やけに響いて聞こえる気がする。普通に喋ったつもりの声も、アスファルトを踏む音も、全部。

「誰もいないね」
「そらこんな時間だからな」

 日付はとっくに変わっていた。歩いている人どころか、車すら通らない。虫の声も鳥の声もしない。静まり返った真夜中の道路を歩いていると、私と諏訪くんだけこの世界に取り残されたのかもしれない、なんて錯覚しそうになる。二十四時間営業の牛丼屋に人影が見える時点で、そんなはずはないんだけれど。

 同級生みんな防衛任務も通常業務も入っておらず、夜の予定がうまい具合に空いていた。なので、鍋をすることになった。
 場所は寺島くんの部屋。途中寄ったスーパーで遭遇した木崎くんとともに、行き慣れたアパートへと向かう。到着した時には、諏訪くんと風間くんはすでに家主のような顔でくつろいでいた。
 キムチ鍋を食べてお酒を飲み、シメのうどんまでしっかり味わう。その後はひたすらトランプをした。最近私たちの中で流行っている大富豪。お酒の入った状態で大富豪をやると、だいたい風間くんが最下位を突っ走る。一度始めると戦いはなかなか終わらない。みんな負けず嫌いだから。
 白熱した勝負を繰り返しているうちに、風間くんはとうとう寝落ちてしまった。しかも最下位が私に交代したタイミングで。
 ちょっと待て。勝ち逃げとかズルい。
 叩き起こそうとしたが、寝てしまった風間くんを起こすのは容易ではない。木崎くんにも止められたので渋々諦める。鍋の会はそこでお開きとなった。
 寝ている風間くんは置いて、アパートを出て、そして今。私は諏訪くんと二人で歩いている。

「おい、ちゃんと起きてんだろーな」
「起きてるよ」
「ぼーっとすんなよ。なんか踏むぞ」

 考え事をしながら歩く私に注意が飛んでくる。
 家の方向が同じだから。最初はそんな感じだった。先輩や同期から命じられた諏訪くんが、私を家まで送ってくれる。誰にも何も言われなくてもこうして二人で帰るようになったのは、もうずいぶんと前のことだ。

「諏訪くん」

 通りかかったコンビニの前で足を止める。私の家まであと少しといった時だった。

「おでん食べたくない?」
「おめーさんざん鍋食ってただろ」
「そろそろ小腹が空いてくる頃でしょ」
「まあ、それはある」
「んじゃ行こう」

 明るいメロディに迎えられながら自動ドアを通り抜けると、少し遅れて諏訪くんも後に続いた。レジ横に置かれたおでん。実物を目にしてさらにお腹が空いてくる。適当にいくつか買って、コンビニの外に出た。
 駐車場に車は一台もない。店内にお客さんは全然いなかったから当たり前か。近くの車止めに腰を下ろし、差し出された割り箸を受け取って容器の中を覗いた。まずはやっぱり大根から。

「私、今年初おでん」
「俺も」
「いただきまーす」

 口に入れた大根から出汁が染み出してくる。優しい味が広がって、心まであったまるようだ。おいしい。しみじみと噛みしめるような声が漏れてしまった。隣から息だけで笑う音が聞こえる。
 たまに取り合いをしながら食べ進めて、容器の底も見えてきた。諏訪くんはコンニャクを頬張っている。それを横目で確認して、二人の時に聞きたかった話題を、できるだけさりげなく切り出してみた。

「あのさー……」
「おう」
「原さんっているじゃん。文学部の」
「あー、何回か同じ講義だったことあんな」
「仲良い?」
「全然」
「連絡先知ってる?」
「知ってっけど」
「ふーん」
「おめーだって知ってんだろ」
「うん、まあ」
「歯切れ悪りーな」

 視線を逸らしながら、数日前の出来事を思い返す。


 その日は講義が午前のみだった。
 昼休みの後が空きコマだという諏訪くんとお昼を食べる約束をしていた。待ち合わせた学食に彼の姿はまだ見えず、窓際の席に一人で腰を下ろす。スマホを確認するが連絡はない。たぶん講義が長引いているのだろう。
 カレーを食べようと決めていたのに、ここにきて迷ってきた。日替わり定食を食べている人を見てしまったせいだ。チキン南蛮。おいしそう。テーブルの一点を見つめたまま悩んでいると、甘い香りとともに声をかけられた。

「ミョウジさん。久しぶり」

 原さんだった。こちらを覗きこむように微笑み、綺麗に巻かれた長い髪を揺らす。
 彼女とは何度か同じ講義を取ったことがある。親しいというほどではないが、まったく知らないわけでもない。道端でたまたま目が合えば会釈をするくらいの感じ。だから、こうして声をかけられて少し驚いた。

「ひとりでお昼?」
「友達と待ち合わせしてる」
「それって、もしかして諏訪くん?」
「うん。そう」

 私の返事を聞いた原さんは、長いまつ毛を伏せ、数秒置いてから口を開いた。

「前から気になってたことがあるんだけどね」
「ん?」
「ミョウジさんと諏訪くんって付き合ってるの?」

 一瞬、言葉に詰まってしまった。突然で、予想外で、不意打ちだったから。ていうかそもそも友達だとさっき言ったばかりなのに、なぜそうなるのか。

「ぜんっぜん。全然付き合ってないよ」
「ほんとに?」
「うん、ほんとに。普通に友達。そんな雰囲気みじんもない」
「でも仲良いよね」
「それはほら、ボーダーで一緒だからね」
「そっかぁ」

 私の目をしばらくじっと見つめた彼女は、「変なこと聞いてごめんね」と微笑んで立ち去っていった。その背中を呼び止めるでもなく、静かに見送るしかできない。
 原さんがなぜそんな問いかけをしたのかはわからない。ただの興味本位なのか、諏訪くんが好きなのか。わからないけれど、自分の中にモヤのかかった何かがじわじわと広がっていくのを感じる。
 なに変な顔してんだ。と、ようやく現れた諏訪くんに話しかけられるまで、私はその場で固まったままだった。


「ついに付き合い始めたの?」

 同じ日の午後、ケーキを持って玉狛支部に遊びに行った。大学の近くに最近新しくできたケーキ屋さんで買ってきたものだ。
 昼休みの出来事をぽろりと話すと、ゆりさんは弾んだ声でそう言った。

「ゆりさん、ちゃんと話聞いて。付き合ってないんだってば」
「あら。ごめんなさい」

 フフフと笑って、ゆりさんのフォークがケーキを丁寧に切りわける。このベイクドチーズケーキがお店一番のおすすめらしい。二種類をブレンドしているというチーズ部分はしっとりと口の中で溶けていき、底に敷かれたクッキー生地は食感が良くサクサクとしている。今度また買いに行こうと決めた。

「でも仲が良いのはその通りよね」
「別に諏訪くんだけじゃなくてみんなと仲良いよ」
「ナマエちゃんにとって、諏訪くんは他のみんなと同じってこと?」
「え、それはまあ……」

 もちろんそうだろう。と言おうとしたものの、言い淀んでしまう。
 フォークで刺したケーキを口に運びながら、ゆりさんはこちらを見ている。消え入りそうな声で「うん」と答えた私に、「そうなのね」と柔らかな微笑みが返された。それ以上は聞かれなかった。

「紅茶のおかわり入れるわ」
「うん、ありがとう」

 本当は、同じはずがない。なんとなく薄らと気づいてはいたのに見ないフリをしていた。だけどもう、自覚して向き合わざるを得なかった。
 それからずっと考えている。諏訪くんのことを。


「考え事か?」

 隣から聞こえた声にハッとして顔を上げた。急に黙りこんだ私を不思議に思ったのだろう。コンビニの明かりを受けた諏訪くんの鋭い目が、探るような色をしている。

「去年もこんなことあったなーって思い出してた」

 正直に白状するわけにもいかず、別の話を切り出して顔を緩ませる。

「夜中にコンビニでおでんとか肉まん買って、こうやって座って食べたよね」
「夏はアイス食ったしな」
「そうそう」

 じっとりとした暑さが残っていた夏の夜。あの時、諏訪くんがアイスの実を何個か分けてくれたのだった。お返しに私の棒アイスもひと口食べるか一応聞いてみたものの、いらねえと即答されたのを覚えている。
 飲み会帰りに寄り道したり、ファミレスでだらだらと過ごしたり、車でちょっと遠出してみたり。私がへこんだ時はすぐに察して焼肉に連れて行ってくれた。思い出せばキリがない。諏訪くんと過ごした記憶は、あまりにもたくさんありすぎて。

「……」
「なに見てんだよ」
「べつに」

 もし諏訪くんが、誰かと付き合ったら。少しだけ想像してみて、すぐにやめた。

「あ。牛すじ最後の一個」
「ジャンケンすっか」
「いいよ」

 ジャンケンポン、と出した一回目の手で勝負はついた。勝った諏訪くんが少しのためらいもなく、最後の牛すじを食べていく。恨みをこめた私の視線に効果などなかった。

「ニヤけながら食べないでよ」
「相変わらずジャンケン弱くて助かるわ」
「ムカつくんですけど」

 横顔を睨んだついでに、おでんの容器を持つ手を見つめる。骨ばった硬そうな手。この手に触れたこともなければ、自宅に招き入れたこともない。諏訪くんの家にはこれまで何度も行ったけど、一人で訪ねていったことはない。
 友達としての距離を保った関係だと思う。付き合ってるなんて、とんでもない。

「ごちそうさまでした。おいしかったー」
「鍋の後でも食えるもんだな」

 空になった容器をゴミ箱に放り込んで、諏訪くんがこちらに向き直る。
 帰るのかな。帰るんだろうな。もうこんな時間なのだから当然だ。きっとものすごく眠たいだろう。
 私はまだ帰りたくない。明日、というか今日、日勤シフトだけど。頑張って早起きするから、もう少し。冷えきった真っ暗な部屋に帰るのが嫌だというのもある。あるけど、それだけではない。

「あー、なんか……」

 暗い道路に視線をさまよわせた諏訪くんが、口を開いた。

「コーヒー飲みてえな」
「コーヒー……」
「飲みに行こーぜ」
「え? 今から?」
「おでん付き合ってやっただろーが。嫌とは言わせねえぞ」

 願ってもない提案を受けた私の瞳から、光がこぼれてしまってはいないだろうか。
 歩いてきた道を少し戻って、さっき一度通り過ぎたファミレスを目指す。何度もお世話になってきたドリンクバーのコーヒーを飲みに行く。今日のところはこれでもう充分すぎるくらいだ。
 うちで一緒にコーヒー飲もうよ、と誘う勇気はまだないけれど。次はきっと、言えるように。


2022.11.27
今夜一緒にコーヒーを/諏訪

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