西日の差す道路を数分歩いただけで、額にじわりと汗が滲んだ。昨日よりも暑い気がする。最高気温は同じくらいのはずだから、夏祭りに向かう人々の熱気がそう感じさせるのかもしれない。私も群衆の一部になりながら下駄を鳴らす。今年買ったばかりの浴衣が、足を一歩踏み出すたびに私の心を弾ませる。
待ち合わせ場所である商店街に近づくと、すらりと背の高い立ち姿はすぐに見つかった。
「お待たせ!」
駆け寄って声をかける。振り向いた望が、私を見て優雅に微笑んだ。
「似合ってるわ、浴衣」
「ありがと。望もすごい綺麗だよ」
落ち着いた紺色に咲く紫と白の花が、彼女によく似合っている。いつもさらりと靡かせている長い髪は、今日はひとつにまとめられていた。
去年も望と夏祭りに行ったけど、お互い浴衣は着なかったな。一年前の記憶を辿りながら、のんびりと並んで歩く。普段は何もない通りに屋台がずらりと並んでいて、今年もその眺めは圧巻だった。
「とりあえずかき氷にしよっと」
「あら、焼きそばは?」
「あとで。望もかき氷食べる?」
「もちろん。やっぱりここはブルーハワイかしら」
きらりと目を光らせた望とともに、手始めにかき氷で体を冷やす。
香ばしいにおいや提灯の灯りが非日常を連れてきて、気持ちを舞い上がらせる。蒸し暑いし人も多いけれど、歩いているだけでなんだか楽しくなってくるから不思議だ。かき氷のあとも、焼きそばを食べて、イカ焼きを食べて。通りかかった射的の景品がやけに豪華で、東さんを誘えばよかったと思っていたら、望も隣でまったく同じことを言っていた。
ふと見上げた空には暗闇が広がっていた。屋台の通りを歩く人も、先ほどまでと比べて少なくなった気がする。そろそろ花火の時間だろうか。でも先にたこ焼きを食べておきたい。目についた屋台に並んだら、前に立っているのはよく知る後ろ姿だった。
「風間さん」
振り向いたその人はまさしく、我々の先輩である風間さんだ。
「やっぱり風間さんだ」
「来てたのか」
「うん。風間さん、ひとり?」
「いや」
遠くを見やる風間さんの視線を追うと、諏訪さん、レイジさん、寺島さんの姿が見える。焼きそばやら焼き鳥やらを持ち、向こうから歩いてくるところだった。
「いつものメンバーだ」
「勢揃いしてるわね」
同い年四人で遊びに来ているようだ。相変わらず仲が良くて、相変わらずむさ苦しい。だけど羨ましくもある。
風間さんたちのひとつ下にあたる私たちも普通に仲は良いけれど、彼らほどではない。最後に同い年全員で集まったのはいつだったか。パッと思い出せないのがその証拠だ。
「お、ミョウジに加古」
「おつかれ」
「おつかれさまです」
勢揃いした先輩たちに見せびらかすように、浴衣に通した腕をひらりと広げてみせた。
「どうですか。かわいい? かわいいよね?」
「カワイイカワイイ」
「よし」
「脅迫じゃねーか」
諏訪さんが面倒くさそうに何か言ってるけど聞こえない。しっかりとカワイイをいただいて満足した私は、ようやくたこ焼きを注文して、できたて熱々のパックを手の中におさめる。
「つーかお前、太刀川と花火行くって言ってなかったか?」
たこ焼きを口に入れた瞬間、正面に立つ諏訪さんが何気なく、しかし的確にぐさりと私の心を刺した。望がすかさず代わりに答える。
「それは言わないであげて、諏訪さん」
「あ? なんでだよ」
諏訪さんの言うとおり。今日の夏祭り、本当は太刀川と来るはずだった。
あれは今週の初めのことだ。太刀川の家で遅めの晩ごはんを終えて、アイスを食べている最中に告げられた。次の土曜日は混成部隊で防衛任務に入るのだと。
土曜といえば夏祭りの日である。指摘すると、「あれ土曜だっけ」と本気でド忘れしていた顔で言い放つから、私は言葉を失った。この日は空けといて、と何度も言っておいたのに。太刀川隊の任務ならまだしも、なぜ強制でもない混成部隊への参加を決めているのか。
わかっている。太刀川はそういう奴だと。個人ランク戦に熱中しすぎていろいろいい加減だし、急な任務で約束がなくなるのもこれが初めてではない。わかった上で付き合っている。だけど許せなかったのだ。その時は、なぜか。
「ほんっとーにすまん」
「いいよ、もう。今年は無しってことで」
アイスのゴミを捨て、カバンを抱えて玄関に向かう私の後ろから、足音が追いかけてきた。
「どこ行くんだ。泊まっていくんだろ」
「やっぱ帰る」
「もう夜遅いから危ないぞ」
「大丈夫」
「ミョウジ」
振り向いた私はどんな顔をしていたんだろう。太刀川がほんの少し、たじろいだように見えた。
「太刀川には絶対浴衣見せてあげないから! じゃーね!」
絶対に見せてやるものか。心に決めて部屋を出た。そして事の顛末を聞いた望が夏祭りに誘ってくれて、今日に至るのである。
太刀川とはあれから顔を合わせていない。連絡は来たけど無視している。ちょっと怒りすぎたかも。そう思った時にはもう遅く、いつも通りに戻るタイミングを、私はすっかり失ってしまっていた。
私と太刀川の話にさほど興味はなかったらしい諏訪さんは、レイジさんと喋りながら焼き鳥をかじっている。ホッとする私の隣に、気づいたら音もなく風間さんが立っていた。ベビーカステラの袋を差し出されたので遠慮なくひとついただく。
「ケンカでもしたか」
「え、なんで?」
「本部の食堂で太刀川を見かけたんだが、珍しくしおれた顔をしていたからな」
「しおれた顔……」
しおれた太刀川を思い浮かべようとしたけれど、想像できなかった。奴はいつだって飄々としていて、戦うことしか頭になくて、私とケンカしたからって何も変わったりなんかしないだろう。そもそも、これはケンカといえるのか。私が一人で怒って拗ねているだけのような気がしてくる。風間さんはそれ以上なにも言わず、またひとつベビーカステラを分けてくれた。
花火は、先輩たちと別れて間もなく始まった。最初は小さいものから、だんだんと大きく鮮やかなものに移り変わりながら、明るく瞬いてはパチパチと散っていく。蓮ちゃんが教えてくれた穴場は人が少なく、落ち着いて空を見上げられる場所だった。
今日一番の大きな花火が上がる。夜の空を埋めつくすようなまばゆい光。巡回中の太刀川にも見えているだろうか。
「もう許したって顔してる」
「えっ」
「なんだかんだ太刀川くんに甘いわね、ナマエは」
じとりとこちらを見て口を尖らせている。しかしすぐに表情を崩し、「まあ甘いのは太刀川くんも同じだけど」と望は続けた。
本当に、そう。そのとおりだ。これまでに太刀川から受け取った、数えきれないほどのあれこれが脳裏を巡る。
最後の花火が、滝のように空から流れ落ちていった。
待ち合わせ場所にした商店街で望と別れて、アパートまでの道をひとり歩く。家で食べようと最後に買ったベビーカステラの袋を抱えて。
飲食店やコンビニが立ち並ぶ大きな道には、私と同じく夏祭り帰りであろう浴衣姿の人や、カラフルな水ヨーヨーを揺らす人がちらほらと見える。途中で住宅街の方向に曲がると、どこにも人の気配はなくなった。どの家も明かりはついているが、話し声や物音は聞こえない。エアコンをつけて窓は閉めきっているのだろう。今夜も暑いから。
スマートフォンで太刀川の名前を呼び出す。連絡したい。でもなんて言おう。迷った末に、一番綺麗に撮れた花火の写真を送ったら、返信はすぐに来た。
『浴衣の写真は?』
今日も変わらずとぼけた男だ。久しぶりのやりとりで、私は少しだけドギマギしているというのに。
もう怒りは消え去っているけど、絶対に見せないと一度言ってしまった手前、ここでホイホイと写真を送るのはちょっと。私の妙に頑固で面倒くさいところが顔を出す。ないよ、と返すと、またしても即座にスマホが震えた。
『じゃあ直接見に行く』
直接とは。画面を見つめたまま立ち尽くしていると、俯いた視界の隅に、見慣れたサンダルが入り込んできた。月を背にした太刀川が、目の前に立っていた。
「よう」
「なんでいるの?」
「任務終わった」
「じゃなくて、なんでここに」
「なんでだろうな。愛の力?」
たぶん望だ。ていうか絶対にそうだ。さっき商店街で別れた後、太刀川に連絡したんだろう。彼女には本当にいつだって、すべて見透かされている。
太刀川は私の頭から足先まで視線を何往復もさせて、興味深そうに眺めている。眺めるだけでなにも喋らない。さすがに居た堪れなくなって、こちらから声をかけた。
「浴衣着たよ」
「うん」
「どう?」
「最高」
「もっと褒めて」
「かわいすぎて誰にも見せたくない」
長い腕に捕まって閉じ込められた。がっしりとした体には熱がこもり、汗ばんでいる。
「さっき不特定多数に見せてきたところだよ」
「そういうこと言うなよ」
珍しく頼りない声だ。風間さんが言っていたしおれた顔、今なら見られるかも。なんとか見てやろうとしたが、強い力で抱きすくめられて、抜け出すことも身を捩ることも叶わない。
ようやく離れたときにはもう、弱々しさなどどこにも見当たらなかった。
「今日は本当に悪かった」
「私も。電話無視してごめん」
「ミョウジが謝る必要いっこもないだろ」
穏やかにそう言った。かと思えば真面目な空気はすぐに引っ込んで、がしがしと頭を触りながら視線を泳がせたあと、遠慮がちに口を開く。
「家まで送っていってもいいか」
切実に頼み込むような、そんな声。私は顔中すべてがゆるむのを止められなかった。
「しょうがないから送らせてあげよう」
「有難き幸せ」
「ベビーカステラ食べる?」
「食う。腹減った」
袋に伸びては離れていく無骨な手を見つめる。この手にもっと触りたい。泊まっていきなよ、って切り出すタイミングを、さっきからずっと探している。
2023.9.18