「ちょっと待って」
立ち止まった私に続いて、一也も足を止めた。胸に手を当てて息を吸い込む私を見る顔は、心配しているようでもあるし、呆れているようでもある。
「いったん深呼吸する」
「またかよ。何回目?」
「だってもう心臓が……心臓が!」
「落ち着けって」
手のひらを背中に添えてゆっくりと撫でてくれる。いつもなら大抵のことはそれでなんとかなるけれど、今日に限っては効果がなかった。
私たちは今、一也の実家に向かっている。挨拶に行くのだ。結婚の挨拶に。
「そんな緊張するような家じゃねーから」
「無理、めちゃくちゃ緊張する」
「もっと気楽にしていいのに」
「大事な息子さんと結婚させてもらうのに気楽になんかできないでしょ」
「なんだそれ」
見上げた先の笑顔に、いまだに胸が高鳴ってしまってちょっと悔しい。羨ましいくらいにのん気な顔だ。私の実家への挨拶はもう終わらせたからなのか、すっかりリラックスしている。
師走の空はどこを見ても清々しく晴れ渡っていた。最近は雲の多い日が続いていたのだが、久しぶりの快晴である。おまけに風がないので寒さもあまり感じない気がする。太陽にあたたかく照らされた外の空気は、のんびりと緩やかだ。
一也のお父さんに会うのは初めてではない。球場で挨拶をしたり、三人で食事をしたことも一度だけある。ただ、実家にお邪魔するのは初めてだ。勉強してきた礼儀作法を思い出しながら再び深呼吸をした。こんなに緊張するのは、中学校のスピーチコンテストで全校生徒の前に立ったとき以来だろうか。
着いた、という声に思わず背筋が伸びた。頭の中でぐるぐると考えたり、一也に励まされたりしている間にも、足は着実に動いていたようだ。御幸スチールと書かれた外壁を見上げる。工場の中は電気が消えていて薄暗く、ずらりと並んだたくさんの機械も息をひそめていた。
「誰もいないね」
「日曜は休みだからな」
外階段を一段ずつ上がっていく。足を踏み出すたびに、心音も大きくなっていく気がする。
「ただいま」
緊張は最高潮に達した。心臓が爆発するかもしれない。
「あれ、いねぇ」
意表を突かれた心臓が、うるさく騒ぎ立てるのを忘れる。予想外の展開。どういう事態なのかすぐには分からなかった。一也に促され、「お邪魔します」と挨拶して、恐る恐る足を踏み入れる。きちんと靴を揃えるのも忘れない。
さっぱりと片付けられ、しんと静まり返った部屋の中。電気もテレビも消えており、人の気配はどこにもなかった。
「……時間合ってるよね」
「合ってるはず」
スマホに目をやった一也が「あ」と声を漏らした。画面を私に向けながら続ける。
「コーヒー切らしてたから買ってくるって」
「えー、来る途中で買ってくればよかったね」
「だな。まあすぐ帰ってくるだろ」
特に気にする様子もなく私からコートを受け取り、ハンガーに掛けてくれた。おかげで少し肩が軽くなる。
リビングのテーブルには大きな寿司桶が置いてあり、中に握り寿司が並んでいる。すぐそばに割り箸が三膳。一也のお父さんが準備してくれたのだろう。緊張していてもお腹は減るものだ。ネタが大きくてすごくおいしそう。
「ご馳走っつーと昔から寿司なんだよな」
「そうなんだ」
「年末に寮から帰省したときとか」
思い出し笑いをする横顔に、学生の頃の姿が重なる。
喋った記憶は数えるほど。高校時代の私を、一也は覚えてないだろうなと思った。覚えていると本人は頑なに主張するが、彼が野球しか見ていなかったのをよく知っている。それは今も変わっていない。私にとっても当時はただのクラスメイトでしかなかったけれど、一也は有名人だったので、さすがにしっかりと覚えている。なんせ野球部の四番で捕手で主将だから。
座ってれば、と勧められたものの、どうにも落ち着かない。手土産を下ろして辺りをぐるりと見回す。物が少ない部屋の中で、気になるところがあった。
「このへん見てもいい?」
「どーぞ」
テレビの横の写真立てに飾られていたのは家族写真だった。幼い一也と、お父さんとお母さん。見入っていると、写っている張本人が隣に並んだ。こんなにも大きくなって。親戚でも何でもないのに、見比べてしみじみと思う。
「前にも思ったんだけど」
「うん」
「一也ってお父さん似?」
「眼鏡見て言ってるだろ、それ」
「いやいや眼鏡以外も。あ、でも口元はお母さんっぽい」
いろんな年齢を捉えた写真が他にも何枚か壁に貼ってある。一也はここで毎日を過ごして、成長していったんだ。寝て起きて食べて、学校に通い、野球に出会って。そんなの考えるまでもなく当たり前のことなのだが、積み重ねられた年月をあらためて実感する。
この家の中に、どれほどたくさんの時間や思い出が溢れているのだろう。言葉にできない気持ちが奥底からこみ上げて、少し丸まった背中を後ろから抱きしめた。
「一也」
「ん?」
「大切にします」
「どうした突然」
「わかんない。なんか言いたくなった」
ふっと息を漏らした一也が振り返り、向かい合う。俺も、と短く言って両手を握る。そしてまっすぐに見つめられた。とてつもなくやわらかな視線に。
「言葉足らずだし、いっつも面倒かけてるけど」
「うん」
「うんって」
気の抜けた様子で笑ったかと思えば、「でも」と真面目な声色に戻り、私の手を握る力が強まる。
「ナマエのこと、ずっと大切にする」
視界がゆらめいた。勢いよく抱きしめると、優しく抱きしめ返される。ありったけの思いを腕の力にこめる。「いてェ」と聞こえた声が嬉しそうだったのは、たぶん気のせいではない。
2024.1.1