なんだか幸せな夢を見ていた気がする。私の髪を撫でる優しい感触。沈んでいる意識の中でも、それだけはちゃんとわかる。
ずっとこうしていてほしい、と思ったそばから頭の上のぬくもりが離れていく。その寂しさで、目が覚めた。

丸めていた背中を起こす。視界はまだぼんやりと霞んでいてよく見えないし、なんだか暗い。そして、痛いくらいに静かだ。寝ていたことは覚えているけど、眠る前にどこで何をしていたのかいまいち思い出せない。
左方向から妙に明るい光を感じて、無意識にそちらへ視線を向けると、窓の外に真ん丸の大きな月が見えていた。あれ?疑問を感じながら、正面に向き直る。

「おはようございます」

薄暗い空間、目を擦ってみれば、月明かりに照らされているのはよく知っている人だ。

「…え?赤葦くん?」
「赤葦です」
「あれ…?ここどこ」
「ナマエさんの教室ですね」
「何やってんの、部活は?」
「もうとっくに終わりましたよ」
「うそ!?うわ外暗っ!」

だんだんとハッキリしてきた意識の中で、ここが学校の教室だと知る。そして男子バレー部の練習も終わっているような時間だと知る。
今何時か確認しようと机の上に置きっぱなしだったケータイを手に取ると、ランプがピカピカと点滅していた。不在着信と、メール受信のお知らせ。

「俺にメールしたでしょう」
「うん。した」

そう、やっとはっきり思い出した。

教室で勉強してる。時間かぶったら一緒に帰ろ。

それが、私から赤葦くんへ送ったメールの内容だ。家に帰ったらだらだらしちゃうし、あわよくば部活終わりの赤葦くんと一緒に帰れたらいいなと思って、残って勉強してたんだった。なんせ受験生だし。いつの間にか爆睡してしまってたみたいだけど。

「メールしても電話しても返事がないから、まさかと思って来てみたらそのまさかですよ」
「…あ、あはは」
「笑って誤魔化してもダメです」

呆れたようにため息をつく赤葦くんは、いつものことながら年下とは思えない。その落ち着きはお父さんのようですらある。そんなことを本人にポロッとこぼして、お父さんじゃなくて彼氏です。って怒られたのはついこの間のことだ。
これ以上呆れられるのは避けたくて、口のまわりをごしごし擦る。バレないようにしたつもりがしっかり気付かれて、不審な目を向けられてしまった。

「何やってるんですか」
「ヨダレ垂らしてなかったかなと思って」
「垂れてなかったですよ」
「それならよかった」
「ただ口は開いてました」
「まじで」
「ハイ。かわいかったです」

冗談だろうかと思って表情を盗み見るけど、彼はいたって真面目な顔をしていた。カワイカッタデス。聞きなれない言葉を頭の中で繰り返して熱くなる。
なんか、いつもの赤葦くんとちょっと違うような気がして、戸惑う。

「そろそろ戸締まりの時間だと思うんで帰りましょうか」
「そうだね」
「その前にナマエさん」
「なに?」
「キスしていいですか」

やっぱりこの人、赤葦くんによく似た別人なんじゃないだろうか。目の前の彼をまばたきもせず、じっと見つめてみる。だけどまっすぐに見つめ返してくるその人は、見間違いようもなく赤葦くんだった。

「…いや、な、なんで?」
「理由っていりますか?」
「いります」
「強いて言うなら、寝顔がかわいかったから」

ああ何だかもう訳がわかんない。赤葦くんがおかしい。私もおかしい。
満月は人を狂わせるって言うけど、そのせい?それとも、夜の教室っていう、日常のようで非日常なこの状況のせい?そんな余計な考えがごちゃごちゃ散らかった私の脳内から、一瞬ですべてが消え去った。

いつもより少しだけ性急なキス。怖いくらいドキドキしてる、いま、私。

唇が離れても私達の距離はそのままで、息がかかるくらいの近さで、ナマエさん、と小さな声が私を呼ぶ。恥ずかしさだとか照れくささを振り切るように、口を動かした。

「なんか」
「ん?」
「いけないことしてる気分」
「…俺もです」

そう言いながら赤葦くんが顔を傾けて、もう一度。
窓の外に浮かぶ月は、やけに大きくて、丸く黄色く光っている。


2014.8.31

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