自分の部屋に入ると、むわっと暑苦しい空気がまとわりついてきた。せっかくお風呂を済ませたというのにまた汗をかいてしまう。慌てて冷房をつけて、設定温度を一気に下げた。急速に冷やされていく狭い室内。少し涼しくなってきたところで、設定温度をちょうどいいあたりまで上げる。
 ベッドに仰向けになり、目を閉じてみるけれど、まったく眠れる気がしない。今日のランク戦は白熱した。そのときの興奮を引きずっているんだろうか。アドレナリンとかそういうのがまだ出ているのかもしれない。明日は遊真くんと出掛けるのだから、早く寝て体調を万全にしておかなければ。そんなことを考えていると、今度は明日の予定が楽しみすぎて、眠気が遠ざかっていく。自然と考えてしまうのは遊真くんのこと。
 枕元に放り投げていたスマートフォンを手に取る。「いつでも電話してよ」と、いつだったかそう言ってくれたことを思い出した。電話帳から彼の名前を呼び出して、ほんの一瞬ためらってから、通話ボタンを押す。コール音は三回目が鳴り終わる前に途切れた。

「もしもーし」

 耳元でひょうひょうとした声が響く。なんだかふっと体の力が抜けた。

「遊真くん。夜遅くにごめんね」
「だいじょぶだよ」
「特に用はないんだけどね」
「うん」
「話したいなーと思って」
「明日会うのに?」
「そう、明日会うのに」

 小さく笑ったのが電話越しにもわかった。本当は話すだけじゃ足りなくて会いにいきたいくらいだけど、いよいよ呆れられるかもしれないから心の中に留めておくことにする。
 話している途中で彼の声がときどき揺れるのが不思議で、耳を澄ませてみると、なんだか微かに音が聞こえる気がした。車の音や人の声が混ざったような、ザワザワとした音。家にいるものだと勝手に思っていたけれど違うのだろうか。

「遊真くん、今なにしてるの?」
「ん? 散歩」
「えっ、こんな時間に?」
「別にヘーキだよ」

 危ないなあ、と思いながらも少し羨ましくなった。夜の散歩。ワクワクする響きだ。隣に彼がいるのなら、さらに。星がチラチラと輝く空の下、どこかでカエルが鳴いているのを聞きながら、ただただ歩く。昼間の暑さが残る生ぬるい空気。すぐ隣を歩く彼の足音。想像しただけでも楽しい。楽しいからこそ、余計に思いが募る。

「会いたいな」

 数分前に飲み込んだ言葉が、ふいに零れてしまった。

「……明日会うのに?」
「そう、明日会うのに」

 さっきと同じやりとり。だけど返ってきたのは、私が想像していたような呆れた声じゃなくて、思いがけない言葉。

「おれも会いたい」

 次の瞬間にはもう立ち上がっていた。じっとしてなんかいられなかった。簡単な服に手早く着替えて家を飛び出す。冷房の効いた部屋から出ると、またしてもむわっとした空気が私を包んだ。額に汗が滲んでくる。だけどそんなことはどうでもいい。
 家の前の道路に立ち、今どこにいるのか訊ねようとした私の足はその場で止まった。暗い夜道の向こう。見つめた先に、スマートフォンを耳に当てた彼がいたから。電波に乗った声が耳元で響く。

「なんでいるの、って思ってるだろ」
「思ってる」
「会いたいなと思いながら歩いてたら、いつのまにやらここに」

 電話を切るのも忘れたまま走りだした。今にも落ちてきそうな星空に、早く早くと急かされる。月の光のように優しい笑顔まで、あと数メートル。


2017.7.23

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