太陽は西に傾き始めていた。薄い影が少しずつ景色を侵食していく。外の冷たい空気を避けるために窓を閉めきった教室は、世界から切り離されたみたいに静かで、紙にペンを走らせる音まで聞こえそうだった。
「ミョウジ、これなんて読むの?」
「どれどれ? あ、それはね、いっちょうら」
「いっちょうら」
「持ってる服の中で一番いいやつ! みたいな感じ」
「ふーむ……なるほど」
教室に残っているのは、私と空閑くんの二人だけ。机を向かい合わせにくっつけて、国語のプリントを解いている。私たちが放課後に残って一緒に宿題や予習をするのは、今日が初めてではない。
最初は空閑くんが転校してきて間もない頃だった。
だんだんと寒くなり始めてきたある日の放課後、図書委員の仕事を終えた私は、置きっぱなしにしていたカバンを取りに教室へと向かった。誰もいないと思って勢いよく開いた扉の先。そこには空閑くんがひとりポツンと座っていた。
空閑くんはプリントと向かい合っていた。真っ白なそれに落としていた視線を上げて、よっ、と軽く手をあげて挨拶をしてくれる。同じ仕草を返しつつ、自分の席から彼の後ろ姿を観察した。プリントに文字が書き込まれる気配はなさそうだ。
「なんか困ってる?」
声をかけると真っ白な頭が振り向いた。がっくりと頷いて、ひどくもどかしそうな目を机の上に向ける。
「このプリントを出さないと帰れないんだと」
「三雲くんは?」
「用事があって先に帰った」
なんてタイミングが悪い。三雲くんの用事さえなければ、きっと彼らは二人でプリントを終わらせて、さっさと学校を出ていただろうに。
その後ろ姿を放っておけなかったのはなぜなのか。肩にかけようとしたカバンを机に戻して、空閑くんの前の席に腰を下ろし、体ごと後ろに向いた。
「一緒にやろ、プリント」
こうして始まった放課後の勉強会は、今もまだ不定期に続いている。
しかし、もうすぐ高校入試だ。無事に合格すれば、春から私は六頴舘高校に通う。空閑くんは三門第一に決まったらしい。卒業を控えた私たち三年生は近いうちに授業もなくなって、そうしたら彼はボーダーの訓練に集中するため、学校には来ないのだと聞いた。二人で勉強できる機会も残りわずかしかない。そう考えるたび、胸の中がひんやりと冷たくなるような心地がする。
せっかく仲良くなれたのにな。仕方ないってわかってはいるけれど。
「ミョウジはすごいな。こんな難しいのをすらすら解けて」
プリントが一区切りしたところで、両腕を上げて大きく伸びをした空閑くんが、しみじみとした口調で呟いた。
「そうかな」
「なに訊いても答えてくれるもんな」
感心したように頷いているのを見ながら、言い表しがたい気持ちになる。
「私より空閑くんのほうがすごいよ」
三門市に突然黒い穴が開いたのが四年半くらい前。近界民と呼ばれる侵略者が攻め込んできて、街と日常はめちゃくちゃになった。家族や友達も怪我を負った。普通の武器が効かない近界民に対抗できる唯一の存在、それがボーダーである。少し前に起こった二度目の大きな侵攻で、最前線に立って戦い、守ってくれたのもボーダー隊員だった。すごくないわけがない。
私は、入りたくても入れなかったけど。入隊試験に落ちた日の記憶が蘇って、私にできることって何だろうって、ちょっと悲しくなる。少し勉強ができたところで、誰のためになるというんだろうか。
肩を落としていると、空閑くんのくっきりとした声が静かに響いた。
「比べる必要ないじゃん」
反射的に顔を上げた。まっすぐな視線とぶつかって、心臓がドキリと音を立てる。
「努力して身につけてきた力なんだろ。他の誰がどうだろうと、おれにとってミョウジがすごいってのは変わらない」
語りかけられる言葉が、私の中に溶けていく。その声色は力強くて優しい。かと思えば「おれもいっぱい助けてもらってるし」と申し訳なさそうな顔に変わるのがなんだかおかしくて、ゆるみかけた口元を引き締めた。
「……そっか」
「うむ」
「たしかに私ってすごいかも」
「そーだろ」
なぜか彼のほうが得意げにするものだから、堪えきれずついに笑ってしまった。
「ありがとう、空閑くん」
なにが、と心底不思議そうに首を捻っている。わからなくてもいい。返事はせずにただただ笑顔を返したら、空閑くんの目も諦めたように細まった。
窓から遠く見える夕日は、さっきまでよりも随分と傾いてしまっていた。二人で過ごす教室に、いつだって角のないなだらかな空気が満ちているのは、空閑くんのおかげだろう。心地よくて名残惜しいけれど、そろそろタイムリミットだ。
「空閑くん、プリントどう?」
「ここ書いたら終わり」
「じゃあもう遅いし帰ろっか」
「その前にもういっこ」
「ん?」
「教えてほしいことがあるんだけど」
彼の申し出に、片付けを始めていた手を止める。すかさず今日一日の授業を頭の中で振り返ったが、思い当たらない。まだ終わってない宿題ってあっただろうか。
「教えてほしいことって?」
「気になる子の誘い方」
妙な間が生まれた。質問がまさかの方向性で面食らってしまった私が、言葉に詰まったから。
「ミョウジ、聞いてる?」
「聞いてるよ。聞いてる聞いてる」
「ちゃんと約束でもしないと会えなくなりそうなんだ。だから遊びに誘うためのうまい方法がないものかと」
「行動派なんだね、空閑くん」
「そりゃ会いたいからな」
びっくりしたような、少しだけショックのような。彼とは今までそういう話をしたことはない。誰かと話しているイメージもない。だからすごく意外で、意外すぎて、変に動揺してしまった。いろんな感情が混ざって、自分でもよくわからなくなっている。
空閑くんって気になる子いたんだ。どんな人だろう。ボーダーの知り合いなんだろうか。
訊きたいことが次々と浮かんで尽きない。ただ、せっかく頼ってくれたのだからしっかり応えなければ、という思いが何よりも一番だった。
「うまい誘い方かー……」
「いい案あったら教えてよ」
「うーん、誘いやすくてオッケーもらいやすいような……。あ、なにか食べにいくとか?」
「ふむふむ」
「ここおいしいから一緒に行こうよ、みたいな」
「ちなみにミョウジならどこ行きたい?」
「私はね、こないだ新しくできた卵料理屋さん」
隣町の駅近くにオープンしたばかりの卵料理屋。ご飯ものからデザートまですべて卵づくしなのだと話題になっていて、私も近いうちに行ってみたいと思っている。きっとおいしいはずなので、ぜひ空閑くんにも食べてみてほしい。スマートフォンでお店の外観や料理の写真を見せると、彼は興味深げに目をきらめかせた。
「行ったことある?」
「いや、ないな」
「私もまだないんだけど、いろんな卵料理があってどれもおいしいんだって。オムライスが人気らしいよ」
「たしかにうまそうだ」
「でしょー、気になってるんだよね」
「そんじゃ今度一緒に食べにいこう」
さらりと言われて、教室がさらにしんと静けさを増した気がした。まばたきも忘れて固まる私に対して、空閑くんの様子はいつもとまったく変わりないままだ。
「……私と空閑くんが?」
「おれとミョウジが一緒に」
なんで、と訊く必要はなかった。彼は机越しに身体を乗り出して、返事をしない私との距離を一気に縮めた。深い赤色の瞳がニコリと微笑む。
「行く?」
行かないという選択肢を、私は持っていない。
2023.7.26