最近、野球部が変わった。

「レーンー。あれ、寝てんのか」
「寝てない、よー」
「寝ながら返事してる!」
「おーい、邪魔してやんなよ」
「そーいうコースケも邪魔しにきてんじゃん」
「オレはレンのために悠を止めにきてんの」

 いつもどおりの会話。少し離れた自分の席で、目を閉じたまま聞き耳を立てる。
 何が変わったのかといえば呼び方だ。今までは、田島、泉、三橋だったのに、いつからだろう。ゆう、コースケ、レンって呼び合っている。なぜ。いったい彼らに何があったというのか。

「ミョウジ」

 ふいに呼ばれて目を開けたら、思った以上に近い距離に田島の顔があった。驚いて飛び上がりそうになるのを抑えてなんとか平静を装う。

「ミョウジも寝てんの?」
「寝……てないよ。瞑想してた」
「ふーん? ま、いいや。今日一緒に帰ろうぜ」
「うん。教室で待ってるね」
「おお、わかった」

 今日は月曜日だ。野球部の練習がなくてミーティングのみで終わる日。毎週ではないけれど、月曜日に私たちは時々待ち合わせて一緒に帰っている。
 予鈴が鳴ると田島は「またあとで!」と言い残し、慌ただしく去ってしまった。入れ違いで戻ってきた泉の背中をじっと見つめる。念をこめて。

「ずるい」
「は?」
「私も田島に名前で呼ばれたい」

 後ろの席から小声で話しかけると、泉は心底どうでもよさそうな表情で振り向いた。

「泉に先越された」
「なんだそれ」
「カノジョなのに、私」
「名前で呼んでって言えばいーだろ」
「そんなカンタンに言えたら苦労しないんだよ」
「知らねえっつの」

 彼女とはいうものの、付き合う前も後もほとんど変わっていないのが現実だ。さっき約束したように、時々一緒に帰るくらい。田島は毎日忙しい。
 それは別にいいのだ。わかった上で付き合っているのだから。とはいえやっぱり、少しだけでも何かしらの特別感は欲しいと思ってしまった。教室でしか会えない今の状況に加えて苗字呼びでは、他の女子たちと同じである。たとえば田島と付き合っていると言ったとしても、誰も信じないんじゃないだろうか。

「とりあえずアレだな。いっぺん悠んちに行ってこい」
「田島んち? なんで?」
「行けばわかる」

 謎のアドバイスに首を捻っていたら本鈴が鳴った。古典の先生が入ってきて、ざわついていた教室はすぐに静まり返る。泉は黒板のほうに向いてしまってもう背中しか見えない。
 名前で呼ばれたいと言ってるのに家に行けって、会話が噛み合っていないような。そもそも家に行くなんて、名前呼び以上にハードルが高いじゃないか。
 本人に向かって呼べない代わりに、ノートの隅に悠一郎と小さく書いてみる。文字を見ているだけでにやけてくる口元を押さえる。配られたプリントを持って振り向いた泉が、呆れた目を私に向けていた。



「じゃあオレんち来なよ」

 大きな目をキラキラと輝かせて、田島は言った。
 空が薄く藍色に染まり始めた帰り道だった。いつものように、思いついたことをお互いに喋りながら歩いていて、近況のひとつとしてポロリと話したのだ。「今日家に一人なんだ」と。
 両親は朝から県外の祖父母のもとへ行っており、今夜は向こうに泊まる予定になっている。晩ごはん作っておこうかと母に言われたけれど断った。出かける準備で忙しそうだったし、外食したり買ってきて食べるのもたまには楽しそうだと思ったから。
 この話を経て最初に繋がる。田島の「オレんち来なよ」という言葉に。

「で、うちで晩メシ食ってったらいーじゃん」
「そんな急に行っても大丈夫なの?」
「レンもしょっちゅう食いに来てるからヘーキだよ」
「本当の本当に?」
「絶対だいじょーぶ。行こーぜ!」

 家に呼ばれたのはとても嬉しい。嬉しいけれど、まさか今日、こんな展開になるとは思っていなかった。本当に突然ふらりと行ってご飯まで食べて大丈夫なのだろうか。嬉しさと心配がぶつかり合っている。
 対極的な思いを戦わせた結果、勝ったのは行きたい気持ちだった。腹を括って行く。田島の家に。目の前で躊躇なく玄関の扉が開かれて、心臓の音がどんどん騒がしくなっていく。

「ただいまー」
「おかえり。あら、いらっしゃい」

 さっそく田島のお母さんと対面した。慌てて頭を下げる。遠くから姿を見かけたことはあるけれど、こうして顔を合わせるのは初めてだ。思わず背筋がピシッと伸びた。

「ええと、初めましてよね?」
「はい! は、は、はじめまして。ミョウジナマエです」
「オレのカノジョー」
「あらまあ、そうなの」
「今日親がいなくて家に一人らしいから連れてきた」

 前情報は何ひとつなく今の状況になっているにも関わらず、お母さんはまったく動じていない。田島から私へと向き直り、明るく微笑んだ。

「夕飯食べていってね。帰りはちゃんと悠が送ってくから」
「ありがとうございます! 急にお邪魔してすみません」
「気にしなくていいのよ」

 促されてそっと足を踏み入れたリビングには、まだ誰もいなかった。最初はしんとしていた部屋の中に、夕飯の時間が近づくにつれて、一人、また一人と増えていく。誰かが現れるたびに田島が私を紹介してくれて、私もその横で挨拶をする。食卓の準備が整う頃、ついに全員が勢揃いした。
 話には聞いていたけれど本当に家族が多い。ひいおじいさん、ひいおばあさん、おじいさん、おばあさん、お母さん、お兄さんとその奥さん、二人のお姉さんと、お兄さんがもう一人。そして田島。お父さんはまだ仕事から帰っていないそうだ。ホッとしたような、残念なような。ここまできたら会ってみたかった気もする。

「遠慮なく食べてね」
「はいっ、いただきます」

 しっかりと手を合わせてから箸を持つ。大きなテーブルにずらりと並んだ料理、たくさんのお皿、たくさんの人。こんなにも大人数で囲む食卓は久しぶりだ。お正月に親戚が集まった時以来だと思う。
 どれから食べようか迷ってしまうけれど、まずは近くにあった海藻のサラダに手を伸ばした。

「ナマエって悠と同じクラスなんだよな?」

 もぐもぐと口を動かしているお兄さんに、「そうです」と頷いて肯定する。このお兄さんは家族の中でも特に田島とよく似ている。年も一番近くて、いま大学一年生らしい。

「ちょっと航。アンタばっかり食べてないでナマエにも唐揚げ回しなよ」
「わあってるって。ほらナマエ」
「ありがとうございます」
「ナマエは野球部の試合はよく観に行くのか?」
「平日は行けないんですけど、学校が休みの時は行ってます」
「この人審判の資格持ってんだよー。ナマエもルールのことなら何でも聞いたらいいよ」
「うん、いつでも聞いて。ちなみに好きな球団とかある?」
「ナマエ、ご飯の量足りてる?」
「こっちのアサリもおいしいよ。ナマエもう食べた?」
「みんな一気に質問しすぎだって。ミョウジが食う暇ないじゃんか」

 賑やかな食卓だ。常にどこかで誰かしらの声が聞こえている。家族だから当然かもしれないけれど、どの人からも田島によく似た空気感を感じた。そのおかげだろうか。最初はガチガチに緊張していた私も、いつのまにか力を抜いて座っていられるようになっていた。
 隣では田島が勢いよくご飯を食べている。学校とはまた少し違う顔も見られたりして、来てよかった、とこっそり思った。



 明日も学校だから、あまり長居をするわけにもいかない。見送ってくれるお兄さんやお姉さんたちを何度か振り返りながら、大きな敷地をあとにした。街灯のあまりない夜道を、田島と一緒にゆっくりと歩いていく。

「ミョウジ、疲れてねェ? うちの家族スゲー喋るだろ」
「全然。みんな優しいし楽しかった」
「そ? ならよかった」
「最初はすんっごい緊張したけど」
「だよな。緊張してんなーと思った」
「バレてた?」
「バレてた」

 田島がいたずらっぽく目を細める。私のしどろもどろな姿を思い出しているのだとしたら、恥ずかしいからやめてほしい。

「田島の家族ってなんか、こう……田島の家族! って感じだね」
「なんだそれ、どんな感じ?」
「んー、うまく言えないけど」
「また連れてこいって言われた。みんなもっとミョウジと喋りたかったって」
「うん。また行きたい」

 素直な気持ちだ。あれだけ緊張して不安だったのが嘘みたいに、今ではそう思っている。
 泉の謎アドバイス、「とりあえず家に行け」の意味は、行ってみてなんとなくわかった。田島家では下の名前呼びが普通だから、お家にお邪魔すれば自然と名前で呼ぶようになるはず、ということだろう。たしかに夕飯の間だけでも三ヶ月分くらい名前を連呼された気がする。肝心の田島本人からは、最後まで呼ばれなかったけれど。それはまたいつか叶えられたらいい。

「すごいお腹いっぱいだね」
「うん」
「ごはんどれもおいしかったー。いつもあんなに豪華なの?」
「んー」
「……田島、聞いてる?」
「ナマエ」

 思わず足を止めた。誰もいない静かなこの道には、私と田島しかいない。今のが田島の声であることは明らかだ。聞き間違いだろうか。隣を見れば、月明かりに浮かび上がる真面目な瞳が、まっすぐに私だけを映している。

「……ナマエ」

 今度こそ、その声はくっきりと、はっきりと聞こえた。

「って呼んでもいい?」

 真剣な顔つきからまたたく間に力が抜けていき、ゆるんだ目元が問いかける。
 断るわけがないって、きっとわかっているはずだ。むしろ呼んでほしい。思惑どおりすかさず即答した私に、田島は抑えきれないみたいにまた笑った。やさしく指を絡めとられて、体と体が少し近くなる。

「ナマエ」

 聞き慣れた自分の名前が、世界で一番素敵な響きに思えてくる。彼の声で呼ばれるだけで、こんなにも。


2023.6.10

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