夜の道をひとりで歩いている。目的地は近所のコンビニ。太陽はもうすっかり沈んでしまったけれど、昼間の茹だるような暑さはまだそこかしこに残っていた。
 なぜ私がこんな時間にこうして歩いているのかといえば、事の発端は母の言葉だった。明日の朝ごはん用のパンがない、と。買い忘れたらしい。

「べつになくてもいいよ。夏休みだし」
「ダメ、朝ごはんは大事なんだから」
「ないものはしょうがないじゃん」
「買ってきて」
「えっ」
「あそこのコンビニで」
「やだよ。暑い」
「お釣りで好きなアイス買っていいから」
「行ってくる」

 というわけである。数分前のことを回想しながら歩いているうちに、コンビニが見えてきた。入口から少し離れたところで集団がたむろしているのに気づいてウッとなる。ちょっと気まずい。かといって違うコンビニに行くほどでもない。景色に溶けこむ作戦でいこう。できるだけ存在感を消して、集団を見ないようにしながら、そそくさと自動ドアを通り抜けた。
 コンビニの中は冷房が効いていて、汗が滲む額や首筋もすぐに冷えていった。パンの棚にたどり着いて眺めていたら、入口のほうで再び自動ドアが開く音がする。だんだんと足音が近づいてきた。

「ナマエ」

 声が聞こえた方に顔を向けると、ユニフォーム姿の幼なじみが目をキラッキラと輝かせていた。

「悠!」
「やっぱりー! 入ってくの見えて追いかけてきた」
「部活帰り?」
「そ。ナマエは?」
「明日の朝食べるパン買いに来た」

 練習帰りによくコンビニに寄っているというのは聞いていたけど、まさか遭遇するとは。予想外の幸運に顔中ゆるみそうになる。お互いの家が近いといっても、バッタリ偶然というのは意外とあんまりない。
 私がパンを選ぶのを隣でジッと見ていた悠は、レジに並んでいる間に姿を消してしまった。どこに行ったのかと不思議に思いながらお金を払い終えると、彼は自動ドアの手前で待ち構えるように立っていた。

「もう帰んの?」
「うん」
「んじゃ一緒に帰ろ」
「え、でもみんないるんじゃないの?」
「あともう帰るだけだし大丈夫。花井ー!」

 大きな声に呼ばれて、たむろしている集団の中から一人、背の高い男の子がこちらへと歩いてくる。

「あんまフラフラすんなよー田島」
「オレ先帰るな。こいつ送ってく」
「は? こいつって……お、ミョウジさん」
「こんばんは」

 同じクラスの花井くんに挨拶をした。さっきまで眠そうだった彼の目はシャッキリと開き、興味深げな視線を私と悠に交互に向ける。そして最終的にそれを私へと着地させた。

「なんか久しぶり。終業式以来か」
「だね。試合で姿は見てたよ」
「あ、応援ありがとな」
「いえいえ」
「買い物?」
「明日の朝食べるパンを買いに」

 先ほどと同じ会話を花井くんとも交わし、ついでになんてことない雑談をしている間に、悠が自転車を押して戻ってきた。

「お待たせ。帰ろーぜ」
「そだね」
「じゃー花井、お疲れ! また明日な」

 元気よく手をあげてから先に歩いていく。その背中を追いかける前に花井くんを見上げると、パチリと目が合った。

「えーと、アレだ、暗いから気をつけてな。田島いるし大丈夫だろーけど」
「うん、花井くんも。また学校でね」
「おお」

 コンビニを背にして走り、少し先を歩いている悠を追いかけた。ゆっくり進んでくれていたから、追いつくのはすぐだった。隣に並ぶと、丸い瞳にじっと見つめられてなんだか照れる。ごまかすようにまわりの景色に目をやった。景色といっても、緑があるばかりだが。

「どこ見てんの」
「べつにー。それよりコンビニでいつもなに食べてるの?」
「いろいろだよ、肉とかパンとか。今日はおにぎり」
「このあと家でもごはん食べるんだよね」
「アッタリマエだろー」
「野球部すごすぎ」

 それだけハードな練習をしているんだというのは、野球部の関係者じゃない私でもわかる。毎日しんどい顔ひとつ見せず、むしろ楽しそうに野球に励んでいる悠の横顔を、尊敬の気持ちをこめて見つめた。視線の先の彼は「今日の晩メシなにかなー」と無邪気に笑っている。

「なに食べたい? 晩ごはん」
「うーん、ナスのはさみ揚げ……いやでもおととい出たから今日は違うよなー」
「好きだねえ」
「あ、そうだ。ナマエに頼みてーことあんだけど」
「宿題なら写させないからね」
「じゃなくて!」
「じゃあなに?」
「写すんじゃなくて。今度一緒にやりたいなーって、宿題」

 頼みごとの内容が意外なもので、私は返事の代わりに目をパチパチと瞬かせる。

「練習の合間にやったりしてるけど、それだけじゃ終わりそうにねーんだ」
「なるほど」
「頼む、このとーり!」
「うん。いいよ。一緒にやろ」
「マジ? ありがとーっ!」

 心の底から安堵したような声でお礼を言われた。そんな大袈裟な、と思っていたら、「見張っててもらわないと寝そうだからさ」とマジメな顔でぼやいていて笑ってしまった。たしかにそれはものすごくありそう。

「オレんちでやろうぜ。お母さんとか姉ちゃんもナマエに会いたがってたし」
「行く行く! 私も会いたい」

 悠の家族と最後に会ったのはいつだっけ。小学校、中学校、高校と進むごとに、お互いの家に行く回数は減ってしまった。自然なことだと思う。だけどもし、万が一。私たちが付き合っていたら少しは今と違うんだろうか。……大して変わらないだろうな、きっと。いや絶対。頭の中で出した結論に頷く。
 とにもかくにも夏休み中にまた会える。見えないようにこっそりとガッツポーズをしたはずがバッチリ見られていて、「それなに?」という追及をかわすのがちょっと大変だった。

 これは毎回のことなのだが、悠と歩く帰り道はどうしても短く感じる。本当にいつも通っているのと同じ道なのかと不思議に思うくらい違う。時空が歪んでいるのだろうか。うちの前で自転車を停める姿を見ながら、急に寂しさに襲われた。

「とうちゃーく」
「送ってくれてありがとう」
「どーいたしまして」
「……」
「どした? なんか言いたそう」
「いやあ。そういうわけじゃないけど」

 じゃあまたね、って言わないと。そう思うのになかなか言葉が出てこない。どこかの畑で鳴いている虫の音だけが、蒸し暑い空気に響く。

「悠が帰るの見送るから先行っていいよ」
「ナマエが家ん中に入ったらオレも帰る」
「ダメ、私が見送る」
「やだ」
「もー。これじゃあどっちも帰れないよ」

 私は正直、この時間がもっと続いてほしい。だけど悠は明日も部活があるわけで、早く家に帰って寝ないといけないわけで。寂しさをグッと堪えて、ここはこちらが折れることにした。

「わかった。そんじゃ私が先に家入るね」
「うん」
「じゃあまた……うわっ!」

 名残惜しくて何度も振り向いたりして、ちゃんと足元を見ていなかった。そのせいで段差に思いきりつまずいてしまった。よろけて傾いた体が前に倒れそうになる。ああ、これはコケる。他人事みたいに思っていたら、倒れるのとは反対方向に力強く引き寄せられた。表情に焦りを滲ませた悠が、私の手を握ってくれていた。

「だいじょーぶか!」
「……び、びっくりした」
「オレもびっくりしたー。怪我してねェ?」
「うん、してない」

 私の体を向かい合わせにして、隅々まで確認するように素早く目線を動かしてから、ふう、と大きく息を吐く。

「ごめん、ありがとう」
「いーよ。オレがいるときでよかった」

 汗ばんだ手のひらは、私の手を握ったまま離れない。どうしたのかと顔を上げると、まっすぐな瞳とぶつかってドキリとした。触れ合っている部分を急激に意識し始めてしまう。恥ずかしくて今すぐ手を引っ込めたいのに、ずっと離さないでほしいとも思う。どうしよう。なんか急にすごい、あつい。

「……」
「……」
「……なあ、あのさ」
「え、な、なに?」
「いや。やっぱなんでもねーや」

 いつものように明るくそう言った悠は、あっさりと手を離して笑った。まだ頭の中がぐるぐるしている私の背中を優しく押して促す。

「また連絡する」
「……うん」
「じゃーな、おやすみ!」

 朗らかな声に見送られながら家に入った。玄関の鍵を閉めて、長い長いため息を吐き出す。なんということでしょう。吐く息まで熱い。
 気持ちを落ち着けてから、何もなかったかのようにリビングに入る。おかえり、と出迎えてくれた母親が、私が買ってきたものを覗きこんで不思議そうに首を傾げた。

「買わなかったの?」
「ん?」
「アイス。お釣り使ってよかったのに」

 パンしか入っていないエコバッグを見てハッとする。ホントだ。私としたことが、アイスのことを完全に忘れていた。よほど浮かれていたんだな。さっきまでの自分を振り返る。
 仕方のないことだ。アイスよりも何よりも、もっとずっといいことに出会ったのだから。


2022.8.28

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