少しずつ紺色に侵食されていく橙の空。内容の聞き取れないざわめきと、遠くから聞こえる太鼓の音が、混ざり合って溶けていく。

待ち合わせ場所であるタバコ屋の前。約束の十分前に着いた私はとりあえず大きく息を吸い、吐き出した。緊張しているのかもしれない。いや。かも、ではなく、している。じわじわと迫り来る、この非日常感のせいだ。
慣れない浴衣になんだかむずむずするし、普段はしないような髪型にもむずむずするし。巾着から手鏡を取り出して、前髪を何度も直しながら彼を待つ。
顔を上げると、向こうから見間違いようのないプリン頭が歩いてくるのが見えて、手鏡を巾着に仕舞った。

「ごめん、お待たせ」

静かにそう言う研磨は、悔しいくらいにいつも通りだ。

「いやっ私も今来たばっかり」
「ほんとに?」
「うううう、うん」
「うん?ううん?」

普段ならもっとちゃんと返事ができるのに、やたらつっかえてしまってちょっと恥ずかしい。
研磨の視線が、私の足元から頭のてっぺんまで流れるように動き、最後に私の目へと辿り着いた。ドキッとするようなギクッとするような、この感じ。出てくる言葉が何なのか、巾着を握りしめる手に思わず力が入る。

「…じゃあ行こっか」
「えっ」
「行かないの?」
「い、いや行くよ!さあ行こう!すぐ行こう!」

先に歩きだした私に、研磨が数歩で追いついて隣に並ぶ。
浴衣のこと、期待してないつもりだったけど、やっぱりどこかで期待していたみたいだ。何か言ってくれるかもって。紺色の布地に咲く朝顔が、少しだけ切ない。
でもそんなのは些細なこと。だってそもそも研磨が、あの研磨が、たくさんの人でごった返す夏祭りなんてものに一緒に行ってくれるってだけで、万々歳なんだから。誘ったときすごい嫌そうな顔されたけど気にしない。しょうがないなぁって言いながら何だかんだで付き合ってくれる。いつもそうだ、研磨って。

「研磨がまず何食べたいか当てようか」
「なに?」
「りんごあめ!」
「当たり」
「やっぱりねー」

タバコ屋から祭りの中心地までは程近い。そこに近づくにつれどんどん人が多くなる。気を抜いたらすれ違う人とぶつかりそうだ。
屋台がずらりと並ぶ中、まずはりんごあめやぶどうあめが置いてある屋台へと足を進めた。らっしゃい!と、おじさんの元気な声。

「ナマエも食べる?」
「うん」
「すいません、りんごあめ二つください」

お金をぴったり払った研磨がりんごあめを受け取り、片方を私に差し出した。私は慌てて巾着の中を探る。

「自分の払うよ」
「いいよ別に」
「でも」
「もううるさい」

口にりんごあめを突っ込まれてしまえば、もう素直に受け取るしかなかった。ありがとう。そう呟くと、研磨の表情が満足げにほんの少しだけ緩む。
研磨が買ってくれたりんごあめは、今まで食べたどれよりも赤くて、どれよりも甘い。

りんごあめを食べ終わった後も、いろんな屋台を渡り歩く。イカ焼き、焼鳥、かき氷。気付けば空はすっかり暗くなっていた。
そんな時、向こうの方に見えた「お好み焼き」の文字。あっ!と突然声をあげた私に、研磨が怪訝な顔をする。

「ねえねえお好み焼き食べたくない?」
「まだ食べる気なんだ…」
「トーゼンでしょ。研磨食べないの?」
「いらない」
「相変わらず少食だなぁ」
「ナマエは食べ過ぎ」

もう一度、お好み焼きの屋台へと目をやった。向こうはこっちよりもさらに混雑しているように見える。あの中に研磨を連れていくのは酷かもしれない。

「じゃあ、お好み焼き買ってくるから研磨はここで待ってて」
「え…なんで。おれも行くよ」
「あっち人スゴいし。サーッと行ってサーッと帰ってくるね」

それだけ言って、返事は聞かずに歩きだした。
さっさとお好み焼きを買って研磨のところに帰らなければ。時間的に、そろそろ花火も始まるはずだ。
そんなことを考えながら先を急いでいると、後ろから控えめな力で手首を掴まれ、名前を呼ばれた。

「ナマエ」

振り向けば、少し息を切らした研磨が立っている。

「あれ、どうしたの?」
「やっぱりおれも一緒に行く」
「えっなんで」
「食べ物の匂いにつられてナマエがフラフラどっか行っちゃったら困るし」
「研磨は私のこと何だと思ってんの」

犬かなにかと一緒にされてるんだろうか。不本意である。
掴まれたままの手首、ただそれだけのことに私がこんなにドキドキしているって、研磨はきっと知らないんだろう。

「あんまり一人でうろうろしないで」
「大丈夫だよ。迷子にはならないって」
「いや迷子っていうか…かわいいから」
「え」
「おれのいないところで知らない男に声とかかけられても嫌だし」
「…えっ?」

なんてことないような、いつもの調子でそんなこと言うから。さらっと言うから。危うく聞き流しそうになった。
予想外の言葉に、頭が回らなくて声も出ない。そんな私に気づいたのか、地面を見つめていた猫みたいな目がこちらに向く。

「…さっき言いそびれたけど…」

一瞬、泳ぐ視線。だけど最後にはちゃんと、私に戻ってきて。

「かわいいよ。浴衣、似合ってる」

背後で大きな音が響いた。花火が始まったらしい、辺りから歓声が上がっている。空を見上げていないのは、たぶん私と研磨だけだ。

「えっ、あ…えっと、あ、ああああり、ありがと」
「どもりすぎ」
「…だよね」

私の熱が伝染したかのように、少し恥ずかしそうな研磨が下を向く。花火もお好み焼きももはやどうでもよかった。
それよりも、今すぐ目の前のこの人に抱きつきたくて。なんか、もう、どうしよう。


2014.6.8

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