらきら光る瞳が俺を見ていた。


「今日、病院行ったって言ったでしょ?」


…マジでか。マジです。
ガタンと音を立てて立ち上がり、銀ちゃん変な顔〜と笑う彼女を抱きしめた。

明日、たまごクラブ買いに行こう。


1.24
title:メソン

- ナノ -